第40話 頭が真っ白になる音
ほどなくして、草野の乗る電車も到着した。
人ごみに押されて、乗車率百パーセントを超える勢いで、電車が走り出す。
窓からぼんやりと雨が跳ねるのを見ていた。
ふと、ジーンズのポケットにねじ込んだスマホが着信を告げて震えていた。
相手を見ると、構成作家の中津からである。
少し迷ったが、電車の中だし、やり過ごすことにした。
圧死しそうな満員電車。気分が悪くなるのをぐっと我慢しながら、揺れに身を任せる。
ずっとそうしていると、とある駅で自分が寄り掛かっていた方のドアが開いた。
勢いよく人が下車し、その波に押されて草野もホームに流され降りてしまった。
やれやれ、と久々に新鮮な空気を吸い、電車に乗るための列に大人しく並ぶ。
ふと、並んだ列の横の人から、視線を感じた。
心臓が跳ね上がる。
初恋の女の子だった。
草野は生まれて初めて頭が真っ白になる音を聞いた。
真横、十五センチの距離。
間違いない。髪型も変わり、雰囲気も年相応に大人っぽくなってはいるが、すぐに分かった。彼女である。
苦いトラウマを植え付けた、女性恐怖症の原体験を作った子。
彼女も草野に気がついたのだろう。じっと、草野を見つめていた。
しかし、その隣には仲良く寄り添う、彼氏らしき別の男の姿。
草野は考えた。
喉が締まって息ができそうになかった。驚くほど鼓動が早い。
列に並んでいるという事は、この電車に乗るのだろう。ぎゅうぎゅうの満員電車の中、地元の駅まで何分も近くにいなくちゃいけないのか。
久しぶり、と声をかけるわけでもなく、気まずい沈黙の中。
彼氏と話している会話を聞かなければならないのか。
反射的に、ぐるん、と方向転換して、反対方向に歩き出す。
後ろでは、相手の男が「どうした?」と彼女に話しかけ、彼女は「ううん、別に」と返す声が聞こえた。
草野は口を覆った。
そうでもしないと、情けない嗚咽が漏れてしまいそうだった。口汚い罵倒を叫んでしまいそうだった。
乗らなければいけない電車は、ゆっくりと扉を閉め走り出した。彼女が乗ったか乗っていないかも振り返り確認もせず、ただただまっすぐ、見知らぬホームを歩いて行く。
階段を降り、すぐさま改札を出ようとして、しかしチャージ料金が足りないと警告音を響かせ改札は閉まってしまう。後ろの人に舌打ちをされた。
電車に乗らなきゃ家に帰れない。
けど、もしかしたらまだ彼女がホームにいるかもしれない。
もう五年も経っているのに、一目見ただけで彼女だと分かった自分が、未だに未練があるのだと思い知って、情けなくて馬鹿馬鹿しくて死にたくなった。
中学生の教室の隅、綺麗な文字を書く細い指は、知らない男の手を握っていた。
何年も前の話なのに。
もう忘れたはずだったのに。
始まる前に終わった恋を、大人になった今でさえ覚えているなんて。
何が期待の新星だ、何がトレンド大賞候補だ。
テレビに出たからって何も変わらねぇ、俺はどうしようもないグズ野郎だと、何度も何度も自分を罵倒する。精算機に小銭を入れる指が震えていた。
改札を出ると大粒の雨が降っていた。さっきよりも雨足が強くなっている。
傘を差そうとして、人波に押されさっきの電車の中に傘を忘れてきてしまった事に気がついた。
初恋の彼女の、長いまつ毛を思い出す。
どうしようもない破壊衝動が体中を支配した。
今、自分が両手にマシンガンを持っていたら、間違えなくその引き金を引いただろう。
傘でもいい。傘をちゃんと持って降りていたら、その柄で通り一帯のショーウィンドーを割って回ったかもしれない。
しかしずぶ濡れの知らない街で、草野は財布と携帯ぽっちで、どうにか犯罪者にならずにすんだ。
黒髪は雨を受け濡れていた。頬に水が滴ってくる。
草野は吸い寄せられるように駅前のコンビニに入ると、雑誌コーナーに行って、立ち読みをする。
内容など頭に入ってこない。
ぱらぱらと、等間隔でページをめくり、めくり終わったら違う雑誌を手に取る。端から端まで、派手なアオリ文やタレントの写真を瞳に映す。
何時間もそうやっていたら、いい加減店員がうっとおしそうな顔をしだしたので、雑誌を置いて、息をつく。
日はいつの間にかとっぷり暮れていた。
帰ろうと振り返ると、ハルがいた。
思わず、「ウソだろ」と声が漏れた。
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