二 休息
薄暗い部屋の中に響く雨音が、ぐっと意識を呼び起こす。慣れない場所の緊張感からか、聴覚が研ぎ澄まされていた。
寝返りを打つと氷でも入れられたかのような凍った空気が肌に触れた。一瞬で眠気が散る。ぱっと目を開けると、見慣れない部屋を認識する前に畳の香りが主張してきた。
枕元に置いた携帯に手を伸ばす。ぱっと光った時間はもう昼に近かった。
「もうこんな時間か」
雨で時間の感覚が狂っているようだ。昨日は移動で疲れて食事も摂らず眠ってしまった上に朝食も逃している。さすがに空腹で目が覚めたらしい。のそのそと毛布にくるまったまま起き上がり、カバンの上に放っていたコートを羽織る。
「寒っ」
暦の上ではもうとっくに春だというのに、この寒さは何だろう。そのままキッチンへ向かおうとして思い直し、厚めの靴下を履いた。暖房設備の確認をしなくては。
雨粒が屋根に叩きつけられる光景と音がリンクする。遮音性の高い部屋に慣れた耳には新鮮で、祖父母の家を思い出した。雨樋から鎖樋を伝って落ちる水が宝石のようで飽きもせずに眺めていたな。忘れていた記憶を、故郷から遠く離れた場所で思い出すなんて思いもしなかった。
土間に下り、囲炉裏の向かいにある昔ながらの竈へ向かう。その奥には壁で区切られたシステムキッチンが隠れていた。少しばかり道具を探して、ケトルを火にかける。
湯が沸くのを待つ間に、昨日の道中で買っていたパンとインスタントコーヒーを出してきた。カップを借りようと食器棚を見ると、陶器の碗皿がずらりと並んでいる。来客用か、趣味で集めているものか。見知らぬ誰かのことを想像するのも楽しいものだ。
簡単に腹を満たしてから、追加で淹れたコーヒーを持って中庭に面した廊下まで戻った。部屋の隅に置いてあった座椅子と座布団を持ち出して腰を落ち着ける。
カップにふうっと息を吹きかければ、湯気が楽し気に空を舞う。独特の揺らぎを通した中庭はしっとりと雨に濡れていて、時折ガラスを流れる雨粒が、生き物のように動いていた。
歪みの無い窓に慣れた目にガラスの揺らぎは新鮮だ。そこに降る雨がまた、レトロな趣を引き立てた。
ふと中庭の石の凹凸が目に留まる。真上は屋根の先端で庭石に滴が落ちるよう計算したのだろうか。この家が建ったばかりの頃、あのくぼみはそこに在ったのか。
ちちっと小さな声が雨音に混じり、顔を上げる。軒先で小鳥が雨宿りしているようだ。ちょうどもう一羽がぱたぱたと飛んできて隣に止まり、ぴたりと寄り添い互いを毛繕いはじめた。仲間がいたのかと頬を弛めつつ、そっと視線を外して雨樋を流れ落ちる水滴を追いかけた。
胸の奥で疼く癒えない痛みに瞼を閉じると、未だに色褪せてくれないあの日の光景が流れはじめた。
都会のビルを背景に強い雨がアスファルトを打ち付ける。誰もが足早に立ち去っていく中、珍しく早めにたどり着いた待ち合わせ場所で婚約者を見つけた。正確には彼女の傘を。声を掛けようと近づいたところで、彼女の傘にぴたりと寄り添う影に気が付いた。色とりどりの傘が乱れ咲いたその中で、彼女に寄り添っていた傘が斜めに傾ぎ、彼女の顔がはっきりと視界に入る。喜びに満ちた幸せそうなその表情を僕が最後に見たのはいつだったか、なんて現実逃避する。スローモーションのように彼女の瞼がゆっくりと下がり、その唇が僕のものではないそれで塞がれた。
キン、と耳鳴りがして、それからのことはよく覚えていない。ただ雨の降る音と家路を急ぐ人々の雑踏だけが聞こえていた。
胸がぎゅっと締めつけられ、息苦しさを覚えて考えることを放棄する。
あれはもう終わったことだ。今はただ、何も考えずに眠りたい。
いつの間にか冷めてしまったコーヒーはそのままに頭から毛布を被る。この震えは寒さのせいに違いない。
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