第92話 薬物

 灰柿はいがきさんの頭をノノンが洗っている最中、僕はずーっと睨まれ続けていた。

 僕がみーこちゃんを抱っこしているのが余程気に入らないのだろう。


「うー……」

「ななこ、大丈夫、だから」

「うううううぅ」

「けーまは、大丈夫、ノノンのたいせつなひと」

「うぅ……」


 必死になってノノンが説得しつつ、灰柿さんの長い黒髪を洗い続ける。

 一回目で全然泡立たなくて、二回目でようやく少し泡立ち、三回目でもっこもこになった。

 トリートメントを塗布すると、彼女の黒髪はまさに生まれ変わったように輝きを取り戻す。


 「あー」と綺麗になった灰柿さんを見て、みーこちゃんは湯舟から拍手を送った。


 それを見て、灰柿さんの表情も緩む。

 吊り上がった瞳の目じりが下がり、愛する我が子の愛おしさが故に口端がもにょる。

 ……とても可愛いと思った。

 母性的なものを含む笑みを、年相応の笑みと言っていいのか分からないけど。 

 僕には灰柿さんの笑みが、とても可愛いと思えたんだ。 


 途端、ノノンが僕を見て眉根を寄せる。

 泡々の水着姿で膝立ちをしたまま腕を組み、僕の方を見てぶーたれはじめた。


「むー」

「どうしたの?」

「けーま、ななこ見てる」


 ぎくりとした。

 ノノンが話しかけたからか、灰柿さんも濡髪の隙間から僕を睨みつける。

 灰柿さん、両手を床に付けて女の子座りしながら、首を怒った猫みたいに少しだけ下げた。 


「え? だって、ちゃんと洗えてるか見ないとでしょ?」

「ちがう感じがした」

「違くないから、大丈夫だから」

「……やっぱり、みずぎ、脱ごうかな」

「脱がなくて大丈夫だから! ノノンは灰柿さんの身体も洗ってあげて!」


 これが俗に言う「私がいるのに他の女を見てた」状態か。

 危なかった、これで視線が顔じゃなくて他を見てたら言い訳出来ないぞ。


 ちなみに灰柿さん、母乳をあげているせいか、年齢の割に胸が発達している。

 夏に保護されて三か月は経過している訳だから、瘦せこけた感じもしていない。

 十四歳の健康美溢れる裸、といった感じだ。ちゃんとは見てないけど。


「あうー?」

「そうだね、僕はみーこちゃん見てないとね」

「あうあ、あうー」


 髪を洗ったらぺしゃんてなって、頭蓋骨の形まんまになったみーこちゃん、ほんと可愛い。

 大きくてクリクリした瞳で僕を見て、指をちゅぱちゅぱと咥えている。

 そして、にまーってほほ笑むんだ。

 これは本当に、なんていうか、むず痒くなる程に可愛い。


 みーこちゃんに触れて理解した、僕は子供が出来たら溺愛しちゃうタイプなんだろうな。

 ノノンとの子供が生まれたら、どちらが抱っこするのか取り合いとかしてそうな気がする。

 可愛いんだろうな……ノノンと僕の子供だから、赤髪か黒髪になるのかも。ふへへ。


「けーま、みーこちゃん」

「ん? ああ、そっか、のぼせちゃうか」


 ノノンに言われて我に返る。

 一歳児の基本入浴時間は二十分とネットに書いてあった。

 ノノンが灰柿さんの髪を三回洗ってるから、確かにそれぐらい経過してるかも。

 抱っこしたまま立ち上がり、お風呂のふちに座る。

 感じる視線、見ると、ノノンがこちらをじーっと見つめていた。


「……どしたの?」

「けーま、だいすき」

「どこを見て言ってるのかな?」


 さすがに赤ちゃん抱っこしながら、ノノンや灰柿さんに欲情したりしないぞ。

 僕は忍耐の男なんだ、絶対に、何がなんでも貫いてやる。

 

「あうあうあー」

「うん、そうだよね、お姉ちゃん変なこと言ってるよねー」

「あうあう」

「ノノン、へんなこと、いってないもん!」


 水着姿で叫ぶノノンに、笑う僕、それをいぶかしい目で見ている灰柿さん。

 灰柿さんの身体を洗い終わると、僕は彼女にみーこちゃんを預ける。


 ここから先は女湯だ、僕が残る訳にはいかない。

 つとめてほがらかに、楽しい空間だけを灰柿さんとみーこちゃんに提供する。

 今の二人にはとても大事なことだ、決して今の僕の心境を見抜かれる訳にはいかない。


 適当に身体を拭き、肌着に腕を通すと、僕は足早に脱衣所を後にする。

 お風呂から出て一人リビングへと向かい、渡部さんへと連絡を取った。


「夜分にすいません、黒崎くろさきです。お電話大丈夫でしょうか?」

『問題ない、何かあったのかな?』

「いえ、特に何かあった訳ではなかったのですが。一点、確認しておきたくて」


 ノノンの時と違い、灰柿さんには身上書が存在しない。

 本来四月から保護観察プログラムに入るのだから、現在作成中なのだろう。

 きっとそこには、彼女の身に降り注いだ理不尽な暴力が書き連ねられるんだ。

 それは把握している、その上で、僕は渡部さんへと質問する。


「灰柿さんの腕に残る注射痕について、教えて下さい」


 痣は大体一週間で消える、切り傷も見れば分かる。

 でも、灰柿さんの肘裏には、数えきれないほどの注射の跡があったんだ。

 あれはさすがに、異常すぎる。


『……本来、黒崎君は灰柿さんの保護観察官ではない、教える必要性はないとも言えよう』

「ですが」

『だが、現状、黒崎君の問い合わせに対して、何の返答もせずに電話を切ることの方がリスクが高いと、我々は考える。包み隠さず教える代わりに、火野上さん同様、個人情報保護の観点から、情報漏洩は避けて欲しいと、念を押させて頂くよ。俗にいう、極秘情報という扱いだ』


 僕の言葉を遮るように、渡部さんは事情を説明してくれた。

 ノノンの情報、結構あちこちに漏れてる気がするけど。

 とはいえ、彼女の裸を見た女子だけか。それ以外は口外した記憶はないし。


『さて、注射痕についてだが。結論から言うと、あれは薬物注入によるものだ』

「薬物……ですか」

『ああ、とはいえ麻薬やそういった類のものではない。正式名称は伝えられないが、媚薬の一種だ。塗布や内服ではなく、直接血管に打ち込まれていたらしい。市販されているような正規の薬物ではなく、とても危険な薬物だというのが、医師の見解だ』


 媚薬を直接血管に、想像するだけでおぞましい話だ。

  

『保護した子供たちのほとんどが同じ薬物を打ち込まれていてね。現状、彼女を始め、子供たちの身体から薬物は取り除かれてはいるが……おっと、余計なことまで口にしてしまったか。すまない、忘れて欲しい。とにかく、注射痕に関しては以上だ』


「……分かりました」

『質問は以上かな?』

「はい、ご対応頂き、誠にありがとうございます」


『いや、こちらから伝えるべき内容だったと思う、不備を謝罪するよ。それと、水城からの報告に目を通すと、灰柿さんは夜間、薬物依存の症状を発症させたことがあるらしい。暴れたりとかではなく、性欲が抑えきれなくなると書かれているな。不安ならば、夜間も手の拘束をおススメするよ』


 ノノンの性依存症に近い内容かな。

 でも、みーこちゃんがいる手前、手錠をかけるのも気が引ける。


 渡部さんとの通話を終えた僕たちは、その日初めて四人揃ってとこについた。

 灰柿さんの膝裏まで伸びた髪を乾かすのが大変だと、ノノンが嘆いていたけど。

 そんな内容も笑い話になるほどに、灰柿さんの苦痛が、寝室に響いたんだ。


「……っ、……はっ、…………はっ、はぁ、はぁ…………いっ、…………んんっ」


 久々に耳にする、女の子の荒い吐息。

 周囲に聞こえないようにすればするほどに、僕の聴覚は鋭敏になっていく。

 薬物の話を聞いている以上、止めさせる訳にはいかない。

 狂ってしまうほどの性欲に、灰柿さんは一人戦っているんだ。


 多分、保護される前の灰柿さんは、この声を聴かれて、男の性欲を無駄に掻き立ててしまったのだろう。それだって彼女が望む行為じゃない、強制的にやらされてしまっていたんだ。止められない性欲を、受け止めてくれる無慈悲な暴力。僕はそんな行為を、許せるとは思わなかった。


§


次話『狂い咲く百合の花』

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