全密連

融木昌

第1話 まだ、お話は始まらない

 水色の縦縞のワンピースにカーディガンを羽織った主婦が自動販売機の前で立ち止まった。冷たいものが飲みたくなったのだ。こんなことならさっきのスーパーで買っておけばよかったと思いながら財布から硬貨を出そうとしたが、買い物袋を持ったままだったのでうまくいかず落としてしまった。硬貨は路面で跳ね、転がりだした。慌てて追いかけ、電柱にぶつかりくるくる回っているそれを掴み上げようとしたとき、電柱に小さな紙が貼ってあることに気が付いた。

        *

「ちょっと見せろよ」

 ニキビ面の高校生が並んで歩いている友人に体をぶつけ、彼女の写真を見せるようせがむ。

「やだよ」と友人も体をぶつけてくる。

「いいじゃん。見せてくれよ」

「じゃ、ちょっとだけだぜ」

 携帯電話の画面を目の前に突き出してきた。

「見えづらいな」

 歩きながら覗き込んでいたが、電柱が迫ってきていることに気付かず、ぶつかってしまった。

「痛え!」しゃがみ込んで、「畜生」と電柱を叩こうとすると、そこに小さな貼り紙があった。

        *

 リストラされた男が仕事を探し求め、歩き回っていた。景気は落ち込むばかりで求人情報はめっきり少なくなり、やっと見つけた募集先も年齢が合わないとあっさり断られてしまった。精根尽き果て、遠くを眺めて電柱の如く微動だにせず突っ立っていたが、何やら生暖かいものが足に掛かるのを感じた。左の足に向け、子犬が小便をしていたのだ。慌てて追い払うと近くに在った電柱で続きを始めた。子犬を睨み付けていた男は一歩、二歩と電柱に近付いていく。『社員募集』の小さな貼り紙を発見したのだ。



       社 員 募 集


     一つ上を目指そう!


      むてよはすざな


     連絡先 989-2150-77**



 男は安アパートの自室に戻り、貼り紙の内容をメモした手帳を広げ考え込んでいたが、やがてゆっくりと閉じた。解読出来たのだ。そして目を閉じ、何度もこの仕事でいいのかと自分に問い掛けた。相手は信用できるのかという不安も消えなかったが、家族のためにも収入は必要だ。遂に決心をして携帯電話のボタンを押した。

「貼り紙を見たのですが」

「電話を掛けてきたということは仕事の内容も分かっておられると思いますが、本当にいいのですね」

 鼻声の相手はその仕事に従事する決意があるかどうかを確認し、続いて名前と年齢を告げるように言った。

「井口(いぐち)英(えい)輔(すけ)、五十一歳」

「明日の十二時三十分に六丁目の交差点に来て下さい。来てくれればあなたの携帯に私から連絡を入れます」

 こちらの都合も聞かず電話を切ってしまった。来ない者はそれまでということなのか。二ヶ月前に西の方の電力関連会社を業績悪化に伴いリストラされた井口は、遠く隔たったこの街に家族と離れ仕事を探しに来ていた。雇ってくれるところがあるなら贅沢など言ってはいられない。翌日の十二時には六丁目の交差点に立っていた。

 きっかり十二時三十分に電話が鳴る。

「これから私の指示することを実行してもらいます。一度しか言いませんからよく聞いて下さい。そこから五丁目の交差点まで全力で走ってもらいます。私が『逃げろ』と言ったら躊躇することなく走り出すのです」

 そこで声が途切れた。不安になった井口が、「もしもし」と呼び掛けたが、「逃げろ」と怒鳴り声が返ってきた。反射的に走り出した。歩行者用信号は青に替わったところだった。反対側から歩いて来る人を避けながら交差点を渡り切り、歩道では人にぶつからないコース取りをして全力で五丁目まで走り切った。逃げろと言われたが誰かに追いかけられている訳でもなさそうだった。立ち止まり肩で息をしていると、「ご苦労さん」と見ていたかのように電話が掛かってきた。ビルの上の方から見張っているのではと顔を上げて探してみたが、それらしき人物は見当たらなかった。

 笑いを含んだ声で、「今夜の七時に『蜜歌(みっか)坊主』というカラオケ店の三〇二号室に来て下さい」と告げられ、電話は切れた。


 この店だけが目立てばよいといった赤と黄色のけばけばしいネオンサインの蜜歌坊主の三〇二号室に井口が入っていくと、正面にスクリーンがあり左側に男が座っていた。テーブルにはソフトドリンクと煎餅が盛られた大きな菓子鉢、それにティッシュ箱が置かれている。もう一人の男がこちらを振り返ることなくスクリーンに向かって唄っていた。さすが蜜歌坊主だけに高音質のスピーカーが設置されていたが、この男の声ではスピーカーも泣いているに違いない。

「井口さんですか? どうぞお座り下さい」

 座っている男の向かい側に井口は腰を下ろした。

「名前は申し上げられませんが、私は総務を担当している者です。今回で採用試験は最後となります。改めて確認しますが、決意は変わりませんね?」

 ここで採用試験を行っていることをカモフラージュする意図なのだろう、マイクを握った男は大きな声で唄い続けている。『港町ブルース』が終り『宗右衛門町ブルース』の前奏が流れ始めた。

 総務担当の男は、「三日ほど前から鼻風邪で」と言いながらティッシュを取り、鼻をかんで話を続けた。

「仕事の詳しい内容は正式に勤めてもらってからになりますが、いきなり現場の仕事に就くということはありません。安心して下さい。基本的に研究所で働いてもらいます。いいですか?」

 井口は返事をする代わりに首を縦に振った。

「研究所の勤務時間は午前八時から午後五時が基本となっています。有給休暇も年二十日ありますから」

 その後、経歴や転職に至った経緯、家族構成などを訊かれ、目的がよく分からない簡単な試験が行われて井口は目出度く合格となった。

「あの、給料は幾らぐらい貰えるのでしょうか?」

 最も知りたかったことを質問した。

「申し訳ない。一番大事なことを忘れていた。勤務状況にも依るが、最初は年収六百万円程度と思って下さい。仕事が成功したときは別途ボーナスが出ます」

 と答え、男は垂れてきた鼻水をティッシュで拭った。

 リストラされた井口にとっては望外の額だ。それ以上のことを訊ねる気にはならなかった。

「宜しくお願いします」深々と頭を下げた。

 男は事務的に頷き、マイクの男に向かって叫んだ。

「おい、隣の二人を呼んできてくれ」

 しばらくして、水色の縦縞のだぶだぶのワンピースを着た三十前後の女性と、高校生ぐらいにしか見えないニキビ面の若者が入ってきた。二人は井口が来る前に試験を受けていたようだ。彼らが座るのを待って、総務担当の男が口を開いた。

「この三名の方に来ていただくことになりました。それぞれの氏名は明かしませんが、今後は同僚となるので宜しくお願いします。なお、入所式は来週の土曜日、午前九時から本部で行います。この封筒に本部の地図が入っています。当日忘れずに持参して下さい。当方で処分します。以上ですが何かありますか? 特に無ければ来週の土曜日に」

 男はそう言って立ち上がり、

「この部屋はあと三十分ほど使えるので、よければ唄っていったらどうですか。料金はこちらで払っておきますから」

 と付け加えて出ていった。マイクの男も後に続く。

 井口たちも腰を上げたが、一緒に出るのも憚られ、自然と部屋に残る形となった。総務担当の男と思える派手なくしゃみがドアの外から聞こえてきて、三人は顔を見合わせ笑った。そのことが互いの距離を縮めたようだ。

「働くことが出来て良かったわ。お給料も良いし」

 ワンピースの女性が座り直しながら話し始めた。

「会社の業績が落ち込んで主人のお給料が減らされて。家のローンとかもあるし、私も働きに出ないといけなくなったんです。ああ、私、綾瀬(あやせ)江梨子(えりこ)です。宜しくお願いします」

 井口も成り行きから名乗ったが、若者は黙ったままだった。

「あなた、学生さん?」

 江梨子が自己紹介を促すように若者に訊ねた。

「高三」

「ええ! 三年生がこんなことしてていいの?」

「どうでもいいじゃん」

「でも、受験勉強とかしなくっていいの?」

「進学するとは決めてないよ」

「じゃ、就職するの?」

「決めてない」

「そんなんじゃ駄目じゃない。しっかり考えないと」

「だって今の世の中、問題だらけだし、どうしようもないよ」

 この世と同様、自分もどうしたらよいのか分からないといった風であった。

「こんなところで働くなんて、学校はどうするの?」

 新たな疑問が出てきたようだ。

「学校には行くよ。パートというかアルバイト。時給二千円だって」

「結構いいのね。あなた名前は?」

「内藤(ないとう)和也(かずや)」

「いい名前だわ。ところで変な試験ばっかりだったけどあなたも五丁目まで走ったの? 私、水泳が得意なんだけど走るのも結構速いのよ。それに最後の試験も」

 この調子では、いつまで経っても話が終わりそうに無い。井口は口を挟んだ。

「私はそろそろ失礼します」

 それを潮に江梨子と内藤も腰を上げ、店を出たところで別れた。

 二人を見送った井口は駈け出して路地に入り、妻に電話を掛けた。

「あなた!」

 久し振りの妻の声だ。

「おい、仕事が決まったぞ。それに給料も最初から年収六百万だって」

「本当なの?」

「ああ、来週の土曜日が入所式だ」

「良かった。これで私たちも安心して暮らしていけるわ。それでどんな仕事なの?」

「それは」と言ったところで詰まってしまった。

 本当のことを言う訳にはいかない。

「研究所勤務と言われているのだが、詳しいことはこれからだ」

 勤務先の名前を訊かれるのではないかとひやひやしたが、

「そうなの。でも本当に良かった。落ち着いたら一度帰ってきてよ。長期出張と言っておいたけど子供たちも心配しているんだから」

 と話題は子供に移っていった。

「今、出られるのか?」

 高校、中学に上がったばかりの娘と息子と話をした井口は心が温まるのを感じた。見上げれば、西の空に上弦の月が輝いている。

 そう、子供たちのためにも、真実は隠しておくべきだ。

 父親の再就職先は「全密連」――全国密輸連合だ、などということは。

 歩き出した井口の頭上で、月に少し雲が掛かり始めていた。


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