第62話 二人の距離は常にゼロセンチ。
8/12 土曜日 15:00
昨日からの長雨で、外の景色は午後三時だというのに、どこか薄暗い感じだ。
リビングには動画を楽しむノノンと、夏休みの課題をこなす僕と
「想像以上だったもの……疲れが出るのもしょうがないわよね」
「まさに、烈火の如し、でしたね」
「医大だもの、分からなくもないわ。むしろ、あの程度で済んで良かったのかもね」
何千時間と勉強した結果が、自分以外の理由で消し飛んでしまった。
調べると、医大の学費は六年で二千万近く掛かるらしい。
入学費だけで三百万、それから六年間、毎年三百万以上。
依兎さんのお父さんが退職していなければ、支払える金額だったのだろうけど。
最近の雇用情勢をみるに、五十代転職組では、毎年三百万の出費は厳しかったのだろう。
「依兎さんがいくら送金したとしても、焼石に水か」
「むしろ、送られてくれば来るほど、嫌気が差したのかもね」
「……報われませんね、そもそもご両親のスパルタが原因なのに」
何をやらせても結果が出せなかった依兎さんを、誰よりも傷つけたのはご両親だ。
それらを棚に上げて、全ての責任を彼女一人に背負わせるのは、間違ってるとしか思えない。
「明日って、お寺に行くんですよね」
「そうね」
「お盆って、お寺でするものなんですか?」
「……普通はしないと思うけど。でも
祖父母が健在の身としては、お盆とは実家に帰るだけのイベントにしか過ぎないのだけど。
七回忌か、そういうのと重なったりすれば、お寺での御盆もありえるのかな。
「だとしたら、服装ってどんなので行けばいいんですかね」
「服装……私達は学生なんだから、制服でしょ?」
「制服か……あ、そういえば、舞さんって花宮高校の制服に袖って通しました?」
「袖、通してないわね」
男と違って裾上げの心配がない以上、サイズの確認だけで済むのだけど。
それでも一度は袖を通しておかないと、準備不足とか言われて、また依兎さんが怒られるのも可哀想だしね。
「依兎さん、起きてる?」
朝から閉まったままの扉を数回ノックする。
と、思ってたけど。
意外にも、返事はものの数秒で帰ってきた。
「……起きてる」
「中に入ってもいい?」
「ちょっと待って」
パタパタと歩く音が聞こえて来て、数秒で扉が開く。
「なに?」
依兎さん、目の周りが赤い……泣いてたのかも。
「……?」
「ああ、ごめん」
思わず言葉に詰まってしまった。
別に変な話をする訳じゃない、落ち着いていこう。
「明日って氷芽家の御盆に参列する訳じゃない? だから制服で行かないとだよねって話になってるんだけど。依兎さんって、花宮高校の制服に袖を通しました?」
「……まだ、通してない」
「舞さんも通してなくてさ、いま隣の部屋で試着してる所なんだ。依兎さんも……っと、え?」
ぐっと、僕の手を依兎さんが握った。
そして、引きずり込まれるようにして部屋の中へ。
依兎さんの手が背中へと回り、顔を僕の胸に沈めるようにして抱き着いてきた。
普段ノノンがしてるような抱き着き方で、こんなの他の人に見られたらヤバイ。
「ちょっと、依兎さん?」
「……少しだけ」
見れば、電車の時のノノンのように、ゆっくりと深呼吸をしている。
しばらくすると、曲げていた膝を伸ばしたのだろう。
胸にあった顔がすぐ近くまで来て、そのまま僕の肩にぽふんと沈めた。
「……依兎さん」
「ん……もうちょっと」
背中に回った手が、強めに僕の身体を抱き締めていく。
距離がゼロセンチにまでくっつくも、それでも依兎さんは離れないまま。
胸があたって、そのままふにゅんと形を変えて、その奥にある振動が伝わってくる。
依兎さん、ブラジャー着けてないのか……。
どくん…… どくん…… どくん…… どくん……
一定のリズムで、けれども時たま早くなったりする鼓動を感じながら、僕は無抵抗に立ち尽くした。落ち着くのであれば、好きにやらせてもいいと思う。日和さんや古都さんが膝枕をしてくれたように、抱き着くぐらいならば減るものは何もない。
彼女の肩越しに室内を見ると、相も変わらずに無機質な部屋には、私物が何一つなくて。
そんな部屋を見て、ぽんと思い浮かんだアイデアを、そのまま口にした。
「今日さ、下のショッピングモールに買い物に行かない?」
「……買い物?」
「うん、この部屋、何もないから……寂しいでしょ?」
生活費の他に、毎月のお小遣いが僕達には支給されているんだ。
そこら辺の高校生よりも、財布の中は潤っている。
「……アンタさ」
「うん」
「女心
「何それ、初めて言われた」
「ふぅん……でもまぁ、アンタライバル多そうだし、アタシはやめておこうかな」
そこまで語ると、ぽんと僕から離れる。
「いいよ、買い物、連れてってよ」
白い歯を見せて笑顔になってくれるのだから、買い物の一つや二つ、どんとこいだ。
§
「改めて散策すると、このマンションって本当に便利よね」
「基本的に敷地外に出なくて済んじゃいますからね、行動範囲が狭まる一方ですよ」
一階に買い物に行くと伝えると、舞さんもノノンも一緒に行くと言ってくれた。
両手どころか三手に花の状態での買い物は、無駄に視線を集める。
「どう、依兎さん、何か欲しいものある?」
「欲しいものあるって、急に言われてもね」
「ノノン! ノノン! おようふくほしい!」
「洋服は高いから、また今度ね」
「ぶー! けーまのケチ!」
普通の服でさえも高いのに、ノノンが欲しがるのはデザイナーズ系だから本当に高いんだ。
一着一万円以上が基本だから、そう何度も買えたりはしない。
僕的には安くて着まわせる服の方が好みだけどな。
「あれ、
「あ、
モールの通路を歩いていると、同級生の小平君たちと再会した。
三週間ぶりぐらいになるのかな? 全員日に焼けてて、夏を満喫してそうだ。
女子の姿はなく、クラスの男子数人で集まって遊びに来たって感じに見える。
本当なら小平君も観察官だったんだよなぁ……口が裂けても言えないけど。
「あら、お友達?」
「ええ、僕と同じクラスの男友達です。小平君、こちら僕と同じ観察官の
同じ高校に通うことは確定してるのだから、紹介しても問題ないだろう。
舞さんは僕に紹介されると、小平君たちへと近寄って、両手を前に添えてお辞儀をした。
「椎木舞です、二学期から同じ学校になると思いますので、宜しくお願いしますね」
「……マジか」
小平君、顏が真っ赤になってる。
そりゃそうだよな、舞さん美人だもん。
他のクラスメイトも初々しい反応をしていて、何だか見てるこっちまで照れてしまう。
「ほら、依兎さんも」
「氷芽です。多分、アタシも同じ学校だと思います」
「……マジか」
依兎さん相手でも全く同じ言葉しか出来てないぞ、見ていて楽しいや。
「え、えっと、俺、小平
「あら……そうねぇ」
舞さんがチラリと僕を見る。
遊ぶくらいなら問題無さそうだけど、選択肢は彼女たちに委ねよう。
どうぞ、と手を差し出すと、依兎さんが代わりに返事をした。
「別にいいんじゃない? 特に何かする用事も無いんだし」
「マジっすか! 俺達これからゲーセン行こうとしてたんすよ!」
「ああ、いいねぇ、一緒に行こうか」
にっこにこの小平君とか、久しぶりに見るかも。
でも、これを見て改めて思うよ。
小平君が観察官じゃなくて良かったって。
「氷芽さん、髪メッチャ綺麗っすね!」
「ありがと、その焼け方……小平君は部活に入ってるの?」
「サッカー部っす! だからかな、俺、UFOキャッチャーとかめっちゃ得意なんすよ!」
サッカー部とUFOキャッチャーの関連性や、如何に。
「小平君、アタシこれ欲しいなぁ」
「ま、任せて下さい! 絶対に獲りますから!」
「石田君も、この人形とか獲れたりする?」
「お、俺、たまたまこの人形獲りに来たんですよ! 二個取るんで、お揃いにしませんか!」
「あは、いいねぇ、がんばれがんばれ♡」
「うっぉぉぉ! 絶対に獲ってやる!」
あーあ、全員完全に手玉に取られちゃってら。
残る一人も舞さんと一緒に行動してるし……青春だねぇ。
「けーま、ノノンもあれ、ほしい」
見ると、小さいタイプのUFOキャッチャーで、白黒モニターのブロック崩しが出来るゲーム機だった。ゲームセンターの大きいぬいぐるみ系は、設定金額に達しないと獲れないのがほとんどだけど……こういう小さくて景品がショボいのは、初手で獲れたりするんだよね。
「じゃあ、やってみようかな」
百円を投入して、ボタンを押し込んでグルグルと。
景品のゲーム機は丁寧に置かれている訳じゃなく、山盛りにごちゃっと置かれている。
クレーンを止める場所は適当でいっか。
……お、爪が上手いことリングの中に入り込んでるぞ。
ぷらんぷらんしながら爪に三個引っ掛かって、それがそのまま景品口に落ちてきた。
「獲れた」
「きゃったぁ! ノノン! ノノンほしい!」
「うん、いいよ。どれにする?」
赤と黒と青、どれでも内容は変わらないだろうけど。
「ノノン、あかがいい!」
「ん、どうぞ」
「にへへー! うれしいな! けーま、ありがと!」
むにゅーってくっついてきて、ぽんと離れると、ノノンは手にしたゲーム機を起動させる。
毎日暇そうにしてたもんな、これぐらいの娯楽はあった方がいいか。
「じゃあ、アタシは青かな」
「依兎さん」
「はい、黒が舞さんな。黒崎、サンキュ」
横から依兎さんが全部持って行ってしまった。
まぁ、別に大したものじゃないし、笑顔になってくれるのならそれでいいけど。
§
「沢山のぬいぐるみ、本当にありがとうな」
「いえいえ、これぐらい男として当然ですよ」
一体、いくら使ったのだろうか。
ありえないぐらいの量のぬいぐるみを貰った依兎さんは、小平君に感謝を告げる。
「はいアンタ、これ持って」
「まぁ……こうなると思ってましたよ」
そして、その全てを僕へと手渡すんだ。
完全に依兎さんに手玉に取られてる、異性を転がすのは彼女の方が圧倒的に上だと思うよ。
「ちょっと待て黒崎、なんで氷芽さんの荷物をお前が持つんだ?」
「なんでって、僕達同居…………あっ」
しまった、ノノンとの同居はバレてるけど、舞さんや依兎さんはまだ伝わってなかったんだ。
思わず口を滑らせてしまった、途端、クラスメイトが僕に迫る。
「お前、まさか、女子三人と同居してんのか!?」
「い、今だけ、今だけね! 舞さんと依兎さんの新居が決まるまでの間だけ!」
「おま、お前…………い、いや、分かった、我慢する」
「う、うん、ありがとう」
我慢出来るんだ、小平君成長したね。
そんな彼は、ノノンへとずいっと近寄った。
「火野上さん」
「……?」
「黒崎が浮気しないよう、ちゃんと見張ってて下さいね」
「けーま、うわき? うわき…………うわき」
悪い顔をしたノノンが、僕をじろっと睨む。
やめてくれよ、最近は何も疑われるような事してないんだから。
……してない、と、僕は思ってるんだけど。
なんか、悪い顔した依兎さんが近づいて来たんですが。
「アンタ、浮気しそうだもんな」
「しないよ」
「本当ー?」
依兎さんは僕の肩に捕まって、息が掛かるほどの距離にまで顔を近づける。
それを見たノノンも反対側の肩に捕まって、無言のまま近寄った。
「……あ、あの?」
「けーま、うわきしそう」
「しないから! 何でこうなるのさ!」
「さいきん、なんかあやしい」
「怪しくないって!」
「くさり、のばして、どこいってるの」
「――っ! 分かった、じゃあこの鎖、もう伸ばしたりしないからね!」
二人の距離は常にゼロセンチ。
やっちまったと思いつつも、発言を取り消さない。
そんな、とても呑気な一日を過ごせたのでした。
§
次話『貴女は、ここに来ちゃダメだよ』
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