第2話 序 章
「密輸による密輸の――もとい、密輸の――」
少し惚けが始まっているのかもしれない。密輸、密輸ばかりで話が進まない。
「密輸の――密輸による密輸のための学問、ということについて少し述べておく」
ようやく言えたようだ。
「この研究所の運営資金はどこからか湧いてくるものではない。密輸の研究に励み、密輸によって儲けた金で運営していかなければならない。これが密輸の密輸による密輸のための学問と言われる所以である。ところでこのところ密輸はうまく行っておらず、全密連は重大な岐路に立たされている。取締りが厳しくなり従来のような方法で密輸を行うことが困難となってきているのだ。そこで密輸を如何に行うかが課題となる。我々はこの問題を研究していかなければならない。諸君に期待するものは大きい」
付属研究所の入所式である。研究所が併設されている全密連本部の三階にある会議室を兼ねたホールで、六十は優に越えているであろう丸眼鏡の老人が井口たちを前に歓迎の挨拶をしていた。背広姿の井口の隣には淡い黄色のスカーフを巻き、だぶだぶのワンピースを着た江梨子が、その隣に今どき珍しい詰め襟の学生服の内藤が座っている。井口は丸眼鏡の老人の話を真剣に聞いていたが、自分たちを見る目に一抹の不安が宿っていることを見逃さなかった。
全密連の本部は海沿いの街のはずれにあった。海に並行して走る国道から少し山側に入ったところに、古びた鉄筋コンクリート三階建てのビルがぽつんと建っている。敷地は広いが雑木がまばらに植わっているだけで建物の周りはほとんど整備されておらず、雑草ばかりが海からの風になびいていた。
「申し遅れたが、わしが当研究所の所長、石尾勘左衛門だ」
ようやく丸眼鏡の老人が職、氏名を名乗った。なんだか歯が折れそうな名前だと井口が思ったその刹那、素っ頓狂な声が上がった。
「忘れてくれ。今の名前は。わしのことは所長とだけ呼んでくれればよい。所長だ」
実際、前歯が二本欠けていて、忘れろと言われても忘れられない名前だが、何故か困惑の表情を見せた勘左衛門は話を終えることにしたようだ。
「最後に諸君に対する注文を一つ述べておきたい。密輸という仕事をやっていると、ともすれば心がすさびがちとなる。私は諸君が立派な人間として人生を送ることができるよう礼儀作法などもみっちり仕込んでいくつもりだ。文武両道の気概を持ってしっかり頑張って――」
突然、ホールのドアが勢いよく開け放たれた。テンガロンハットを被った若い男が入ってくる。口髭を生やしていて小顔で端整な顔立ちであった。
「諸君、おめでとう。期待しているぞ」
テンガロンハットを手に取るや空中に放(ほう)り投げて、そのままホールから出ていってしまった。一体、今のは何だったのか。唖然とする井口たちに、勘左衛門は何事もなかったかのように、
「えー、今のお方が全密連のトップである首領様だ。いずれ直接、言葉を交わす機会もあるだろう」
あれが首領? 井口は驚いたが、隣の江梨子は、「意外だわ。若くてハンサムだし」と呟いた。驚くところが違っているようだ。仕事が怪しいのに加え首領や勘左衛門があの調子では、本当にここでいいのかと不安になってくる。だからと言って、他に行くところもないのだ。
勘左衛門の右手の壁沿いには、紺色の服を着た四十代半ばの男二人が座っていて、その内の一人は蜜歌坊主で会った人物だった。角張った顔のもう一人は、胸板も厚く見るからに体育会系というがっちりとした体格で、インテリ風の総務担当の男とは対象的であった。
「全密連本部には花組、月組という組織がある。花組長とは一度会っていると思うが、諸君の左手に座っているのが花組と月組の組長だ」
「宝塚と一緒だわ」
余計なことを言ったとばかりに江梨子は口に手を当てる。
それを聞いた月組長が腰を上げた。
「何! 全密連のマネをしているやつがいるのか? けしからん。何という組織なのだ」
「それは逆だと思うけど。宝塚、宝塚歌劇団」
代わって内藤が答える。
「過激派の団体なのか?」
「違いますよ。歌と劇の歌劇団」
「過激派がオペラまでやるのか?」
「もういいですよ。何とか言って下さい。所長」
「落ち着いて、落ち着いて」
勘左衛門は両手を伸ばし、皆をなだめるような手つきをした。
「いきなり花組などと言ったわしが悪かったのじゃ。改めて説明すると、全密連の本部には経理を始め庶務全般を担当する総務組と密輸の実行・密輸品の処分を担当する業務組がある。ちなみに研究所は密輸に関する調査・研究や密輸方法の企画・立案、それと密輸の際に必要となる資機材の開発を担当しておる。それでじゃ、総務組組長は花何某という名前で業務組は月何某と言うのだ。殺伐とした雰囲気を和らげる目的もあって、それぞれの名前の頭を採って花組、月組と呼ぶことにしているのじゃ」
「密輸組織のイメージに合わないなあ」
内藤は理解できないという表情を浮かべる。
宝塚が一段落したところで、今度は花組長が、いかん、と立ち上がった。
「所長、まだ三名の呼び名を決めておりませんでした」
勘左衛門から任せると言われた花組長は、咳払いをして喋り始めた。
「諸君の呼称を決める前に言っておくが、全密連で働いている者のことは社員と呼んでいる。例の貼り紙にも社員募集としてあっただろう」
「花組、月組なんだから、どうして組員とか組子とか言わないのですか?」
内藤が口を挟む。
「組員では世間体が悪いし、怪しまれる恐れがある。それに建設業の○○組だって組員ではなく社員と呼んでいるぞ」
と花組長。分かり切ったことを訊いてくるなという顔つきだ。
「○○組では社長や部長、課長と呼んでいて、首領や組長などと呼んでませんよ」
「そ、それは全密連というのは社会的に微妙な存在だからいろいろあるのだ。君も大人になれば分かる」
「まただ。大人になればとか言って。その場凌ぎばかりで大人は問題を直視しようとしないから、いつまで経ってもこの国は良くならないんだ。政治家は勉強不足だし」
「いずれにしても社員の身元がばれるのを防ぐため、お互い名前で呼ぶことはしていない。実際、名前を知らないのだ。所長とか組長とか、役職に在る者は職名で、その他の者は番号で呼んでいる」
入所式の際の勘左衛門の困惑は職名だけでなく自分の名前を言ってしまったことが原因だったのだ。
花組長は、君たちは新入りなので、と井口の呼称を新1号、江梨子を新2号、内藤を新3号と決めた。
「さて、そろそろ終わりにするか」
勘左衛門が閉めようとしたが江梨子が手を挙げた。
「所長さん、私たちはずっと研究所勤務なのですか?」
「場合によっては適性に応じて新たな配属先を決めることもあるが、今回の採用は研究所の充実が狙いなので基本的にはずっとだ」
研究所もこの三階にあり、所長室と研究室があるとのことだった。
内藤も手を挙げる。
「何を密輸してるんですか?」
月組長がびくっとした。助けを求めるかのように勘左衛門に視線を投げる。
「今は秘密ということにしておこう。強いて言えば少量で価値のある物だが、諸君はまだ知らない方が良いだろう」
勘左衛門が少し間をおいて答えた。
内籐は不満気に見えたが、食い下がらず次の質問に移った。
「それじゃ、所長と組長はどちらの方が偉いのですか?」
「組長たちはそれぞれの実務を取り仕切っている実力者だ。わしは新参者だが六十も後半で歳を取っていることから、首領様を補佐する立場で全密連の全体を見させてもらっておる。他には?」
しばらく待っていた勘左衛門は、ふと井口に問うてきた。
「君はまだ一言も喋っていないがどうしたのだ。どこか身体の調子でも悪いのか?」
「いいえ。これまでの仕事と内容が余りにも違うので戸惑っているだけです。これから努力していきたいと思います」
「新1号、君は年長者なのだし、他の二人をリードする立場にもなる。これまでの経験を活かして頑張ってくれ給え。いいかな」
「起立、礼」花組長が声を掛ける。
*
花組長を連れて所長室に戻った勘左衛門は、どっこいしょと椅子に腰を下ろすと、前々から気になっていたことを訊ねた。
「採用試験はちゃんとやってくれたのだろうな?」
「はい、それはきっちりと。所長が言われている三条件、まずは頭の回転が速いこと。これは頭をぐるぐる回す速さではなく、例えば機転が利くということですね」
「そんなことは分かっておる。それから」
「逃げ足が速いこと、口が堅いこと。これら三条件を満たす者のみを採用しております」
花組長は胸を張った。
「具体的に」
「まず、全国津々表々の電柱に社員募集の紙を貼りました」
「何だ? 『つつおもておもて』というのは」
「出来るだけ多くの電柱に貼りたかったのですが、裏の方にある電柱までは手が回りませんでした。ですから津々裏々ではなく津々表々ということで」
裏じゃなくて浦、と言い掛けたが、どこまでが本気でどこまでが冗談か分かりかねた勘左衛門は社員募集の貼り紙を持ってこさせるよう指示した。
届けられた紙を手にして、じっと見詰めていたが、「そうか」と頷き、花組長に戻した。
「所長、お分かりですか?」
「も、勿論分かっておる」
にやりとしながら花組長が解説する。
「暗号です。頭の回転を見るためのもので、難しすぎてもいけないので簡単なものにしたのですが、『一つ上を目指そう』と書いてあるのが暗号を解く鍵です」
「分かっておる。分かっておる」
「一つ上、つまり『む』の場合、あいうえお順で一つ上ということは一つ手前の文字になるのですが『み』となります。『て』は『つ』となり、結果、『むてよはすざな』は『みつゆのしごと』となります」
「なるほど!」思わず出てしまった。
「えっ」
「いや、分かっておる」
「連絡先の携帯電話の番号は一つ上の数字、即ち一つ大きい数字となり『090‐3261‐88**』となるのです。なお、この携帯は使用者を特定される心配の無いものですから」
「それで残りの条件は?」
勘左衛門は話題を変える。
「逃げ足の方は実際に街の中を走ってもらいましたが口の方は苦労しました。と言うのも並じゃない堅焼き煎餅を見つけ出すのが大変で。こちらは裏々まで八方手を尽くして、ようやく超堅焼き煎餅を」
「超堅焼き煎餅?」
「蜜歌坊主という最終試験会場で実施しましたが、あの三名はバリボリ食べて見事合格いたしました」
「それは口の堅さではなくて歯の堅さだろう」
暗号が解けなかったこともあり苛立っている自分を静めるため、勘左衛門は外を眺めることにした。ほの白い四月の青空が広がり、窓を開けると春風が気持ちまでも爽やかにしてくれた。
「花組長は全密連に勤めて何年になるのかね?」
「今年でちょうど二十五年になります。四十六歳ですが最古参になりました」
「先輩たちはどうされたのだ?」
「十年ほど前、当局の集中的な取締りが行われ、多くの先輩が捕まってしまったのです。前途に不安を感じてやめていった人も結構いて、社員の数も少なくなってきました。それ以前にも有能な人がこの業界から足を洗っていったという話を聞いたことがあります」
「花組長も苦労してきたのだなあ。しかし、密輸が失敗続きの今のままで良い訳はなかろう。君や月組長にはもっと頑張ってもらわなければ困る。厳しい環境だがピンチはチャンスと言うではないか。力を合わせて首領様を支えていかねば」
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