第56話 暖簾に腕押し、腎臓一個三千万※椎木舞視点
このマンションのセキュリティレベルは、私が以前住んでいたマンションよりも各段に高い。部屋ごとの施錠や収納式のレバー型のドアノブ、三重ロックの玄関に、アナログだけど揺るぎない信頼のあるカードキーシステム。これらシステムのお陰で私達観察官は守られ、普通の施設よりも特化した更生に臨むことが出来る。
『
胸に手を当てて、肩を上下に動かすぐらい、大きく深呼吸をついた。
心に余裕があるのは、きっとセキュリティレベルが高いだけじゃない。
観察官として頼りきる訳にはいかない、そう思っているけど。
隣に
……うん、大丈夫、心を強く持って。
私が相対する人は、同世代の女の子なんだから。
「……はぁ」
ドアノブに手を掛けて、室内に入るなり思わずため息をついてしまった。
昨日この部屋を案内した時にはあんなに綺麗だったのに。
今では机がひっくり返り、椅子は倒されている。
手錠を後ろ手にしていたお陰か、引出しとかを荒らされた感じはしないけど。
どんっ どんっ どんっ どんっ
耐久性の高いマンションだから、彼女の蹴り如きでは傷一つ付かないけど。
「それ、楽しい?」
皮肉とも取れる言葉を投げかける。
皮肉に受け取って貰えれば、それはそれでいいんだけど。
「……なに、喧嘩売ってるの?」
「良かった、まともに会話出来るだけの知性はあるのね」
返事はないままに、彼女は壁への蹴り込みを再開した。
「氷芽さん、どうして貴女はそんな態度を取っているの?」
どんっ どんっ どんっ どんっ
「何か不満があるなら言って欲しい。私達……ううん、特に私は、そういうのを見抜くことが出来ない人間だから。言葉にされてても、私には見えないことが多くてね。私には今の氷芽さんが何を求め、何に怒っているのか、全然分からないんだ」
四宮君の嘘を、私は見抜くことが出来なかった。
最後の最後まで、私は彼を馬鹿みたいに信じ抜き、そして裏切られた。
四カ月、誰よりもずっと、側にいたのに。
「アタシに態度を改めて欲しいって、そう思ってるの?」
蹴り込んでいた足を止めて、氷芽さんはくるりと身体を回して起き上がった。
「
「貴女が馬鹿なことをしないって約束してくれれば、今すぐにでも外すわ」
「無理、
手錠をしてたって肩紐のないブラジャーなら付けられるのに、彼女はそれすら否定している。
足が自由なのにショーツも穿かず、パンツすら
桂馬君が彼女に手を出すことは絶対にない、でも、逆はあり得る。
監視カメラの下、既成事実一つあれば、それだけで女は優位に立てるのだから。
「そうやって、以前の観察官みたいに桂馬君を操り人形にしたいんでしょ? ……ねぇ氷芽さん、私ね、貴女の身上書を何度も読み返した。家族に理解されない辛さは誰よりも理解してるつもりよ? 私もね、小学校、中学校の頃からずっとバレエの世界に身を置いていたんだけど――」
「アンタさ、黒崎のことが好きなんでしょ?」
突然の氷芽さんの言葉に、思わず口をつぐむ。
図星? って言われて、無言のままに首を振った。
「アタシはね、同情も共感もいらないの。下らないことを延々と語るつもりもない」
「……会話をすることは、下らない事じゃないわ」
「そういう上から目線が一番嫌い」
そこまで語ると、氷芽さんはベッドに仰向けに寝そべり、壁を蹴り始めた。
「……ねぇ、氷芽さん、貴女って臓器売買にも手を出してたんでしょ?」
「だから?」
「どうして、そんなにお金が必要なのかなって、疑問に感じたんだけど」
「別に、お金に苦労したこと無い奴には分からないでしょ」
会話がすぐに終わってしまう……ううん、終わるようにされてるんだ。
心が開いていない、信用されてないんだから、当然と言えば当然なんだけど。
「ねぇ、どうしたら私達って仲良くなれるの? このままじゃどうにもならないよ」
壁を蹴る足を止めて、仰向けのまま私を見る。
「仲良くなる必要、あるの? そもそもアタシ達女同士じゃん。将来的に別れるのが決まってる保護観察なんて、厄介払い以外のなにものでもないって事でしょ? 互いに干渉しないで生きていくのが一番なんじゃないの?」
そう言われてしまうと、そうなのかもしれないけど。
同性なんだ、私と氷芽さんがカップリングすることは百パーセントない。
でも、それだと私が観察官である意味もなくなってしまう。
「大体この保護観察どーたらだってさ、少子高齢化だ健全な男女交際だなんだ偉そうなこと言ってるけど、結局は金な訳でしょ? アタシは金のためにこの身体を売ってたの。普通のおっさんが生涯稼ぐお金が二億だっていうじゃない? アタシはその金額を目指して稼いでただけなのに……急に保護だなんだ言われて、大迷惑なだけなんだけど?」
「……え、それだけで臓器売買まで手を出したの?」
「そうだよ? 二つある腎臓を一個売るだけで三千万円貰える予定だったのに、本当に大迷惑だよ。傷だけ残っちゃって、お金も貰えず何も出来ず。そうだ、アンタさ、アタシを更生したいんでしょ? だったらお利巧にしてるからさ、夜間外出だけ認めてよ。後はアタシが勝手に一人で上手いことやるからさ」
そんなの、許可出来るはずがない。
夜間外出を許可したが最後、絶対に氷芽さんは帰ってこないままで終わる。
……ダメだ、今はまだきっと、その時じゃない。
「あれ? 行っちゃうの?」
「桂馬君……黒崎観察官も、貴女と話がしたいって言ってたからね」
「しゅきピの所に行くんだ?」
「そういうのじゃないから」
「ていうか、アタシと黒崎を二人っきりにしていいんだ? ヤバイと思わない?」
「……桂馬君なら、大丈夫だと信じてるから」
「ふぅん。あっそ。さっきの件、考えといてね」
そこまで語ると、氷芽さんは再度壁を蹴り始める。
せめてとシーツを掛けてあげたけど、すぐさま振り払われてしまった。
「じゃあ、交代するからね」
無言のまま、返事も所作もせず。
一回や二回じゃどうにもならないかな、何カ月と一緒にいないとダメかも。
扉を開けて廊下へと出ると、すぐ横に腕組みした桂馬君の姿があった。
「あんまり、進展はなさそうかな?」
「……うん、時間かかりそうね」
「そっか、じゃあ、とりあえず僕もお話してくるよ」
そう言いながら、今度は桂馬君が氷芽さんの部屋へと入っていく。
私と桂馬君とで態度に違いはあるかもしれないけど、氷芽さんの心は絶対に開かないと思う。
軽くかわされて終わり……きっと、一日じゃ感情の引き出しなんて開けられないんだろうな。
毎日毎日話しかけて、ずっと一緒にいて、それでやっと通じ合う事が出来る相手なんだ。
時間を掛けるしかない。
氷芽さんの部屋を見ながら、廊下に座り込んだ。
途端――
「ふざけんなッ! なんだよそれッ!」
怒りの叫び声が、氷芽さんの部屋から響き渡る。
一体、桂馬君は何をしたの。
無我夢中で起き上がり、私は彼女の部屋に戻った。
§
次話『理由と責任と後悔』
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