一 ひと月だけの仮住まい

 幾つものトンネルを抜けた先、道路の脇には雪が残っていた。高速道路を滑らかに走るバスの中でうとうとしていたらしい。顔を上げると、遠くに白い帽子を被った山が連なっていた。山の桜は枝先がほんのり色づいた程度で、季節が巻き戻されたような不思議な感覚になる。

 長時間の移動で凝った肩や固まった指先も、目にする景色に痛みを忘れる。旅に出た実感がぶわりと胸に押し寄せた。冷たさの中に混じる春の温もりに、ほんの少し期待が芽生えた。


 清水から受け取った住所を頼りに街を歩く。途中、歪な五叉路に迷い込む。通りに向かって大きなガラスが嵌め込まれ、中まで明るく見通せる建物が目についた。事務所なのか、ホワイトボードに向かう二人組の姿が見える。ひとりが振り返ったタイミングで目が合った。ニコッと笑みを贈られて、慌ててペコリと会釈を返す。何だか盗み見ていたようで気まずくて、さっとその場を離れた。


「ここか」

 ようやくたどり着いたのは、古い町並みの一角にある一軒家だった。

 一跨ぎの水路に掛けられた小さな橋を越え、預かった鍵で開錠して引き戸に手を掛ける。ガタンと一度引っかかり、慌てて両手で丁寧に引いてみる。

 昼間だというのに薄暗い家の奥からは、ひんやりと埃っぽい空気が流れてきた。想像以上に広い土間があり、玄関というよりは水まわりの一部、といった様子だ。外観から想像するよりずっと広々としていた。中へ踏み込むと、小さくぱきんと音がして心臓が跳ねる。家鳴りというやつだろうか。木造の家では良くあると聞いたことがあった。

 土間からすぐの部屋には囲炉裏があって、奥に板張りのふすまが見える。外観から見えるよりずっと高い天井にある明かり取りの窓から差す光が、なんだかスポットライトのようで印象的だ。

 引き戸を丁寧に閉めて奥へ進むと、上がり框にどんと置かれているダンボールが気になった。

「清水が言ってた食料品かな」

 箱の上に小さなメモが置いてある。『はやてへ 飯だけはちゃんと食べて休むように。冷蔵庫にも色々入れてあるぞ! しみず』思った通りで笑ってしまった。名前の横に描かれたピースサインが清水らしい。簡単に箱の中身を確認すると、レトルトのご飯やおかず、菓子に飲み物。まるで実家からの仕送りみたいだ。

「さて」

 食料についてはとりあえず心配なくなったが、休むにしても生活に必要な部屋は見て回らないと。そろそろ体力の限界に近いのか身体が重くなってきた。寝床だけでも早く探そう。

「お邪魔します」

 何となく一礼してから荷物を下ろす。縁を踏まないように気をつけて上がり込んだ。自分の他には誰も居ないけれど、この空間に暮らしていた知らぬ誰かに敬意は払いたい。

 柱のない障子の仕切り。手品でも見せられているような、不思議な気分だ。土間に張り出した畳の右手と奥はふすまになっていて、高い梁と柱に支えられている。土間はL字に続いていて、柱がない為に見通しがすこぶる良い。

 見上げると鴨居が宙に突き出ている。ただ静かに在るだけのそれが、畏怖としか言いようのない感情を呼び起こした。

 それから奥の部屋へと一歩進むたびに揺れる空気が木材の香りを運んできて、家の中に居るのに森に迷い込んだような不思議な感覚になる。外と内との境界が曖昧で、別の世界を覗いているようだ。

 次の部屋の雪見窓から覗く板張りに、この先は廊下だなと当りをつける。障子を開くと波間のように歪んだ窓の外に目を奪われた。手作りの昔のガラス独特の揺らぎが古風な造りの家に良く似合う。時代を越えてしまったかと錯覚するほどのノスタルジックな雰囲気に、ほっと気分が和らいだ。

 寝室はこの部屋にしよう、と振り返って部屋を見渡す。古い箪笥の上にちょこんと座った人形が、首を傾げてこちらを見ていた。

「よろしく」

 こうして独り言が増えていくのか、なんて自分を笑ってしまうけれど、それも悪い気はしなかった。

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