第10話 心のシャッター締めます。
そんな草野の暴挙に、ハルはふう、とため息をつくと、
バコンッ
風を切る音とともに鈍い音が響き、草野は無様に横転した。
気がついたらテレビカメラのコードが目の前にあり、床に尻もちをついている事が分かった。側頭部、左こめかみの辺りが焼けるように痛い。
「あんなぁ、うちの渾身のギャグをそんな風に雑に使わんといてくれる?」
途端、スタジオ中に湧きあがる笑い声。
どこに隠し持っていたのか、ハルは巨大なハリセンを持ち、自分の首のあたりをぽんぽんと叩いていた。腹立つわーとぼやいて、草野を睨みつける。
どうやらその巨大なハリセンでどつかれたらしい。
極度の緊張と痛みで脳みそがわっしょいわっしょいねぶた祭り状態の草野は、床に女の子座りしながらこめかみを押さえ、ハルを茫然と見上げる。
なに、なになになんなのコイツ。
どおして俺ってばこんなに痛い事されて皆に笑い物にされてんの?
草野のその気持ちが伝わったのだろう。「これやから素人は…」と言いながら、ハルはハリセンを持ったまま、道端のダンゴ虫でも見るように草野を鼻で笑う。
「駄目だよAD君、メインキャストの機嫌損ねちゃあ」
振り向くと、そこに居たのは、がっしりした体つきの三十歳ぐらいの縦縞スーツの男だった。
その顔にも見覚えがあった。メインMCの二人を補佐するサポート進行役として、この番組のレギュラーに抜擢されていた「ポッピンズ」の柿崎だ。
床に倒れたままの草野に手を差し伸べて来たので、ためらいながら手を握り返すと凄い力で無理やり立ち上がらせられた。
にこ、と人当たりの良い笑顔を向けてくる。
ラジオ番組なども持っていて、安定して面白いコントを作るコンビとして有名である。
最近前髪が後退してきたので、ハゲネタでいじられる事が多くなった、言わずと知れた中堅芸人だ。
「ちょっとザキさん、うち緊張してきましたわー」
「おいおいいつもの負けん気はどうしたよハルちゃん。
この番組のメインMCはハルちゃんと星川君なんだから、俺はあくまでサポートだからね」
「プレッシャーかけんといてくださいよぉ」
ハリセンを持ったままのハルは、もう草野のことなんか眼中にないといった調子で、先輩芸人である柿崎と話しだした。
甘えた口調で、もう無理ですわぁ、と可愛げに言うものだから、周りのスタッフもその芸人達の、いわゆる楽屋トークに耳を傾けている。
警報機が鳴っていた。
心のセコムが、それはもうビービーと大音量で。
そうなった時には、草野の心に住んでいる管理人が問答無用でシャッターを閉めるのだ。もう何者も入らないように。
「今日は店じまいだよ!」とそのオッサンは厳重に南京錠を掛け、草野の感情を切り完璧なる「無」の状態にする。
もちろん比喩でそんなオッサンなど存在しないのだが、「木曜日事変」以来草野は何かショックな事があると相手への感情、恨みつらみなどの一切合切を遮断し、現実逃避という名の守りに入るのだ。一種の自己防衛と言ってもいいだろう。
誰からも注目されないように、植物のように生きていくため、草野が編み出した技だった。
ゆっくりと立ち上がり、スタッフの視界に入らないように自然な動きで移動して、作業に戻る。
今、俺は何もされなかったし、何も知らない。俺はただの観葉植物。
大丈夫大丈夫。時給千二百円だから。
魔法の言葉を何度も唱えながら、札束を思い浮かべる。
ふと振り返ると、メイクを終えたらしき星川が、一部始終を見ていたのか壁際で手で口元を押さえぶるぶる震えていた。
泣いているのではない、笑いを堪えているのだ。
あ の 野 郎。
草野と心の中の小さいオッサンは星川に向かって何度も汚いスラングを吐き中指を立てた。
「よろしくお願いします、星川です」
「おー来たなイケメン。これからよろしく」
「桐島ハルや。がんがんツッコむと思うけど、泣かんようにな」
共演者三人がスタジオで仲睦まじく親睦を深めているのを見ないようにしながら、黙々とカンペの準備をする草野。
まさに、陽のあたる所に生きている者と、当たらない場所で生きている者との縮図だ、と果てしないネガティブ回廊に迷い込みだした。
狭いスタジオの中、軽い打ち合わせが始まった。最終確認らしい。
構成作家という、番組の流れや企画を考える、映画で言うところの脚本家のポジションである眼鏡のやせぎすな男が、三人に台本を持ってなにやら話しかけている。
それも終わったのか、ポッピンズ柿崎は「ちょっとタバコ吸ってくる」と、外へと出て行ってしまった。
なんだか撮影現場と言うのは想像していたところよりも緩いものだ。
「ハル君、今日も可愛いね」と星川が話しかけると、何故かハリセンをぶんぶんと素振りしながら「どあほ。そんなんうちに媚びんでもええねん」とハルは無愛想に返している。
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