第18話 彼女の名前

 報告会が終わった後の火野上ひのうえさんの上機嫌は止まる所を知らず。

 桂馬けいま桂馬と僕の名を呼びながら、今日は一人でキッチンに立つと言い張った。

 黄色いひよこが描かれたエプロンを身にまとい、ピンクの三角巾を頭に装着した火野上さん。

 腰に手を当ててやる気満々で、なんか可愛い。


「夜ご飯、ミートスパゲッティとシーザーサラダだけど、大丈夫?」

「ノノン、料理上手になったよ? 桂馬は安心して見てるといいの!」


 キッチンの引出しが施錠されているのは、彼女の自傷行為をさせない為だ。

 こうして料理をすると言っている以上、上昇志向なのは間違いない。

 上昇志向は悪い事ではない、むしろ歓迎すべきことだ。


「じゃあ、お願いしようかな」

「うん! ノノン、任されたのだが!」


 だが? 相も変わらず腰に手を当て「ふん!」って感じだけど。

 特にその後に続く言葉はないらしい。


 鍋に水を入れてIHのスイッチをON、沸騰したらパスタを投入し、くっ付かないように混ぜる。その間に冷凍されているミートソースの袋をレンジでチン、更には冷蔵庫に入れてあったサラダを分けて、クルトン、ついでシーザードレッシングをかける。鍋からゆで上がったスパゲッティを皿に分けて、チンしたミートソースを掛けて出来上がり。簡単。

 

「けーま! ノノン! 出来た!」

「おー凄い、本当に出来たんだね」ぱちぱちぱちと、拍手。

「うん! ねぇ桂馬! ノノン、ご褒美欲しい!」


 なるほど、これが狙いか。

 積極的に火野上さんが動いた場合、何かご褒美が欲しい時ということか。

 労働の対価か、学んだな。しかしご褒美か、何を要求するのだろう?


「ご褒美って、なに?」

「ノノン……ノノン! 桂馬と一緒に寝たい!」

「ダメ」

「なんで!」

「ダメったらダメ」

「一緒に寝るの! 寝るだけなのに!」

「だって、それは」


 同い年の異性が一緒のベッドで寝て何もないはずがない。ましてや火野上さんは毎晩激しい自慰行為をしているじゃないか。万が一隣でそれをやられてみろ、僕は自分を自制する自信がない、これっぽっちもない。普段から壁一枚挟んで同じことしてる位なんだから、タガが外れるに決まってる。もしそうなった場合、僕にかかる責任は何よりも重い。


「別の部屋で寝るのノノン寂しい! 桂馬とずっと一緒にいたい!」

「寂しい言われても」

「うー! ノノン頑張った、ご褒美、欲しいよぉ」


 火野上さん、人差し指つんつんしながら泣きそうな顔をしてる。

 昼間会話した性依存症の話が頭の中でグルグルしてる。

 グルグルしてる……けど。要は、僕が我慢すればいい。


 幸い僕の部屋には手錠がある、それで僕自身を物理的に拘束してしまえばいいんだ。朝になったら彼女に外してもらえばいい。そうだ、手錠だけと言わず足枷、鎖の類も全部装着してしまおう、それなら大丈夫だ。絶対に襲わないで済む。


「一緒に寝る、だけだよ?」

「――! うん! ノノン、静かに寝る!」

「それと、今日だけだからね?」

「今日だけ……うぅ、毎日は?」

「毎日はダメ」

「桂馬のケチぃ」


 ケチで結構だよ。下心とか、ないよな? 以前僕の部屋に勝手に入ってお金盗んだことあったけど、そういうのは流石に心配する必要はないか。盗んだ所で出られないし、今の火野上さんがそういう事をするとは思えない。


 あるべき問題は性依存症だけ。

 それさえクリアすれば一緒に寝ても大丈夫なはず。


「いっただっきまーす!」

「いただきます……あ、美味しい」

「ふふーん、ノノンの料理、上手になったでしょー?」

「うん、上手になった。これなら本当に任せても良さそうだね」

「えっへへー! うふふっ、ノノン、にやにやが止まらないなぁー」


 本当に嬉しそう、これは家事も少しづつなら任せても大丈夫そうかな。

 出来る事を増やして、いずれは当番制とかにしたいものだけど。


「ご馳走様ー! ノノンテレビ見よーっと」

「あれ、片付けは?」

「ノノン作った、片付けは桂馬」

「ふふっ、はいはい、綺麗にしておきますよ」


 マイペースな感じで、いつもと変わらない。

 きっといろいろと考え過ぎなんだ、のんびりで構わないさ。 

 

 皿洗いの後に明日のご飯の準備、乾燥済みの洗濯物を畳んでアイロンがけをしたらもう夜九時だ。お風呂掃除をして、自動給湯のスイッチを押したら、あと二十分って所かな。今日の洗濯物も乾燥までして、時間があったら畳んでしまおう。


「さてと。火野上さん、お風呂作ったからね……って、脱衣所になんでいるの?」

「ノノン……夜が楽しみで、早くお風呂入りたい」

「あ、ああ、そうなんだ。でもまだ脱がないでね、僕これから日報書きに行くから」

 

 脱衣所にいる火野上さんの脇をすり抜けようとすると、彼女に腕を掴まれた。

 

「ちょっと、どうしたの?」

「けーまぁ」

「何さ、甘えた声だして」 

「……桂馬は、ノノンの裸、嫌い?」


 突然の質問に、驚く。

 同世代の異性の裸なんだ、嫌いかどうかなんて質問の方が間違っている。


 だけど、相手は火野上さんだ。

 質問の意図は、そう難しくない。


 自分の身体なんだ、火野上さんは毎日、自身の身体に残る傷跡を見て生きている。

 手の甲、腕、背中、お尻、足、全身なんだ、視界に入らない日は一日だって存在しない。

 だからじゃないが、僕はその質問には即答する。答えなんて一個しかないから。


「嫌いじゃないよ」

「本当? ノノン、傷とか、あちこちにあって、ノノンの身体……汚い、よ」

「それでも、嫌いじゃない。傷だって全部火野上さんのせいじゃないんだ、全然汚くないよ」

「……桂馬」

「……なに?」

「ノノン……ノノン、桂馬のこと……」


 時を刻む静かな呼吸、言葉にせずとも伝わってくる想い。

 僕の服を摘まむようにし、彼女は俯き、何も言わずに静かに佇む。


「……火野上さん」


 名を呼ぶと、彼女は僕の唇に人差し指をくんっと当てた。


「ノノン、それ、嫌かも」

「?」

「ノノンって、呼んで欲しい」


 唇から指を離し、その指を大事そうに握る。


「やっぱり、ご褒美変える。ノノン、今日は一緒に寝なくてもいい。その代わり、ノノンって呼んでほしい。ノノンは、ノノンだから。桂馬には、ノノンのこと、ノノンって呼んで欲しい。……桂馬だけ、そう、呼んで欲しい」


 彼女は自分のことをノノンと呼ぶ。

 それを耳にした男達が、こぞってノノンって彼女を呼ぶんだ。

 クラスメイトもそう、彼女を甚振いたぶった男も、全員がそう呼んだ。


 火野上さんが僕の腕を抱き締めるようにして、すがる様な眼で僕を見上げる。

 彼女のことを名前で呼ぶ、これまでの男を消し去る為に。


「分かった。……ノノン」

「桂馬……けーまぁ」

「ノノン」

「うん、ノノン……ふふっ、けーま」


 改まって呼ぶと、ちょっとこそばゆい感じがする。

 何度か名前を呼びあうと、彼女は僕の胸に飛び込んできた。

 ぎゅーってして、顔をふりふりと子犬のようにふって。 


「甘えん坊だね。前から思ってたんだけど、ノノンって名前、可愛いよね」

「可愛い? ノノン、可愛いの?」

「そりゃ可愛いさ、可愛いノノンの名前なんだからね」

「ノノン、そんなの言われたことないよ……えへ、えへへ……えへ……ひっく」


 小さな彼女の頭を包むように抱き締めて、優しく撫でる。

 こんなに小さな頭で必死に考えて、いっぱい悩んでるんだ。

 強く抱き締めたら折れてしまいそうな程に華奢なのに、一人で頑張って、本当に偉いよ。


「ノノン、ノノン……ふえええぇぇっ、ひっく、ええええぇ」

「泣かない泣かない、ノノンはいい子だよ」

「ええええええぇ……ノノン、嬉し、うええええええええぇん」


 保護観察官報告会を終えた日の彼女は、とても甘えん坊で、とても泣き虫で。何があったのかは分からないけど、その日を境に、彼女は僕のことをこれまで以上に好きになってくれていた。

 

 誰が見ても明白なその想いに応える勇気もないくせに。

 僕は、自分の気持ちをどうすべきか。

 抱き締めてる今でさえ、情けない程に悩み続けていた。


§


次話『第三者から見た二人の気持ち。』

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