第3話 水泳学校
井口が研究室に向かって階段を上って行くと、首領室の入口のところに勘左衛門が立っていた。首領室は本部の二階にある。同じく二階に総務組があり、一階には業務組と資機材の開発等を行う作業場及び倉庫があった。
勘左衛門はドアを開けたまま、何か喋っている。興味を引かれた井口はそっと廊下を歩き、彼の右斜め後ろで立ち止まった。勘左衛門の身体越しに室内の様子が何とか見てとれる。廊下側の反対、部屋の窓側に会議用の大きなテーブルがあり、窓側左奥の隅に首領用と思われるデスク、デスクの前の左手廊下側に応接用ソファの一部が見えた。それよりもなにも井口が驚いたことには首領室の床の上に多数の帽子、テンガロンハットが散乱していたのだ。
「ですから首領様、水泳学校を設立して下さい」
勘左衛門の声が大きくなった。
「首領様はやめろ、首領でいい。水泳学校? それを言うならスイミングスクールだろう」
首領の声だ。
「ええ、首領様、いや首領。そのスクールで結構ですので是非」
勘左衛門は前に歩み出したが、落ちている帽子の手前で止まった。首領の側(そば)まで行くつもりはないようだ。帽子を避けて行くのが面倒なのかもしれない。
首領の姿が見えた。テンガロンハットを被り、応接用ソファに深々と腰掛けている。今は亡き創業者の息子で、まだ三十過ぎの独身とのことであった。ソファの前のテーブルの上にはテンガロンハットがうず高く積まれていた。
「首領! この計画には水泳学校が必要なのです」
密輸の計画の話のようだ。これ以上、立ち聞きをするのは気が引ける。井口は離れることにした。
研究室の自席に着いた井口は、いつものように与えられたテキストを広げた。一つは『初めての密輸』で、もう一冊は『試験に受かる・図説密輸史』であった。あと三冊、学ぶ必要があり、二ヶ月後にはペーパーテストもあるという。内藤ならまだしも、この歳になって試験勉強をしないといけないとは情けない。『密輸技能士』などといった国家資格がある訳でもないのに。
「井口さん、また、ぼやいてる」
江梨子が笑っている。
「綾瀬さんは大丈夫なの?」
「内藤君を頼りにしてるから」
意味不明の答えが返ってきた。
「君たち、名前は駄目だろう。番号で呼ばないと」
先輩社員に注意された。
午後になって内藤が出社し、井口たち三人は所長室に呼ばれた。入るところで花組長、月組長と一緒になった。
「そろって来たか」
勘左衛門が顔を上げる。丸眼鏡の片方のレンズが無かった。
理由(わけ)を訊ねる井口に、勘左衛門は返答せず、
「新1号たちに来てもらったのは他でもない。新しい密輸方法について、言わば素人としての君たちの意見を聞きたいのだ」
とその内容を説明した。
相手国の船が陸地に近付いて荷揚げする方法や沖合でこちらと相手の船が接触して行う瀬取り方式は取締りが厳しいなか危険となったため、人が泳ぐことも取り入れた方法を考えた、という。
「泳いで? 所長、それはいくらなんでも無理じゃないですか」
内藤が呆れたように言う。
「勿論、船は使う。但し、怪しまれることがないところ、停船ポイントと呼ぶことにするがそこに停めておき、そこから泳いで相手の船を目指すのだ。どうだ新1号」
井口が余りに単純な方法に何と言ってよいか分からず戸惑っていると、月組長が口を開いた。
「もう失敗は許されないのです。うまくいくでしょうか?」
今の首領の代になってからは、まだ一度も密輸に成功したことがないという。創業者の遺産で何とか全密連を維持してきているというのが実態のようだ。勘左衛門が以前、密輸している物を明かさなかったのは答えようがなかったからかもしれなかった。
「どう思う? 新2号」
勘左衛門は月組長の問い掛けに直接答えず、江梨子に振った。
「よく分かりませんが、人の手と足でやるのだから確実かもしれませんね」
上手に言うものだ。井口は、俺もこのくらい言えればリストラされなかったかもしれない、などと思ってしまう。
「そうだろう。そうだろう」
心の中を読まれたかと、井口はどきっとしたが、江梨子の返答に相好を崩した勘左衛門は丸眼鏡に手をやった。その拍子に残っていたレンズが枠から抜け落ちる。掴もうとした手をすり抜け、床に激突してひびが入ってしまった。
「首領様のテンガロンハットのせいだ」
今度は訊きもしないのに勘左衛門が喋り出した。
「新1号なら知っているだろう。かなり昔になるが、テンガロンハットを被った外国人の俳優が出ていたコマーシャル番組」
記憶を手繰った井口は、
「帽子掛けにテンガロンハットを投げる場面がある、あの化粧品のコマーシャルでしょうか?」
「そうだ。首領様が生まれる前のことだから、知っておられる筈はない。多分、創業者様が真似てやっていたのを真似されたのだ」
首領が座っていたソファから五メートルは離れているだろうか、首領室のドアの横には帽子掛けスタンドが置いてあった。ソファからそれに、テンガロンハットをうまく投げ掛けようと凝っているのだそうだ。今回も、『理(わ)解(か)った』と首領が計画を了承したところで、テンガロンハットが飛んできた。首領が投げたものだけに避けるべきか、避けざるべきか迷っているうちに勘左衛門の鼻に当たり、帽子とともに丸眼鏡も床に落ちて、片方のレンズが外れてしまった、という。床が帽子だらけの理由が分かった。首領はよほどへたくそで失敗ばかりしているのだろう。
「皆には新たな方法を理解してもらったと思うが、よいかな?」
「ブツはどう運ぶのです? 濡れてしまいませんか」
待ってくれとばかりに月組長が勘左衛門に質問する。
「海水パンツの裏側に、マジックテープで開け閉めができる大きめのポケットを付けておくのだ。防水の袋にブツを入れ、そのポケットに仕舞えば濡れる心配はない。一度に多くは運べないから、何回か行き来する必要があるかもしれないが」
内藤が手を挙げる。
「泳ぎの達者な人が要りますよね」
「その通りだ。水泳訓練のための学校を開こうと考えている。そこで金は掛かるが水泳学校用のプールが必要となる」
「所長、プールなんか要りませんよ。すぐ近くに海があって、それに密輸には海を泳がないといけないんだから海で訓練すればいいじゃないですか」
どうしてプールなのだ、という思いからか、内藤は一気に捲し立てた。
その発言に渋い顔をしていた花組長が手を叩かんばかりに喜ぶ。
「金も要らないし、それがいいぞ。さすがだな、新3号」
勘左衛門は、「そういう考え方もある」と受け流し、「新2号、君はどうかね?」と江梨子に訊ねた。
「大勢の男の人が頻繁に集まって海で泳いでいたら怪しまれるわ。それに海は荒れたりするから、何時でも泳げるプールの方がいいと思うけど」
「そうだな、やはり海でという訳にはいかないだろう」
「プールですか。ただでやれると思ったのに――しかし所長、屋根が無いとプールでも雨風のときは困りますよ。どうせなら海で」
肩を落とした花組長が反撃を試みる。
「そうか、屋根が要るか。すると屋内プールじゃな」
「ええ! 屋根まで。また金が掛かる!」
自分の発言で、逆に費用が嵩むこととなった花組長は苦り切った表情となった。
「屋内プールであれば外から見られる心配も無いし、あとは何メートルプールにするかじゃ」
勘左衛門は構わず話を進める。
「二十五メートルでどうでしょうか。この長さで短水路ですが世界選手権も行われているのですから」
恐る恐るという感じで花組長が進言したが、
「それじゃ練習にならないわ。五十メートルはないと」
江梨子にあっさり却下されてしまった。
「長距離を泳がないといけないのだから五十メートルは必要だな。プールでみっちり訓練をして、最後の仕上げをこっそり海でやることにすればよいだろう。どうだ、新3号」
「分かりました」と内藤は頷き、「でも所長、どうせ造るのならどこにも負けないようなプールにしましょうよ。百メートルプールとか」
「勝手にしろ~」
悲鳴にも似た花組長の声だった。
夏になり、全密連本部の広大な敷地の一角に、五十メートル一センチ、国際水連非公認の屋内プールが完成した。余分の一センチは百メートルプールは無理としても、一秒でも一センチでも上回れば世界新記録なのだから、という井口の提案に基づき、特別に一センチメートル長く設計されたものであった。内藤もあのオリンピックプールに勝ったと納得した。
町内の水泳大会で十年連続優勝という不滅の記録を打ち立てた選手をコーチに招いて訓練が始められることになり、井口はその様子を見ようと内藤を誘いプールへと出掛けた。屋内は熱気が充満していて、特製の海水パンツを着用した月組の社員たちがプール長手方向の両側に立ち並び、コーチの登場を今や遅しと待っている。月組長を始め首領、勘左衛門、花組長も出席していた。井口は勘左衛門の側に立った。
プール入口の扉がゆっくりと開けられる。
皆の視線が注がれるなか、登場してきたのは真っ赤なビキニ姿の女性であった。溢れんばかりの大きな胸が、歩くたびにプルンプルン揺れている。腰のくびれも申し分なく、グラビアアイドルそのものと言っても過言ではない。あの『だるま食堂』も真っ青というボディだ。
「コーチじゃないぞ。誰だ、あの女は! 誰が入れたのだあ~」
月組長が上ずった声を出した。
屋内は一瞬、静まり返り、
「あれは新2号じゃないか」
「新2号だ!」という叫びに続いて、「おぉ~!」と大きな感嘆符の付いた驚きと歓呼の声が渦巻いた。
「だぶだぶのワンピースの下にあんなボディを隠しておったのか」
隣の勘左衛門だ。
江梨子はゆっくりプールまで歩き、そのまま流れるように飛び込んだ。次の瞬間、立ち並んでいた社員たちも我先にと飛び込んでいった。頭や体がぶつかる音が響きプールの中は大混乱となったが、今度は後ろで何かが倒れる音がした。井口が振り返ると内藤が口から泡を吹き、鼻血を出して引っくり返っている。身体も小刻みに震えていた。呼ぶことは出来ないだろうが救急車が必要かもしれない。首領は座っていたデッキチェアから大きく身を乗り出したまま固まっていた。それを見た勘左衛門が、「まずい」と呟いた。
江梨子は五十メートル一センチを泳ぎ切り、既にプールサイドに上がっている。
「皆、早く上がれ。訓練はこれからだぞ!」
月組長が我鳴り立てた。
何とか初日の訓練も終り、井口は勘左衛門と一緒に所長室に戻った。
「大騒動だったな。新2号は一体、何を考えておるのだ」
彼女を非難するが勘左衛門の頬は緩んでいる。
井口はプールで勘左衛門がまずいと言った理由を訊ねた。
「あのことか。誰にも言うでないぞ。実は、首領様は胸の大きな女性が大好きなのだ。首領室に入った際、『デカパイ総まくり』や『丸出しGパイ』などと書かれた雑誌を慌てて隠すのを何回か目撃しておる」
江梨子の姿態は独身でもある首領にとって衝撃的であったに違いない。
「やはりあの後、首領様から新2号を秘書にしてくれと言ってきた。既婚者だと知っておられる筈だが、間違いがあってはいけないので研究所で必要な人材だからとお断りしておいた。それに五十メートル一センチの提案は君が柔軟な発想力を持っていることを示した。当初の予定通り君たち三名は引き続き研究所で頑張ってもらうことにしよう」
そこへ月組長が入ってきた。
「所長、新2号は泳ぎが達者でしたね。びっくりしました」
「驚いたのはそれだけかね。私からも話があるのだが何の用だ?」
「それが――」月組長はもじもじしている。「実は、その」
「何だ?」
「あの、その」
「はっきりせんか!」
勘左衛門が活を入れる。
「泳ぎの達者な新2号を月組配属として、水泳のコーチにして頂きたいのです。月組全員の希望でもあります。場合によっては今回の仕事に使うという手も」
「馬鹿なことを言うな。コーチなどにしたら訓練どころでは無いわ。新2号は引き続き研究所に配属と決めたところだ」
「それはずるい!」
「何がじゃ。そんなことより組長、月組の規律が緩んでおるのではないか。規律と礼儀作法は徹底するようにしてくれ」
それから一ヶ月、訓練は無事終了し、月組長と水泳の成績優秀者たちを乗せた船が出航することとなった。船は創業者が接客用を兼ねて購入した広いサロンやベッド付きのゲストルームを有する全長約十五メートルの豪華なクルーザーである。真っ白な船体の前方には『ZMR』と全密連のイニシャルが紺色で書かれていた。
この方法による最初の仕事とあって勘左衛門も同乗しており、井口は首領とともに桟橋まで見送りに来ていた。クルーザーの出港を見守った首領は満悦の様子でテンガロンハットを投げ、髭を撫でて呟いた。
「U~N、MANZOKU!」
*
停船ポイントを目指しクルーザーは順調に航行している。勘左衛門は船内にいても落ち着かないとデッキに出て海を眺めることにした。月組長もついてくる。天気は良いのだが風が強かった。
「天気晴朗なれども波高し、全密連の興廃この一戦にあり、と言ったところですかね。全密連の興廃は所長のご高配と仕事を実行してくれる後輩に懸っておりますから」
駄(だ)洒落よりかなり下の、聞かされた方が怒ってしまうという『怒(ど)洒落』を言って月組長が一人笑っている。勘左衛門は風が強いのをいいことに聞こえない振りをしていた。実は月組長は敏捷性に優れ卓越した運動神経とF1レーサー並みの華麗な運転テクニックを有していることから、この業界では『運の月』と呼ばれ恐れられていた。仕事は出来るのだが、その一方で体格に似合わずおっちょこちょいで女性に弱いという難点も知れ渡っていた。
「ところで所長、相手の船はちゃんと来てくれるのでしょうね?」
初仕事ということで相手組織との事前の打ち合わせも勘左衛門自らが買って出ていたのだ。
「大丈夫だ。それぞれの停船ポイントを始め手筈はきっちり説明してある。お互いその通りに進めれば問題はない。前にも言ったが、ここでの無線のやり取りは傍受される恐れがあるからやらないように」
「承知しました。停船ポイントまではもう少し時間が掛かりますから」
勘左衛門は月組長に誘われ、メインサロンへと戻った。
陽が沈み、しばらくしてコックピットから停船ポイントに到着した旨の連絡が入った。ブザーが鳴り船内に緊張が走る。そこへデッキの見張りが駆け込んできた。
「相手の船が視認できません」
「何? もう一度よく見ろ」
月組長が怒鳴る。その二人とともに勘左衛門もサロンの外に出る。
「やはり見えません」
「所長、どういうことですか?」
「少し遅れているのかもしれない。心配することはない」
「では所長のお言葉を信じて準備を始めさせます。直ちに出動準備に入れ」
007号を始め水泳の成績優秀者が後部デッキに飛び出し、準備体操を始めた。既に特製の海水パンツ姿だ。長距離を泳ぐことになるため、007号の掛け声のもとかなり念入りに行っている。
「準備完了しました」
「了解。どうだ、船は見えたか?」
「まだ――あれ! 左舷前方に巡、巡視船!」
見張りが狼狽した声を上げた。
「巡視船? 船が違うではないか。どうなっているんだ!」
組長はすぐさま双眼鏡を眼に当てる。
「こっちに向かってくる」
勘左衛門もそれを借りて確認する。まだ距離はあるが巡視船の船首が正面に見え、サーチライトを点けていた。月組長が、「逃げましょうか?」と寄ってきた。下手に動くとかえって怪しまれる。勘左衛門は、じたばたするなと制した。
「分かりました。ただ、いつでも発進できるように準備はしておきます。007号たちは船内に戻れ」
巡視船はさらに近づいてくる。勘左衛門は腹を括った。こっちは動かない。動くならそっちが動けと。すると思いが通じたのか、巡視船が大きく舵を切った。何かを追いかけていたのだろうか。やがて、ライトを消した巡視船はそのまま去っていった。助かった。最悪の事態は免れたようだ。デッキに安堵の空気が流れる。
「所長、しばらく様子を見てから実行に移しますか?」
月組長はやる気満々だ。どうするか。揺れ動く黒い海面は勘左衛門を不安にさせる。
「ここに留まっているのはよくない。巡視船が戻ってきて臨検でもされたら大変だ。残念だが今回は引き揚げるとしよう」
「そんな! ここまで準備したのに。それに相手の船も来るでしょうに。どうするんですか!」
「組長の気持ちは分かるが、相手組織には後ほど私からよく謝っておくから」
「このところ仕事がうまく行っていなくって部下は苛立っているんです。引き揚げるなんて納得しませんよ」
「次の機会を考えるから、ここはなんとか我慢してくれないか」
勘左衛門は頭を下げた。
月組長は黙ったまま後ろを向くと、
「引き揚げだ」と叫んだ。
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