第128話 僕らは、間違える。
あれから一度だけ、彼らは僕たちのマンションへと足を運び、頭を下げていったんだ。
「本当に、申し訳ありませんでした」
誠心誠意を込めた謝罪は、受ける側も気持ちの良いもので。
「こちらこそ、ノノンへの被害届、出さないでいてくれてありがとうね」
「出すはずがないじゃないですか。
福助君がそう言いながら頭を下げると、隣に座る
「アタイからも、ありがとうって言わせて欲しい。
多分、お願いされなくても行くことになると思う。
白雪さんの言葉を聞くなり、ノノンは彼女の両手を握って、ぴょんと嬉しそうに跳ねるんだ。
「絶対いくー! ノノン、赤ちゃん大好き、なのー!」
「あは、ありがとう。ノノンちゃん来てくれるの楽しみにしてるね」
「うん!」
ノノンはみーこちゃんの時も凄かったもんなぁ。
みーこちゃんロスとかあったりして、当時は大変だったけどね。
「それにしても良かったよね、福助君が逮捕とかされなくてさ」
「執行猶予付き、みたいな感じですけどね。反省文に部屋の監視カメラの増加、他にもいろいろと再犯防止策を講じられましたけど……でも、それでも、志乃子の側にいることを許されたんですから、それだけでもありがたい事です」
再犯は、まぁまずないだろうね。
今の二人を見て、浮気や裏切りの類は想像すら出来ない。
間違いが二人の結束を強くする、そういう事だってなくもないさ。
「じゃあ、僕たち他にも回らないといけないので」
「うん、皆によろしく言っておいてね」
「……はい、本当に、ありとうございました」
最後まで頭を下げる二人を見送った後、ノノンは「良かったね」ってほほ笑む。
そんなこんなで日常を取り戻した僕たちだけど。
僕たちは僕たちで、運命の日を迎えようとしていたんだ。
4/26 金曜日 18:00
歯科グランメッセ、ノノンが通う歯医者さんだ。
最初こそ僕も診療台に一緒に行って治療を受けていたけど、今は彼女一人。
痛みには慣れないみたいだけど、泣き叫ぶことは無くなった。
あの頃は鎖もしてなかったし、家に帰ったら洋服全部脱いでたんだよな。
今はそんなことしないし、片付けもしてくれる。
成長したんだ、人として、女性として。
だからじゃないけど、僕は今とてもそわそわしている。
『ダメなの。
この言葉から約一年、厳密に言えばまだ十か月ちょっとだけど。
でも、それでも僕は待ち続けていたんだ。
朝、目が覚めて目の前に彼女の寝顔があったとしても。
昼、ふとした瞬間に彼女の唇が近くにあったとしても。
夜、一緒にお風呂に入り、桃色の香りに包まれたとしても。
鋼の意思で、僕はノノンの唇を奪わずにこれまで我慢してきたんだ。
だから今日は、ちょっと自分が抑えられそうにない。
朝からあり得ないぐらい緊張してる。
そして今、僕は狼の心をしまい込んで、平然とした顔で彼女の治療が終わるのを待っている。
椅子に座って足を組み、歯医者にあった漫画本を適当に手に取って、ページを捲る。
無論、内容は一切入って来ない。頭の中は馬鹿みたいにノノンとのキスでいっぱいだ。
「一年間よく頑張ったね。今日で治療はおしまいだよ」
「ありがとう、ございました」
「次来るときは、もっと早くにね」
「あははっ、来ないように、歯磨き、頑張りますね!」
歯科医の先生と世間話をして、彼女は僕の所にやってくるんだ。
「終わったよ、けーま」
「う、うん。じゃ、じゃあ、家、帰ろうか」
「うん。今日のご飯は、チキン南蛮、だよね。ノノン特性、タルタルソース作って、あげるから、ね!」
そうだね。そうしたらキスするんだよね。
ああ、いや、ご飯のすぐ後とかは、さすがにムードがないか。
せっかく夜景が綺麗なんだ、食後が最高だよね。うん。
§
「ごちそう、さまでした! 今日はノノン、洗い物する、ね!」
「……う、うん」
腕輪から鎖だけを外してあげると、彼女は一人洗い場に立った。
洗い物が終わったら、キス、するのかな。
なんとなく、ダイニングテーブルの席についてたけど。
……なんか、それも催促してるみたいでおかしいか。
普通に、リビングのソファでいいや。適当にテレビでも見よ。
テレビの内容、全然頭に入って来ない。
そうだ、スマートフォンでキスの仕方について調べてみよう。
①歯が当たらないように、気を付けること。
②唇の保湿は特に意識すること。
③口臭は絶対アウト、出来る限り歯を清潔にすべし。
「ぼ、僕、先に、歯磨きしてくるね」
「? うん、いってらっしゃい」
いつも使ってる歯磨き粉、だけじゃきっとダメだよな。
確か洗面台の下の収納に……あった、お口くちゅくちゅの洗口液。
これでうがいをして、えと、他にも糸ようじと、歯間ブラシを掛けてと。
鏡を前にして、いーっと歯を見てみる。
うん、問題ない。はーっと息を確認……大丈夫、だよな?
舌、あ、そうか、舌もチェックしないとか。
わ、わからないな。とりあえず歯ブラシで舌も磨いておこう。
「……けーま、何してる、の?」
「うわえええええぇ!?」
「うわ、びっくり、した」
いつの間にかノノンがのぞき見してるんだもん、驚くなって方が無理だよ。
「ご、ごめん。歯を綺麗にしようと、思ってさ」
「そうなの? けーま、虫歯?」
「違うよ、僕は虫歯なんてない」
「そっか。良かった。けーま、先にお風呂、入っちゃって、いーよ」
最近、ノノンは一緒に入ろうって言ってこなくなった。
最近っていうか、ここ数か月。
正直、ちょっと寂しい。
一人で入るには大きすぎるお風呂に肩まで入り、なんとなしに天井を眺める。
全然、キスっていう雰囲気がない。
もしかして、その気になってるのは僕だけだったり?
そもそも今日って記念日って訳じゃないし、虫歯が完治しただけだし。
ノノンは「キスは虫歯が治ってから」って言ったのも、忘れちゃってるのかな。
打たせ湯モードにしてから、ちょっと長湯。
それからお風呂を出ると、ノノンは普通にリビングで動画見てた。
「ノノン、お風呂出たよ」
「うん。わかった」
ぴっぴとテレビを消すと、彼女はごくごく普通に、お風呂へと向かったんだ。
意識してるのは僕だけか。
そう思うと、なんかちょっと恥ずかしくなった。
22:00
タブレットを起動して、今日の日報を書き込む。
ノノンはお風呂を出て、長い髪の毛を乾かしてから、また動画を見始めている。
動画の内容は美容関係だ、ハサミの持ち方とか、カット練習とか。
マジメな内容だけに、何も言えず。
明日は
お給料後の土曜日は混むから、手伝いをお願いしたい……だっけか。
水曜日とたまの土曜日に、ノノンはバイトのような感じで日和さんの家に行くんだ。
朝九時から店に入り、昼に一時間休憩とって夜の六時まで。実に九時間ほど。
さすがに僕もそんな長時間一緒には居られないから、その時だけは一人なんだけど。
……なんか、ちょっとだけ寂しいって思う。
ノノンが人として成長して、僕から離れていってる気がするんだ。
子離れ親離れじゃないけど、なんだか僕の手から離れている感じがして、とても寂しい。
良いこと、そのはずなんだけどな。
キスに僕だけ盛り上がってるのとか、何となく。
「けーま」
「……うん?」
「ノノン、明日日和のとこだから、そろそろ寝る、ね」
いつの間にかテレビが消え、道具も全部片してある。
誕生日の時に舞さんたちから貰った寝間着姿のノノンは、やっぱり可愛くて。
「……そうだね、おやすみ、ノノン」
「けーまは、寝ない、の?」
「僕は、もうちょっと日報を書かないとかな」
「……そう、わかった」
キスはもっと大事な日にするべきなんだ。
何かの記念日とか、そういった日にするべきものであり。
こんな、何もない日にするもんじゃない。
するもんじゃないんだよ。
……沈み過ぎだろ。
別れ話とかじゃないんだから。
「……僕も寝るか」
ノノンがいなくなってから、既に三十分が経過してる。
何もなくたって一緒のベッドで寝るんだ。
それだけで幸せだし、それが僕とノノンの距離でいい。
ほとんどゼロみたいなものなんだから、それで。
部屋に入ると、オレンジ色の常夜灯だけが灯されていて。
彼女が寝ているベッドの横に、僕も
そういえば、洗い物の時から鎖してなかったな。
今更か、もうノノンは寝てるんだし、起こしたら可哀想だ。
明日ノノンは仕事か……僕は一人で何をしようかな。
「けーま……」
……寝言?
そう思ったんだけど、壁側を向いていた彼女の身体が、くるんとこちらを向いた。
薄闇の中で見える彼女の顔は、眉根を寄せていて、少し怒っているように見えて。
「ノノン、今日、ずっと待ってたんだよ」
「……待ってたって」
「忘れ、ちゃったの?」
身体を起こし、ベッドにぺたんと座り込み、両手で毛布を口元まで持ってきて、頬を膨らませながら僕を見るんだ。途端、スイッチが入って、言い訳しなきゃってなぜか思った。少し早口になりながらも、僕の口は言い訳を開始する。
「忘れるはずがない、今日一日、頭がおかしくなるくらいずっと意識してた」
「ノノンだって、ずっと待ってた。期待してた。でも、けーま、全然来ないから」
「いって良いのか、分からなかったんだよ」
「していいに、決まってるよ」
「だって、僕、したことないから」
ベッドに膝を付けて、悔しい気持ちでいっぱいの心を落ち着かせる。
「生まれてから一度だって、女の子とキスなんかしたことないんだ。大好きな人と唇を重ねる、ただそれだけの事がどれだけ重要な事か、その裁量すら分からないんだよ。一度でもしたら軽いものになるのかもしれない、いってらっしゃいのキスが出来るようになるのかもしれない。でも僕はまだ、その一回目すらしてないんだ」
頭に〝ノノンと違って〟という喋り方をする自分に、腹が立つ。
それがどれだけ彼女を傷つけるか分かっているのに、僕は何を言っているんだ。
「ずっと調べたりもしたんだ。初めてだから、嫌な思いさせたくないから。特別だから、キスの仕方とか、口臭とか、汚れとか、味とか、雰囲気とかムードとか。ずっとずっと調べてるぐらいに、ノノンとのキスが楽しみで仕方なかったんだ。でも、だからこそ、出来ないって思った。ノノンがその気になってるなんて、僕には分からない、分からないんだよ」
きっと僕は、俗にいう面倒臭い男の部類に入ってしまうのだろう。
キスひとつに必要以上に頭を悩ませて、意味もなく彼女を困らせてしまうんだ。
ノノンからしたら、キスなんて他愛もないことなのかもしれない。
一瞬でもそう考えてしまうことだって嫌なんだ。
同じ価値観を、ノノンにも抱いて欲しいと思ってしまう。願ってしまう。
でもやっぱり、それってきっと面倒臭い男って意味なんだ。
葛藤で、なんか泣きたくなる。
キスのひとつでコレじゃあ、僕は肌を重ねる時にどうなってしまうんだ。
僕は、ノノンを嫌いにならずにいられるのか。
なんで今更、こんなことで悩むんだよ。
「けーま……ごめん、なさい」
唐突に、彼女は謝罪をしたんだ。
そして、瞳にいっぱいの涙を浮かせている。
泣かせた? 僕が、ノノンを泣かせたのか?
「ノノン、やっぱり、ダメなのかな」
「ダメじゃない、これは僕がいけないんだ」
「だって、だって、ノノン、けーまがなに考えてるか、わからないよ」
「分からなくていいんだ、僕だってノノンが何を考えているか分からなかったんだから」
「でも、喧嘩みたい、今日、せっかくの、キス、記念日だと、思ってたのに」
同じことを、考えてたんだ。
僕と同じことを考えていたから、だから彼女も動けなかったんだ。
ベットのシーツが、ノノンに握られて、波を作る。
「うっ、うっ……うええええぇ…………えぐっ、えぐっ…………ふえええええぇん」
「ごめん、ノノン、ごめん」
「ふっ……うっ、ううぅ……うえええええええぇぇん」
「ごめん……ほんとに、ごめんなさい」
ベッドにぺたりと座り込んだまま、ノノンは天井を仰ぎ見るようにして泣きじゃくる。
僕は一体何をしているんだ。何を考えているんだ。
彼女からキスをしようなんて、言えるはずがないじゃないか。
「ごめんな、さい……ノノン、わからなくて、ごめ……うええぇ……」
「怒ってないし、本当に」
「ひっく……うええええぇ……えっ、えっえっ……ええええぇん……」
少し考えれば分かるだろ。
彼女にとって、僕は特別なんだから。
一番大事にしたいから、絶対に失敗したくないから。
だから、僕からの言葉を待ってたんじゃないか。
自分から動くことがどれだけ怖いか、僕だって分かってただろうに。
「ノノン……」
「…………うっ、…………ひっぐ…………」
「ノノンは、僕のことが、好き?」
「…………うん……ひっ……うっ……」
泣きすぎてしゃっくりしてるノノンを、僕は抱きしめるんだ。
抵抗はされなかった、ただただ、彼女も僕に身体を預ける。
「僕も、ノノンのことが好き。愛してるし、世界で一番大切な人だと思ってる。だからじゃないけど、一番大事にしたい。ノノンが傷つくようなことは、絶対にしないって、思ってたんだけど……ごめん、なんか、間違えたっぽい」
大事にしようとし過ぎた結果、僕は男としてあるまじき行為をしてしまった。
過保護は時に相手を傷つける。冒険をする必要が、僕にはあったんだ。
「キス……しても、いいかな」
「……うん」
「ありがとう、ノノン」
涙で濡れた頬に手を当てて。
すっ……と、目を閉じた彼女の唇に、僕はそっと近づくんだ。
歯を当てないように。
唇を乾燥させないように。
初めてのキスで舌を入れたりしないように。
口臭を意識して、最後に食べた味をさせないように。
いろいろな事前に調べたキスのマナーとかいうのが、全部いらないんだなって、してみて分かった。だって、キスって行為は唇を重ねるだけ。ただ、それだけの事なんだから、別に難しくもなんともない。
でも、大好きな人と重ねた唇の熱量は凄くて、触れ合っている唇と唇がとても鋭敏になって、僅かな弾力とか、唇ならではのちょっと硬い感じとか、キスをしている時だけ分かる距離とか、ノノンの頬の香りとか、目を閉じている彼女の愛おしい仕草とか、握った手とか、そういうのだけで頭がいっぱいになっちゃって、幸せしかなくて、幸せが止まらなくて。
ノノンとの初めてのキスは、ほんの数秒。
多分、五秒とちょっと。
でも。
「ノノン……」
「……やだ、もっと」
二回目のキスは、それからほんの一秒もなかったんだ。
彼女の手が僕の首に周り、引き寄せられるように唇を重ねる。
それだけの行為なのに……どうして、こんなにもドキドキするのか。
それからゆっくりと離れていき、僕たちは照れからか、互いの顔を見ることが出来ず。
「……キス、しちゃった、ね」
「……う、うん……」
「ね、ねぇ、けーま」
「……うん?」
「これからは、毎日、しても、いい……から、ね?」
「……うん」
そして、すぐに三回目があるんだ。
多分、僕たちは何千、何万……いや、数えきれないくらいキスをするんだ。
そのひとつひとつを、愛に溢れるものにしたいと思うし、ありふれた日常にもしたいと思う。
覚えていられない程の数を重ねたとしても、きっと、僕たちには足りないから。
「……愛してるよ、ノノン」
「うん、けーま……ありがとう」
「愛してるって、言ってくれないんだ……?」
「ちょっと……恥ずかしい」
こんなにも側にいるのに、付近に誰もいないのに。
今度は僕から唇を近づけて、頬にもキスをして。
腰に手を当てて抱きしめると、耳元で彼女は囁くんだ。
「愛してるよ……桂馬」
とても愛に満ちた、幸せの言葉を。
§
次話『DEPARTURES ※火野上ルルカ視点』
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