僕に居場所をくれた町

井上 幸

プロローグ 旅立ち

「荷物、これだけ?」

 春というにはまだ暖かさの遠い空の下、面倒見の良い友人が僕の鞄を見て首を傾げた。

「あ、配送したのか」

「まぁ、ね」

 適当に返事をすると、思い切り眉間に皺を寄せて盛大な溜息を吐かれた。言いたいことは分からなくもない。これからひと月ほど縁もゆかりもない土地で暮らすというのに、僕の荷物はせいぜい二泊三日で使うくらいの真新しい旅行鞄がひとつきりだ。身の回りの最低限のものさえあれば特に困ることもないと考えているのはどうやら筒抜けのようだ。心配をかけている自覚はあるけれど、今の自分の状況を思い起こさせるものは何一つ持って行きたくなかった。

「鍵はこれ。何かあったらすぐ連絡しろよ?」

「うん、ありがとう」

 手のひらに落とされた鍵を見つめながら、心配性だな、なんて心の中で苦笑する。

 じゃあ行くか、と歩き出したその背中が頼もしく見える。この友人の伝手で遠い場所に家を借りたのだ。思えば仕事に行き詰った時も、結婚の話が無くなった時も、辛いときに必ずと言っていいほどそばに居てくれたのはこの友人だった。

清水しみず

 咄嗟に呼びかけたもの、何と言えば良いかわからなくなる。そっと合わせた視線は柔らかく、僕の言葉を待ってくれている。

「本当にありがとう。いろいろと」

 友人はくしゃりと笑って僕の頭を乱暴にかき混ぜた。

「うわっ、ちょっとなに」

「良いんだよ。あ、食料はそれなりに買い込んで置いてあるから遠慮せずに食えよ」

 後で味の感想聞くからな、と明るく見送ってくれた。


 そんな出発前の会話を思い出し、車窓を流れる景色が変わっていくのを眺める。蕾が開き始めた桜の木を背景にした清水の背中は、いつもよりいっそう温かくて大きく見えた。

 職を捨て自暴自棄になって逃げるように都会から離れた自分は社会人失格で、もうどうにでもなれと諦めた気になっているのは自覚している。逃げるように離れたあの街でのあれこれが、痛みを伴う走馬灯のように流れていった。

 この鬱々とした感情が早く薄れてくれることを願って目を閉じる。到着までは、あと半分。決して『元気になって帰ってこい』とは言わない友人に、僕はいつかこの恩を返すことができるだろうか。

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