第90話 授乳。
ソファで横になった
「みーこ!」
ソファから飛び上がった彼女は、一心不乱にみーこちゃんへと突き進んだ。
だが、その動きは両足にはめられた拘束具によって不完全なものになり、彼女の身体は絨毯へと落ちる。
「みーこ! みーこ!」
「大丈夫だよ、みーこちゃんは逃げないから」
ぽよぽよとしたみーこちゃんを彼女の前へと連れて行くと、灰柿さんはみーこちゃんを抱きしめ、両足を揃えたまま座り込んだ。子供と
その行動も十分ほどで収まり、その後はみーこちゃんの頭を優しくなで始める。
まずは安心させること。お母さんなんだ、子供が心配じゃ聞く耳を持つはずがない。
「灰柿
名前を呼んでも反応がない……か、それもそうか、この名前は渡部さんたちが決めた名前だ。
でも、これがこの国における彼女の本名なんだ、慣れさせてあげないと。
「灰柿さん」
「……」
「灰柿奈々子さん」
三回ほど名前を呼んで、やっと彼女は表情を少しだけ上に向けた。
瞳に宿るのは怒りの感情か、みーこちゃんに対する愛情が、きっとそうさせているのだろう。
乱れた長髪の隙間から見える吊り上がった眉に、深く刻まれた眉間のシワが、彼女の感情を物語る。
「僕たちは灰柿さんからみーこちゃんを奪ったりしない、痛いことも苦しいことも何もしない、だから、安心して話を聞いて欲しい」
聞く耳を持っていないのか、喋ることが出来ないのか。
渡部さんは灰柿さんの事を〝火野上さんより困難を極めている〟と言っていたんだ。
恐らくノノン以上に聞き分けが出来なくて、ノノン以上に凶暴と考えていい。
「僕の名前は
「……」
「黒崎桂馬……まぁ、いいか。隣にいるのが
手を差し出すも、反応は無かった。
睨みつける猫のような警戒心は、もう絶対に子を奪われまいとする母親の愛情が故だろう。
けれど、そんな張り詰めた空気に一番敏感なのは、誰でもないみーこちゃんだ。
「ふぇ……」
灰柿さんの腕の中にいたみーこちゃんは泣きだすと、それは一瞬で号泣へと変わる。
「ふええええええええぇ……ふえええええええぇ……」
トイレなのか、お腹が減ったのか。
みーこちゃんが着ている服は、オムツが交換しやすいように股間部分が開くようになっている。ボタンを外せばそれだけでオムツが見えるようになるので、おしっこしたのかを見たかったのだけど……僕が手を伸ばすも、灰柿さんは触らせてくれなかった。
「みーこ……ぱいぱいね」
母親である灰柿さんには、みーこちゃんが泣く理由が分かるのかもしれない。
灰柿さんは着ていた服を鬱陶しそうにたくし上げると、自分の胸をさらけ出した。
泣き叫ぶみーこちゃんへと先端を咥えさせると、そのまま静かに抱きしめる。
母乳が、出ているのか。
ノノンも僕の隣に座って、静かに授乳している姿を見守っている。
みーこちゃんの口が動き、それに合わせて、灰柿さんは時たま表情をしかめた。
痛い、のだろうか?
数分すると、みーこちゃんの口が外れ、灰柿さんは我が子を縦に抱っこをする。
とんとんとん、と背中を叩き続けると、げぷっと可愛らしい音が聞こえてきた。
生まれて初めて見た、生の授乳してる所なんてこれまで一度も見たことが無い。
気づけば、僕とノノンは手をつなぎ、灰柿さんの所作を見守っていた。
なんだか周囲にはミルクの甘い匂いがしている気がするし、部屋全体が温かい気もする。
「けーま、ノノン……やっぱり、良かったって、思うよ」
「……そうだね」
「お母さんと、赤ちゃんは、一緒じゃなきゃ、ダメだよ」
みーこちゃんの幸せそうな寝顔を見ると、心の底から本当にそう思えるよ。
「灰柿さん」
僕はもう一度、彼女の名を呼ぶ。
「何か飲みたいもの、ある? お腹減ってたりしない?」
でも、やっぱり彼女は何一つ答えない。
ならば、ノノンの時と同様に、こっちですべて勝手にやってしまって構わないだろう。
キッチンへと立ち、牛乳を人肌程度に温める。
みーこちゃんに掛かって火傷しないよう、ぬるめに。
「灰柿さん、牛乳、用意したよ」
「……」
「鉄分が必要なんでしょ? 大丈夫、僕たちはみーこちゃんを奪ったりしないから。まずは母親である、灰柿さんの体調を良くしないとね」
手渡しじゃ受け取らないみたいだから、近くに置いて僕は距離を取った。
動物園の動物みたいな対応方法だけど、警戒心を解くためならなんだってする。
「見られるのが嫌なら、僕たち背中を向くけど」
「……」
「返事はない、か。しょうがない、とりあえずこのままにして、夕飯の準備始めようか」
みーこちゃんを抱いている限りは、特に暴れたりはしないみたいだし。
心の底から大事にしている……というか、生きる支えになっているのかもしれない。
何もない、地獄みたいな場所で生活していた灰柿さんにとって、生まれてきてくれたみーこちゃんだけが、彼女の生きる目的みたいになっているのだろう。だから、誰にも奪われたくないし、誰の手も借りずに育てようとしているんだ。
でも、十四歳の女の子が、一人で赤ちゃんを育てられるはずがない。
肉体的にも未発達な彼女が、誰の手も借りずに育児なんて、とてもじゃないが無理だ。
「さてと、今日はニラレバと和え物、みそ汁と五目御飯か」
ニラレバか、レバーって鉄分豊富だもんな。
何も言われてないけど多分これ、灰柿さんのことを考えたレシピに変わっているのかも。
キッチンで一人料理をしていると、ノノンも近くにとことことやってきた。
「ななこ、飲んだよ」
「そうなんだ、良かった」
ノノンが手にしてきたものは、先ほど灰柿さんに渡した牛乳を入れたコップだった。
まったく飲まず食わずって訳じゃないらしい、それはそうだ、育児は体力勝負だからね。
母体である灰柿さんが栄養不足じゃ、これから戦えないさ。
仕上がった夕食をキッチンのテーブルへと並べ、相も変わらず座ったままの彼女を呼ぶ。
「灰柿さん、料理できたよ」
「……」
「みーこちゃんはそこの毛布使って寝かせて構わないから、灰柿さんも食べよ」
手放したくないのだろう、膝の上で寝付いたみーこちゃんを抱きしめてはいるものの。
ぐー、と鳴り響く空腹を相手には、誰だって勝てやしないはずだ。
けれど、彼女は動こうとはせずに、それでもみーこちゃんを抱きしめ続ける。
これまでがこれまでだったんだ、いきなり食卓を共には出来ないのだろう。
無理に食べさせるのも本意じゃない、彼女の中の踏ん切りが付くまでは、そのままが正解か。
そう、思っていたのだけど。
「……ノノン?」
ノノンは動かない灰柿さんの前に行くと、すとんと座り込んだ。
途端、灰柿さんは眉を吊り上げ、警戒心をあらわにする。
そんな彼女を前にして、ノノンは着ている服を脱ぎ始めた。
セーターも、下に来ていたヒートな肌着も、大きな胸を包み込むブラジャーも、全部。
上半身裸になったノノンは、その姿のまま灰柿さんへと語りかける。
「ノノンも、おっぱい、あるよ」
「……」
「だから、ななこ困ったら、ノノンのおっぱいがあるから、大丈夫、だよ」
何が大丈夫なのか。
灰柿さんのおっぱいからは母乳が出るだろうけど、ノノンのからは出ないぞ。
しかし相も変わらず大きい、ド迫力満点のおっぱいだ。
でも、灰柿さんが見ていたのは、もっと別の場所。
服を脱いだことで露わになった、ノノンの数多の傷跡だった。
「……傷」
「……うん、傷、いっぱい」
「いた、かった?」
「うん」
ぺたぺたと、ノノンの傷跡に触れた後、灰柿さんはノノンの乳房に顔をうずめた。
正座した彼女は、両こぶしを太ももに置き、赤面しながらも無抵抗のまま耐える。
しばらくして起き上がった灰柿さんは「食べる」と言うと、みーこちゃんを静かに寝かせて、キッチンに置いてある料理を食べ始めた。お箸は使えないらしく、スプーンと手で食べる様子は、なんていうかとてもワイルドに感じた。
上半身裸のノノンは僕と目を合わせると、慌てて自分のおっぱいを手で隠した。
「けーまに、見られると、恥ずかしい……」
ならなんで脱いだんだって言いたくなったけど、ぐっと
というか、散々ノノンのおっぱいは見てきたけど、なんで今になって。
女心か、よく分からないな。
§
次話『お風呂問題』
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