第8話 遊園地(第二部) 2 モナカ王国

 井口は不安を抱えたまま江梨子、月組長とともにモナカ王国へと旅立つことになった。前日には妻から印鑑の押された離婚届も送られてきていたのだ。すぐに電話したが、呼び出し音が鳴るばかりだった。本当に弱ったことになった。他に行ける人がいないため自分が手を挙げたこと、行くとしても年明けのつもりだったのに社長命令で十九日になってしまったこと、妻と子供を大切に思っていることを記し、帰国後すぐに連絡するので待っていてくれとメールした。

 出国手続きを終え、待合室で搭乗を待っていると見知らぬ同士の筈の月組長が側にやってきた。

「井口部長、ミッチーって奴のこと聞いたことありますか?」

「いや、知らない」

 全密連に勤めて一年九ケ月が経ち、年上ということもあってか月組長たちの井口に対する言葉使いが丁寧になってきていた。

「向こうの空港で会うのですが、ジャのミッチーって名前で太っちょだそうで」

「モナカ人?」

 多分、と月組長は勘左衛門との遣り取りを説明した。それは『蛇の道は蛇』だと井口が教えようとするが、月組長は慌てたように離れていってしまった。江梨子が戻ってきたのだ。月組長はあのスパイ事件以来、彼女に対する苦手意識が酷くなったようだ。江梨子と全密連本部の廊下ですれ違った際、廊下の壁にへばり付き横歩きをしたという噂があるぐらいだからよほどの鬼門なのだろう。

「もうすぐ搭乗ですって」

 井口と江梨子は翼のある辺りに並んで、月組長は離れて後ろの方に座席が予約されている。ボーディング・ブリッジを渡り飛行機に乗り込むと、ロイヤル・モナカ航空の客室乗務員たちが、「ラッシャイマセー、コーニチワア」と声を揃え笑顔で迎えてくれた。

 モナカ王国の首都であるサンタモナカへは週三便の運行で、約八時間のフライトであった。時差はマイナス二時間、二十日午前十一時に飛び立った飛行機は同日の十七時過ぎにサンタモナカ国際空港に到着する予定となっていた。水平飛行に入り機内食が出される。コーヒーのお代わりをして一息ついたところで、江梨子が話し掛けてきた。

「モナカ王国ってあまり見るところがなく、王宮とビーチぐらいみたいですね。観光開発も進んでいるとは書いてありましたが」

「遊びに行くわけじゃないんだから」

 モナカの話をされ、改めて首領の大切な用件だけにうまく行くだろうかと心配になってきた。招待状は王国の外務省宛に送付していたが同国には国王に関わる諸事全般を司る国王庁という官庁があることが判明し、そちらの方が手っ取り早そうだと考えていた。在モナカ大使館に国王庁の担当者を紹介してくれるよう便宜供与を依頼したところ国王が絡む話は無理だと断られていた。落ち着かない井口はモナカ語会話の本を見ることにした。子供用なのかタイトルは『モナカごかいわ』となっている。出発前、多忙を極めた井口が内籐に依頼して買ってきてもらったものだった。ページを開くと最初は『おはよう』であった。モナカ語では何と言うのかを見ると、『オハヨウカン』と書いてあった。えっ、と驚いたが、モナカ王国だけに甘いものが混じってくるのかと感心した。次の『こんにちは』は『コンニチワサンボン』だった。和三盆という高級な砂糖が混ざっているが、これでは月組長の怒洒落と変わらないじゃないかと怒ってしまった。

「ハクショーン」

 後部座席から大きなくしゃみが聞こえてきて、後ろを振り返ったが誰かは分からなかった。本に目を戻すと、『さようなら』は『サトウナラ』となっていて、その次は『ありがとう』だったが、(これは簡単だ。アリサトウだろう)と自信を持ってモナカ語の欄を見ると、なんと『タントサトウ』となっていた。確かに沢山の砂糖は有難いのだろうと、馬鹿らしくなってきた。安くってやさしそうなのがありましたと言って内藤が持ってきたのだが、内容まで確認して買った訳ではないようだ。この本は月組長もしくはその親族が書いたものに違いないと確信した。

「ハクショーン」

 再び、後方から大きなくしゃみが聞こえ、小柄な客室乗務員が後部座席へと向かった。

 飛行機は定刻より早くサンタモナカ国際空港五番ゲートに到着し、井口は腕を挙げ背筋を伸ばして席から立ち上がった。いよいよだ。

 入国手続きを終え到着ロビーで待っていると、少し遅れて月組長が出て来た。見知らぬ素振りをした彼は辺りを見回しながら、手に持っていたテンガロンハットを大仰な仕草で頭に乗せた。それが合図になっていたのだろうか、何処からともなく現れた三十半ばの小太りの男が彼に近付いていった。月組長は首を突き出すようにしてその男を見詰めていたが、やがて両手を前に出した。

「お前か、ジャのミッチーは」

(おいおい、ジャのミッチーがいる訳ないのだから)

 案の定、その男は左右にゆっくり首を振った。

(そりゃ、そうだろう)と思ったのも束の間、続いて縦に振った。

 井口は唖然とし、月組長は、「やはり、お前だったのか」と破顔した。左右に首を振ったのは周囲を確認するためで、『ノー』と言ったのでは無かったのだ。まさか本当に現実に存在したとは。

 月組長はジャのミッチーと肩を組んで歩き始めた。

「どうかされたの?」

 ぼけっと突っ立っている井口に江梨子が寄ってきた。

「世の中は何が起こるか分からない。私たちの仕事もうまく行くと良いのだが」

 二人はタクシーに乗りホテルへと向かった。レアアースの発見で財政的に豊かになったモナカ王国は近代化を推し進め、右肩上がりの経済成長を続けていた。都心に向かう高速道路は片側四車線で中央分離帯には立派な椰子の木が植わっている。こちらと違って右側通行となっており、走っている車は多くはないがほとんどが時速百数十キロメートルのスピードで走っていた。

 空港から二十分ほどでサンタモナカ・グランドホテルに到着した。


 翌二十一日月曜日、朝食を終えた二人はおもむろに着替えを始めた。国王に会える、会えないは別として正装が良いだろうと考えていた井口はモーニングコートを、江梨子は昼間ではあったが自身の魅力をアピールする大きく胸元の開いた深紅のイブニングドレスを着用した。国王の名前はワガシ、アン王妃との間にカワ王子という一人息子がいる。ワガシ国王は御年五十八歳だが子供に恵まれるのが遅かったため、カワ王子はまだ十歳とのことであった。

 王宮はサンタモナカの中心部にあり、南側の王宮前広場は多くの市民や観光客で賑わっていた。王宮と広場の間には幅四メートル程度の浅い水路が流れており、短いが立派な橋が架けられている。広場から橋を渡ったところに正門があり、その両側には衛兵が立っていた。王宮は鉄筋コンクリート造総二階建て、屋根は小豆色の瓦で葺かれ壁の色も淡い小豆色で全体として上品で重厚な感じを与えていた。正面二階にはバルコニーが設置されていて、行事の際に国王や王妃がそこにお立ちになるのだろう。

 目指す国王庁の建物は王宮前広場の西側にあった。正門の脇に小さな建物があって警備員が詰めているようだ。訪問先や目的など調べられるのだろうか。近付くと警備員が建物から出てきた。ここで追い返されたのでは話にならない。何も喋らず堂々と入っていくことにした。警備員が何か告げようとしたが正装の二人に気圧(けお)されたかのように姿勢を正し敬礼をしてきた。井口は軽く会釈をしてその前を通り過ぎる。来訪者は井口たちだけだった。いつ呼び戻されるかと不安で次第に体が強張ってきてぎこちない歩き方になっているのではと心配になってくる。

「私が甘~く通訳しますから、きっとうまく行きますよ」

 気を遣ったのか江梨子が囁いてきた。

「そうだね、僕は国王に直訴する方法でも考えるか」

 井口はハンカチで汗を拭いながら半分本気で答えた。

 正門から四十メートルほど歩き、数段の階段を上ると玄関である。中に入ると左右に延びる廊下があり、正面はエレベーターホールになっていた。ホールの向こうには中庭が見え、ホール中央の扉から庭に出ることが出来るようだ。警備員は居らず、壁の案内板を見ると建物はロの字形で廊下に沿って内側に執務室が配置されているようなのだが、モナカ語で書かれているため部署名は不明だった。

「どこかの部屋に飛び込んでみます?」

「とりあえず建物の中を見て回ろう」

 井口は江梨子を連れて右手の廊下を歩き始めた。執務室の扉が並んでいるだけで特に変わったところはなく、二度左に曲がって玄関の反対側に来た。玄関前と似たようなエレベーターホールがある。階数表示を見るとB、1、2とあり地階があることを示していた。一方、階段は二階に上がっていくだけで地階へのそれは無かった。

(地階には何があるのだろう)

 エレベーターの横に数字が並んでいるボードがあった。暗証番号を押さないと、エレベーターが使えない仕組みになっているようだ。井口は以前の職場で、保安上重要な施設や部屋への出入りに同様のものが使われていたことを思い出した。

(地下にはおそらく何かある)

 当てずっぽうで何回か数字を押してみた。しかし、何桁かも分からないのにうまく行く筈は無かった。引き続き、廊下を進んで玄関前のホールに戻ってきた。建物の中はとても静かで誰とも出会わなかった。念のため玄関側のエレベーターも確認したが、同じくナンバーロック式となっていた。

「どこかに入りますか?」江梨子が再度訊いてくる。

「そうだな」

 いつまでも館内を見て回っていても仕方がない。井口は深呼吸をしてから玄関右脇の部屋をノックした。

 室内(なか)では十人ぐらいの職員が執務をしていて一斉にこちらを振り向いた。正装の異国人に戸惑いの表情を浮かべている。江梨子に教えてもらった簡単な英語の口上を述べようとしたが緊張して出てこない。焦った井口の口から思いも寄らない言葉が飛び出した。

「コンニチワサンボン」

(しまった! 通じる筈はないのに)

 しかし、一番手前に座っていた若い係官が信じられない言葉を発した。

「コンニチワサンボン」

 にこやかな顔をして井口の前に立った。

(嘘だろう! あの本は正しかったのか)

 係官が続けてモナカ語で喋ってきたので江梨子が英語で話すと相手も英語で応えてきた。ちらり、ちらりと彼女の胸元を見ていた若い係官の顔が次第に曇ってくるのが分かる。

「ここが担当の部署で総務課だそうです。招待状への対応について外務省が指示を仰いできたと言っています。それで――一度文書で断ったものを変更するのは無理だと。井口さん、どうしましょう?」

「再度、お願いしてみてくれないか」

 係官は首を横に振っていたが、江梨子が品を作ってゆっくり喋ると、彼は何か言って部屋の奥の方へ行ってしまった。

「どうしたの?」

 断られたのかと心配になった井口は小声で訊ねた。

「お・ね・が・い、って英語で頼んでみたのです。そしたら上司の課長と相談するって」

 あの甘ったるい調子でお願いしたようだ。そんな甘い話はないと思うのだが、モナカだけに甘いものであればうまく行くのだろうか。しばらくして係官が課長のところに来るよう手招きをした。井口と江梨子は課長席の横にある来客用のソファに腰を下ろした。

「コンニチワサンボン」

 井口は自信を持って言ったが正面に座った不機嫌な様子の課長はそれには答えず、モナカ語を喋れないことを聞いていたのか英語で話し始めた。遠い国からわざわざ御苦労さまと外交辞令を述べた上で、どうしてこの建物の中に入れたのだと訊いてきた。警備員が通してくれたという返答を聞くと課長は一層不機嫌になり、舌打ちをして受諾できない理由を述べた。

「あなたの国の首相の発言が国王陛下のご機嫌を損ねたことはご存知でしょう。そんな国に我が国の子供たちを行かせる訳にはいかないのです。この決定は陛下も了解済みです。お引き取り下さい」

 このままでは帰れない井口は、もう一度国王にお話をしていただいて、とお願いをする。江梨子が思いっきり甘ったるい調子で通訳したが、この課長には甘くはなかったようだ。

「陛下に再度この話を上げるなんてとんでもない。私たちの首が転がってしまう。お話は以上です」

 課長は席を立った。為す術もなく立ち上がった井口は課長に一礼して部屋を出た。重い足取りで玄関まで進むと正門脇の詰所から警備員が飛び出してくるのが見えた。

(このままでは捕まって終わってしまう)

 後ずさりして後ろに目を遣る。エレベーターの扉が開き、中から大きな箱を抱えた職員が出てきたところだった。前が見にくいのに加え箱が重いためか、よたよたしている。井口は咄嗟の判断で職員の後ろに回るようにして扉が閉まる寸前、江梨子とともにエレベーターに滑り込んだ。一瞬、迷ったがBボタンを押した。エレベーターは地階へと動き出す。ふーっ、と大きく息を吐いた。

「ちょっと井口さん。なんで逃げるんですか?」江梨子だった。

「なんでって、警備員に捕まったらまずいじゃないか」

「逃げたらもっとまずいんじゃありませんか」

「う……」それもそうだ。が、地階に何かあるのではと気になっていたし、次の手を考える時間も欲しかった。

 扉が開くと、そこには照度を落とした広い空間があった。井口は急いで一階行きのボタンを押す。警備員が到着するまでにエレベーターが一階に戻り、扉が閉まっている状態になっていれば二人が地階に居るとは気が付かないと考えたのだ。目の前には文書保管用のラックが整然と並んでいて、棚の上には書類や箱などが置かれていた。地階は中庭の部分も含め建物全体の下が文書類の保管庫になっているようだ。少し涼しく感じたが照明だけでなく温度、湿度も適切に管理されているのだろう。いい知恵がすぐに浮かぶ訳もなく、井口は、地階を探索してみよう、と江梨子に告げた。

 右手の数メートル先に壁が見えた。エレベーターの位置から考えて、それは玄関側の壁と思われた。井口は左手、建物の奥の方へ行ってみることにした。静まり返った保管庫のなかで闖入者に対して突然、ラックが襲い掛かってくるような不安を感じながら、その間を足早に進んだ。江梨子もぴったりとくっ付いてくる。三十メートルほど進むと壁に突き当たった。右に向きを変え、壁に沿って歩くと壁は左に直角にさらに奥の方へと曲がっていた。

「井口さん、こんなことしててもしょうがないじゃないですか」

 江梨子の声が響く。

 もう少し、と井口は壁沿いに奥へ進んだ。今度は右に直角に曲がる。

(どうなっているんだろう?)

 天井を見上げ、足元を見る。変わったところはない。

「どうしたんですか?」

 江梨子の問い掛けには答えず、井口は突き当たったところまで戻り、その周辺を調べてみた。鼓動が速くなる。その部分の壁だけが凸の字のように他より突き出した形となっていたのだ。井口は、落ち着け、落ち着けと自分に声を掛ける。壁の向こうは玄関反対側のホールの下に位置する筈だ。とすればエレベーターは地階に通じているのに保管庫に出入りできないのは何故だろう。別の用途に供されているのだろうか。井口は、国家的に重要な施設には脱出用などの秘密の通路が存在する、と書かれていた本のことを思い出した。壁が開くような仕掛けがないかと探してみるが見当たらなかった。壁に耳をつける。しばらく澄ましていると話声が聞こえ、誰かがこちらの方に近付いてくるようだ。

(国王庁と王宮を結ぶ地下通路が存在する可能性がある)

 もしも、王宮から誰か来るとすれば、その人にお願いするしかない。

「これからエレベーターで一階に行く。降りたらすぐに中庭に出て反対側のホールまで全速力で走るから、そのつもりで」井口は命令口調になった。

 一階に着いて扉が開くと、階段の下で二階を見張っている二人の警備員が目に入った。エレベーターを降りた井口はホール中央の扉を開け、江梨子の手を引っ張って中庭に飛び出した。地階から上がってくるとは考えてもいなかったのだろう。気付くのが遅れた警備員は大声を上げ追い駆けてきた。反対側のホールまでは三十メートルぐらいの距離だ。井口は中庭の通路を必死で走った。イブニングドレスの裾をたくし上げ並走している江梨子も全密連の試験に合格しただけのことはあって結構速い。大きな胸がドレスを破らんばかりに激しく波打ち揺れている。

 ホールに人影が見えた。エレベーターから三人の男が降りてきて、一人がそれを出迎えている。三人の内二人は残る一人を警護するような位置に立っている。その一人が国王でなくとも王族の可能性があると考えた井口は、こちらに気付いてもらうために何かをしなければと思った。

「コンニチワサンボン!」あらん限りの声を上げていた。

 警護されている男がこちらを振り向く。井口ではなく、どちらかというと江梨子の方を見ているようだ。ホールの扉に今一歩というところで井口は後ろから肩を掴まれてしまった。正装ではいつものように走れなかった。江梨子も押さえられてしゃがみ込み、ぜいぜい言っている。「コンニチワサンボン!」と再度叫んでみたが、ホールにいた男たちは何事も無かったかのように立ち去っていった。

 駆け付けた警備員たちに両側から腕を取られた二人は引き摺られるようにして詰所まで連行され、窓のない狭い部屋に閉じ込められてしまった。大変なことになった。

「だから、逃げたら駄目って言ったじゃないですか」

 江梨子は玄関ホールのエレベーターで地階に下りたことを責めているのだ。彼女の語気の強さに返す言葉もなく、井口はすまないと詫びるほかなかった。何とかしたいとの思いが強すぎたのだろうか。しばらくして英語の話せる警護課の係官がやって来た。

「あなた方はとんでもないことをしてくれましたね。国王陛下も驚いておられたようです」

「えっ、国王陛下だったのですか。申し訳ありません。何とか私たちのお願いを聞いて頂こうと思ったものですから」

 井口は他に良い方法が無かったのかとも思うが今更どうしようもない。国王はどこかに出掛けられるところだったのだろうか。

「あなた方には何らかの処分が下ることになると思います」

 いきなりの宣告だった。自分でも顔色が変わったのが分かった。昔の時代、直訴は極刑に処せられたという話もある。

「私たちはどうなるのですか?」

「転がることになるかもしれません」

「首がですか?」井口は慌てる。

「いえ、胴体です」

『針の筵(むしろ)』の上をごろごろ転がってもらう、とのことだった。本当に針の筵があるのかもしれないと思った井口は、そうなるとすれば私が二度転がりますから彼女は勘弁してもらえませんかと願い出ることにした。

「残念ながらそれはできません。厚手の服を着て転がるのですから少し痛いぐらいで大丈夫ですよ。その後、出国命令が下されると思います」

「出国ですか」

 井口はがっくりと肩を落とした。モナカに着いて一日も経っていない。意気込んで来たのに……。

「やるだけのことはやったじゃないですか」

 今度は江梨子がやさしい言葉を掛けてくれる。そう言ってくれればと口にしたとき総務課の係官が走り込んできた。息せき切っての彼の言葉に江梨子は顔を輝かせる。

「国王が会って下さるって!」


 井口たちは警備員の敬礼に見送られ、総務課係官の先導で国王庁二階の長官応接室に案内された。

「国王陛下がお二人のお話を聞いて下さるそうです。陛下のお出掛け先から連絡が入りました。遊園地への招待を受諾されるかどうかは分かりません。戻られるまでもう少し時間がありますから、どうぞここでお待ち下さい」

 と係官が状況を教えてくれた。やはり出掛けられるところだったのだ。王宮の方から出られるのが普通だとは思うが……。

 井口はどうして国王に会えることになったのか不思議でその理由を知りたかったが、まずは警護課の係官が話していた処分のことを訊ねた。

「胴体転がりの刑や出国命令はどうなるのでしょうか?」

「陛下がお会いになる以上、処分されるようなことはありません。実は」と入口に目を遣り、「お忍びのお出掛けだったのです。処分することになればお出掛けが王妃陛下のお耳にも入ってしまいます。特に、今宵は六時からカワ王子殿下の誕生パーティが開かれます。揉め事は避けないと」

 自分のことのように恥ずかしげに微笑んだ。

「かわいい!」

 江梨子は普段の調子を取り戻し、早速、名前を訊いたようだ。

「ミッチェルと言います。サのミッチーと呼んで下さい」

「ミッチー?」

 井口は思わず叫んでしまった。まさかとは思うが、あのミッチーと関係があるのだろうか。とりあえずモナカにはミッチーという名前の人が多いのかどうかを江梨子に質問してもらった。

「私たちはこの島の元からの住民ではなく数百年ほど前、大陸から渡ってきた者の末裔なのですが、その人たちはミッチェルと言う名前が多いのです。それでミッチェル、愛称でミッチーですが同じミッチーを区別するため頭に例えば私の場合はサッカーが得意なので、そのサを付けて『サのミッチー』と呼ばれています」

 だからジャのミッチーもいる訳だ。そのミッチーは何が得意なのだろうか。ジャズかジャグリングか。気にはなるが、それよりどうしても確認したかったことを訊ねた。それは『コンニチワサンボン』がモナカ語で『こんにちは』なのかどうかであった。

 サのミッチーが済まなそうに言うには、『こんにちは』や『ありがとう』などの極めて簡単な言葉だけは知っていて、井口が『こんにちは』に『サンボン』というモナカ語をくっ付けて喋ったので、わざとそう言ったのかと思い同じように応えたとのことであった。『サンボン』はモナカ語の丁寧な言葉で『ございます』という意味であり、『コンニチワサンボン』は彼にとって『こんにちはでございます』と言われたようになっていた。やはり、あの本はインチキだったのだ。

 やがて、総務課長が王宮から呼び出しがあったことを伝えに来た。


 秘書官が両陛下のご到着を告げる。井口と江梨子は低頭した。

 広間に入ってこられた国王は王座には座られず、五、六メートルほど離れたところに控えた井口たちの方にどんどん近付いてきた。王妃が咳払いをされたが、構わず江梨子の前に立たれる。国王には首領のそれとは比較にならないほど立派な口髭、髪の毛は結構黒いのに真っ白な口髭があった。

 井口は深くお辞儀をし、江梨子は片足を後ろに引き、背筋を伸ばしたまま膝を曲げゆっくり腰を落とした。すると、その腰を落とす動きに合わせるように国王の頭が下がっていき、お辞儀をされたような格好となった。そして江梨子が腰を上げるに連れ、国王の頭も上がっていった。元に戻り正面を向かれたとき井口は仰天した。立派な白い髭がピンク色に染まっていたのだ。それを見た王妃が国王の後頭部に空手チョップを放たれた。国王の頭が前に傾ぎ、戻る。今度は髭が真っ赤になった。畏れ多くも国王がお辞儀をされたように見えたのは江梨子の胸元を覗き込んでおられたのかもしれない。胸の大きな女性がお好きなのか。とすれば会って頂けることになったのは国王庁の中庭で波打ち揺れていた彼女の胸のお陰ということになる。井口はその胸元に目を遣り、そっと感謝した。気付いたのかどうか分からないが、江梨子が、

「秘書官が早くお願いをしなさいって」と叱るような語調で言ってきた。

 井口は姿勢を正し、遊園地の開園を記念して世界各国から子供たちを招待し、将来を担う子供たちの交流を通じて各国との友好親善を深めたいと考えていること、そのためにもモナカ王国の子供たちに是非参加して欲しいと、株式会社MZレクリエーションの社長が強く願っていることを申し述べた。国王は微笑み頷きながら聞いておられたが、王妃はずっと難しい顔をされたままだった。

 お願いが終わったところで秘書官が両陛下のご退室を告げる。招待受諾の可否は、後ほど秘書官を通じて回答するとのことであった。無事にお願いを申し述べることが出来た井口は、ほっとして全身の力が抜けたようになった。国王のご様子では遊園地への招待をご了解していただける可能性があるように思えたが、余り良い印象ではなかったであろう王妃のご判断が気懸かりであった。と言うのもあの空手チョップを見ればお二人の力関係は一目瞭然で、王妃がノーとおっしゃればノーとなるに違いなかった。今度は国王の『大きな胸がお好き』が災いになるかもしれない。国王に直接お願い出来たのに、と落ち込んだ気分となった。

 お見送りのため井口が頭を低くし、お二人が向きを変えて歩き始められたとき、広間の照明が一斉に消えてしまった。停電だ。王宮のような重要施設には複数の電力系統が確保されている筈なのだが、ここはそうなっていないようだ。しばらくして自家発電設備が起動し、非常用の照明が点灯したが、さほど明るくはならなかった。

 王妃がヒステリックな声を出され、国王も何かおっしゃったようだ。停電という電力サービスに関わることだけに気になった井口は、江梨子にどのような遣り取りかを訊いてもらうことにした。

 サのミッチーによると、

「今宵はカワ王子のお誕生パーティがあるのよ。早く何とかして」

 と王妃が言い、それを受けて国王が秘書官に問い質されたのだそうだ。

「あの者、名前は――顔は出てくるのだが、北の大国から来ておる美味(おいし)そうな名前の者は然るべく対応しておるのか」

「はい、カニスキーでしょうか?」

「おお、そうだ。テッチリヤノフ・カニスキーだ」

 モナカ王国では電源開発や送変電設備など電気事業に関して北の大国から支援を受けていて、テッチリヤノフ・カニスキーを団長とする技術顧問団が駐在しているのだという。

「彼は今、休暇を取って本国に帰っております」

 秘書官が言いづらそうに国王に答えたそうだ。

「何! 休暇は取らない筈ではないのか」

「御意。王室の公式行事は勿論、王子殿下のご誕生パーティなどの公的行事の際にも不測の事態に備えて休暇は取らず待機しておる約束になっております。家族が危篤の場合などは別でありますが」

「では、どうしてなのじゃ」

「何でも子息の父親参観があるとか」

「そのようなことは理由にならないであろう。あの国は平気で約束を破りおる」

「御意。しかしながら、カニスキーの部下の技術者がおりますので対応しているものと思われます」

 停電は復旧しておらず、王妃もおろおろしておられるご様子なので、井口が電力技術者であり必要があれば復旧の手助けをさせて頂くことを江梨子から秘書官に伝えてもらうことにした。秘書官は、「御心配には及びません。北の大国の技術者がやってくれますから」と断ってきた。北の大国から支援を受けているのに、突然やって来た他国の人間に助力を頼む訳にはいかないのだろう。両陛下が退室された後、サのミッチーに頼んで確認してもらったところ広範囲に渡って停電しているとのことであった。そうなると変電所で事故が発生した可能性が高い。電力技術者としての血が騒ぐが、会っていただいた両陛下のお役に立ちたいという気持ちもあった。井口は現場にだけは行ってみようと思い、サのミッチーに変電所の位置を訊ねた。

「確かラシット通り七番地に電力公社の変電所があった筈です。車で十分ちょっとの距離です」

 カワ王子の誕生パーティが始まる午後六時まであと三時間ちょっとだ。事故の内容に依っては間に合わない可能性だってある。井口の足は自然と走り出していた。王宮前広場前面の道路まで来て、タクシーを止めようと手を上げた。こんなときに限ってなかなかつかまらないのだ。車道まで出ていくとクラクションが二回鳴り、左側から走ってきた一台の車が井口の前で急停車した。慌てて一歩下がる。何と助手席にジャのミッチーが座っていた。彼が井口のことを知っている筈はないのだから――やはり、運転席から月組長が降りてきた。

「どうかしたんですか?」と組長。

 井口は慌てて目配せをする。いずれはばれるのだろうが、今はジャのミッチーに我々の関係を悟られるのは好ましくない。激しく瞬きを繰り返した。

「あれ、奇遇ですね。郊外に出掛けるところだったのですが、井口部長さんはどちらへいらっしゃるのですか? 良かったらこの車に乗られま――すか?」

 ようやく気が付いた月組長は丁寧な言葉に改めた。後ろにいた江梨子にも気付いたらしく当惑の表情となったが、まずは乗せてもらうことにしよう。井口は、

「国王庁からなのですが、停電のためラシット通り七番地の変電所に急がねばならないのです。是非、御願いします」  

 とジャのミッチーの耳にも入るような声で、国王庁の用務であるかの如き言い方をして、江梨子とともにそそくさと後部座席に乗り込んだ。    

 運転席に戻った月組長はジャのミッチーに経路を確認してすぐに車を発進させてくれた。上半身が大きく後ろに仰(の)け反る。思いっ切りアクセルを踏み込んだようだ。卓越した運動神経と華麗な運転テクニックで『運の月』と呼ばれるだけあって、井口たちとは飛行機の中で知り合ったと、また助手席の男性は取引相手の貿易会社に勤めているミッチェル氏で我々の言葉が話せるとそれぞれを紹介しながら不慣れな右側通行を物ともせずスラローム宜しく次々と追い越しを仕掛け、変電所を目指して突っ走っていった。

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