第37話 お節介な男
扉を開けて外へと出ると、エレベーターの前にハルが立っていた。
レースのついたシャツに、デニムのパンツの後ろ姿。
話しかけるべきか、話しかけないべきか、それが問題だ。
脳内はまさに勝手にシェークスピア状態。
草野はこの前の「解散発言」を問おうか、迷った。
しょうがないので、ゆっくりとエレベーター前まで歩いて、そっと後ろに並ぶ。ドアに映った草野を確認して、ハルが振り返る。
「あっはは、なんか凄い事になったなあ。アンタ、握手会なんて大丈夫なん?
今のうちに練習でもしといた方が良いんちゃう?」
何も気が付いていないハルはちょいちょいと草野をつついてきた。
「やめろ、無駄に救急車を出動させる羽目になる」
と言うと、全く女らしくない調子でゲラゲラと笑っている。
何か積み荷でも運んでいるのか、下の階で止まったままエレベーターは一向に来ない。
どうしようと思案する草野の意識に全く気づかず、ハルは昨日会った先輩芸人が、リアルでも超天然だったという話に花を咲かせている。
超無関心男、草野は、今だけ超おせっかい男になる事に決めた。
「……この前の収録後、夏木さんの携帯に電話掛けただろ。
あれ、相手は俺だったんだ」
言ってしまった。
ハルが勢いよく振り返った。
凛とした大きな瞳は、じっと草野を見つめていた。
正面からまっすぐに見つめられ、草野は逃げるように視線を反らす。
ハルはしばらく、草野の気持ちを読み取ろうとするようにじっと見ていたが、草野はずっと俯いている。
電話に勝手に出た事を咎められるのかと思ったが、全てを悟ったハルはその事には追求せず、静かに尋ねた。
「……そんで? うちらの決断に、アンタが口出す気なん?」
行き交うスタッフ達に聞こえないように、低く声をひそめるハル。
「番組は、」
声が喉に詰まった。
「どうなるんだ」
それだけ言って、自分が今、ものすごく緊張している事に気がついた。膝が笑っている。
年下の女子相手に喋ってるいだけなのに、酷く情けない。
ハルは眉間にしわを寄せて、どうでもいい事のように言う。
「知らんよ、そんなん。うちの代わりに違う女の子が入るんやないの。
もしくは、復帰したザキさんかもね」
ポーン、と音がして、目の前のエレベーターが開いた。
覚悟を決めた人間の目だった。何を言っても聞く耳持たずで、ハルはすぐにポニーテールを揺らして乗ってしまった。
あ、と引きとめようとする声だけが漏れて、しかしせまい廊下で機材を運んでいるADに後ろからぶつかられて、ちょっとそこどいて、と言われ避けていたら、容赦せずハルは『閉』ボタンを押しエレベーターに乗って去ってしまった。
突き放された。すっかり取り残された草野はエントランスから離れ、廊下の壁に背をもたれ、脱力した。
その横には、観葉植物が置いてあった。
忙しいスタッフ達に水をもらえていない様子のそれは、葉脈がしおれて見るも無残だ。
ああ、まさに俺みたいだなと、その葉をそっと撫でる。
そしてふと、もう忘れかけていた記憶の箱が開いた。
思い出さないように、脳の奥底にしまっていた、どうでもいい記憶。
中学生の時に仲のいい友達がいた。決して社交的ではない草野にとっては、数少ない友人だ。
彼とは同じ高校に行こう、と約束していたのだが、あまり頭の良くなかった自分は必死に受験勉強をするよりも、今の成績のまま推薦で入れるワンランク下の学校に行きたかった。
しかし、毎日のように塾に通っているその友達には言いだせずにいた。
秋、推薦が決まった生徒の名前は朝のホームルームで担任が読み上げる決まりだった。
ワンランク下の高校に推薦が決まり、呼ばれる自分の名前。
てっきりずっと同じ高校を目指しているのだと思っていた友人は、初めて聞かされる事実に冷静な振りをしながら、こちらを凝視していた。
ホームルームが終わって、自分はいたたまれなくなって、事情を話してその友人に謝った。
友人は、一言。「別に、いいよ」。それだけ。
それで三年間の友情は跡形もなく終わりだ。
彼は受験勉強、自分は卒業文集の製作などで時間も合わなくなり、一緒に帰る事もなくなった。
卒業してから、彼は志望校に受かったのを人づてに聞いた。
その友人には、それきり会っていない。
草野は自分が泣きそうになっているのに気がついた。
ああ、なんでよりによって今、有楽町のテレビ局の地上二十階で、そんな昔の事を思い出しているのだろう。
あの時の、全てを諦めて「ああ、もうこいつとは駄目だな」と思ったであろう友人の表情。
相手と自分の、目には見えない縁というものが、ぷっつり切れた音を聞いた時。
ハルは、あの時の友人と同じ顔をしていた。
どうすればいい。
どうにもできない。
何が良いかなんて一概に言い切れない。
ミカは、ハルから解散を告げられて泣くかもしれない。
でも、芸人として一流になれずに、不遇な仕事を強いられ、何年も何年も苦しい思いをするのなら、実家に戻って一から人生をやり直すのは間違っていないのかもしれない。
そこで優しい男と出会って、結婚して幸せな家庭を築いて、普通の主婦として一生を終える方が幸せかもしれない。
埃の溜まった植木鉢。薄汚れた乾いた土に生え、慌ただしく人が歩く廊下で誰からも忘れさられた観葉植物を見つめる。
夢を諦めるのって、一体どんな気分なんだろう。
例えどっちの結末だとしても、二人が泣いているのは見たくないな、とそっと目を閉じた。
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