第93話 狂い咲く百合の花
12/29 金曜日 9:00
みーこちゃんは多分、育児のしやすい赤子なのだと思う。
夜泣きもしないし、一度寝たらほとんど起きない。
オムツがぱんぱんになっても泣かないのは、本当に根性座ってると思う。
その代わり、母親である灰柿さんの方が、むしろ心配だった。
薬物依存の症状は、あれから毎晩発症している。
リビング側の壁に僕とノノンが寝ているベッド、少しだけ空間を空けて、みーこちゃんのベビーベッドがあり、反対側の壁の方に灰柿さんが寝ているベッドあるのだけれど。
毎晩のように彼女は吐息を殺しながら、一晩中覚めない症状と戦っている。
今朝も起きてこれず、僕たちやみーこちゃんが起きてても、灰柿さんは横になったままだ。
眠れない上に、体力のほぼ全てを持ってかれてしまう。
それなのに、扉が開く音にはとても敏感で。
みーこちゃんをリビングへと抱っこしていこうとするだけで、彼女は目を覚ますんだ。
そして奪い取るようにして我が子を抱き、よたよたとリビングへと向かい、倒れるように眠る。
こんな生活がまともなはずがない。
僕はすがる思いで、渡部さんへと連絡を取った。
『はいもしもし』
「……あれ? 水城さんですか?」
思わず画面を二度見、間違いなく番号は渡部さんだ。
でも受話口にいるのは水城さん、二人ともこんな日まで仕事をしているのか。
『今、渡部がちょっと手を外せなくてね、どうかした?』
「……えっと、灰柿さんの薬物症状について、質問出来たらなと思ったのですが」
同じ課内の人、しかも渡部さんの直属の部下なんだ。
水城さんになら質問しても問題あるまい、と思ったのだけど。
『黒崎君、その話、渡部から聞いたと思うんだけど。彼、極秘情報って言ってなかった?』
「……言って、ました」
『極秘の情報はね、心許せる相手であっても喋っちゃいけないの。どこで誰が聞いているか分からないんだから、渡部以外にはその言葉、言っちゃダメよ』
怒られてしまった。
確かに、僕の勝手な判断だ。
『でもまぁ、私は全部知ってるけどね』
「水城さん……」
『大人の世界はこういう感じなの、口は災いの元でしかないから、気を付けて。で、話を戻すけど、薬物症状についてだっけ?』
お説教が終わると、あっけらかんとした感じに切り替わった。
固まっていた背を若干ソファに預けながら、僕も絨毯の上に足を延ばす。
「はい、渡部さんの話から、以前も発症していたと報告があったいう事でしたので、何か対応策があれば教えて頂けたらなと思いまして」
『対応策なんか無いわよ』
「ない、ですか」
『ええ、灰柿奈々子さんや、他の子の身体を検査したけど、体内から薬物は検出されなかったの。危険な薬ではあるのだけれど、証拠は残さない厄介なタイプなのでしょうね。となると、なぜ依存症のような状態に陥ってしまうのかだけど。結論から言うと、灰柿さんの精神的な部分がとても大きいみたい。過去にあった出来事が、頭の中から消えないのよ』
過去にあった出来事……あまり想像したくないけど、そういう事なのだろう。
「……あの、鎮静剤を投与とかは」
『保護観察官には禁止されてるって、前に渡部が言ったわよね?』
「もっと軽い奴を」
『あのね黒崎君』
水城さんの口調が変わった。
『そもそも、今回の灰柿さんの件については、貴方が申し出たことなの。私たちは最初から貴方に灰柿さんを預けるつもりはなかった。渡部も言ってたわよね、相当大変なことになるって。でも、貴方が望み、実際に過去の経歴として、火野上さんを更生させた貴方になら大丈夫だろうと信じて、私と渡部は貴方に託したのよ。それを軽い鎮静剤を投与とか……』
水城さんの言葉に、僕は何も言えなくなり、ただただ唇を強く噛み締める。
すべてが正論だ、何一つ間違っていない。間違っているとしたら、それは僕だ。
『とりあえず、もう何日か様子を見て、それでもダメなら私に連絡を頂戴』
「水城さん、ですか?」
『ええ、黒崎君は知らないでしょうけど、渡部は怒らせたら本当に怖いからね? 極秘情報を漏洩させたなんて知られたら、一体どうなることか。鎮静剤の件だって、彼には言えないわよ』
渡部さんが怒っているのを想像出来ないけど。
普段怒らない人が怒った時ほど怖いというのは、なんとなく分かる。
「ありがとう、ございます」
『あまり力になれなくてごめんなさいね。でも、本当に困ったら絶対連絡頂戴ね。灰柿さんを元の場所に戻すことだって出来るんだから』
灰柿さんを元の場所に戻す、それはしたくない。
わがままを貫くのなら、最後まで通さないと。
水城さんとの電話を終え、その後は平和な時間を過ごし。
そして、夜が訪れた。
12/29 金曜日 23:45
「……っ、ん……ふっ、ふぅ、ふぅ…………んんんっ」
聞こえてくる喘ぎ声が、今日はなんだか少しだけ荒々しく感じた。
隣で横になっているノノンも気になるのか、繋いだ手にいつも以上の力がこもる。
「ふっふっふっ…………はっ、はぁっ、んっ…………うっ、ううっ、うっ、ひっく、うっ」
喘ぎ声の中に、すすり泣くような声が混じり始めている気がする。
泣いてる? もしかして灰柿さん、泣いているのか?
「うううううっ、ひっく、うっ、ああ、うっ……うぐっ、ひっく、ううっ」
思わず体を起こすと、ノノンも共に起き上がった。
みーこちゃんを起こさないように、明度を下げるだけ下げて照明を点灯させる。
「灰柿さん……」
「ひっく……うぅぅっ……ううっ、うん! んんっ! うんっ!」
灰柿さんは枕を手にして、泣きながらベッドへと数回叩きつけた。
「ななこ」
たまらずノノンが駆けつけて、灰柿さんのことを強く抱きしめる。
息を荒げていた灰柿さんだったけど、彼女は苦痛を言葉にして僕たちに叫んだんだ。
長い髪をぐちゃぐちゃにして、瞳から大量の涙を流して。
「つらい、終わらないの、つらい……やだ、もう、やだよ」
「……ななこ、ノノン」
「死にたいよ……もう、やだなのに、今も、やだ、もう……やだっ……」
収まらない疼きに、誰よりも苦しんでいるのは灰柿さんなんだ。
なんとかしてあげたいと思う、それこそ、鎮静剤に頼ってでも彼女を寝かせてやりたい。
こういう風に考えてしまうのは、ダメなことなのかな。
渡部さんも水城さんと同じように、僕を叱るだけで終わるのかな。
何もしてやれないことが悪だと感じてしまう程に、灰柿さんを想っちゃダメなのかな。
頭の中に、水城さんの言葉が走った。
灰柿さんを元の場所に戻す。
もしかしたら、彼女にとってそれが一番の幸せな選択なのではないか。
「けーま」
僕が思い悩んでいると、ノノンが僕の名を呼んだ。
「けーま、あのね……ノノンがすること、許してほしい」
「……許すって、何を」
混乱する僕をそのままに、彼女は灰柿さんを抱きしめる。
「ノノン、ななこの苦しみ、分かるから。けーまが大好きで、大好きで。だけど、ダメって言われて、苦しかったときと、同じだから」
僕とノノンが、初めて鎖で繋がった日のことを言っているのだろう。
性依存症で苦しんでいたノノンは、泣きながら僕に懇願してきたんだ。
「ノノンには、けーまがいる。でも、ななこには、誰もいない」
「そう、だけど。でも、ノノンがすることって」
「……ノノンは、できるよ。ななこと、えっち」
えっちという単語を聞いて、喉の奥の奥の奥が一瞬で乾いた気がした。
ダメだと叫びたい感情と、それしかないんじゃないかという期待で脳みそがバグる。
「けーまは、男の子だから、できないけど。ノノンは、ななこを傷つけずに、できる」
「だ、だけど、それは」
「きっと、すれば、ななこもおさまる。だから、ね……けーま」
ゆるして。
そう言い残すと、ノノンは泣きじゃくる灰柿さんの手を取って、二人で部屋を後にした。
追いかけて止めるべきなんだと思う、ノノンが犠牲になる必要なんて絶対にないと思う。
でも、それしか解決策が見つからない気がして。
だから、僕は二人がいなくなった後も、ベッドの上から動かなかったんだ。
無機質な機械音しか響かなかった室内に、静かに伝わってくる彼女たちの声が、蝕んでいく。
ノノンなりに気を使ったのだろう、以前お泊まりした時から、舞さんと依兎さんの部屋は未施錠だった。隣のノノンの自室だと音が聞こえてくるけど、廊下を挟んだ彼女たちの部屋なら声は随分と小さくなる。
でも、それでも聞こえてくるんだ。
多分、我慢に我慢していた灰柿さんの声なんだと思う。
僕が彼女の相手をする訳にもいかない、他の解決策もないのかもしれない。
それでも、これが最善だなんて、思いたくもなかった。
それと共に、廊下へと出て、彼女たちの嬌声を聞きながら、僕は。
§
次話『桂馬、それは寝取られって言うんだ』
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