第9話 算数ドリルと性に無頓着な彼女

「え、渡部わたべ課長、教えてなかったの?」

「食材が宅配されるなんて聞いてませんでしたよ」

「夕方配達で夜、朝、昼ってあったのに」


 二階のエントランスに設けられたチルドロッカー、三〇一号室専用のロッカーもあって、その中には発泡スチロールの箱と、役目を終えたドライアイスが悲し気な表情と共に食材と眠っていた。


 水城みずきさんがしゃがみ込み、発泡スチロールの箱を開けて中身を確認する。


「一日くらいなら大丈夫かな……お昼まだでしょ?」

「ええ、途中から部屋掃除になってましたから」

「じゃあ……ノノンちゃん、私と一緒にお昼作ろうか?」

「料理! うん、ノノン料理する!」


 意外にも、火野上ひのうえさんは料理に上機嫌な反応を見せてくれた。

 昨日の彼女だと不衛生で正直困った所だったけど、今の火野上さんなら期待できる。

 今朝もブラ付けた時に背中から良い匂いしかしなかった、さすがは女の子って感じ。


『黒崎桂馬様を確認、解錠します』


 キッチンの至る所にまで施錠がなされているんだけど、それはやはり自傷癖のある火野上さんを思っての配慮なのだとすぐに理解出来た。包丁も子供が使うような肌が切れない包丁だし、フォークも先が丸いものだけが収納されている。それでも、施錠が必要なんだ。


「さて、今日のお昼はビビンバ丼です」

「びびんば?」

「じゃあノノンちゃんは、お肉をモミモミして下さいね」

「もみもみ」


 女の子二人がキッチンにいると、それだけで華やかだ。

 僕も作り方を学んだ方がいいんだろうけど、今日は甘えちゃおうかな。

 明日の準備とかもしないとだし、火野上さんの制服も袋から出さないとね。

 しかし明日から高校生か……火野上さんとの学校生活か、どうなるんだろ。


「ごはん、できたよ」

「あ、うん、教えてくれてありがとう」

「……ふん」


 部屋で作業してたら火野上さんが呼びに来てくれた。

 でも、彼女の中での僕は、まだまだ認められていない感じなのかな。

 しかし美味しそうな匂いだな、さっきからお腹の虫がぐーぐー鳴ってるよ。


「うはぁ、美味しそうなご飯」

「凄いでしょー? ほとんどノノンちゃんが作ったんだよ?」

「え、本当に? 火野上さん凄いね」

「……ふん」


 豚こまとほうれん草、それと温玉の簡単なビビンバと、ワカメスープ。

 ご飯は早焚きモードにもかかわらず、一口目から熱々でご飯が立ってる感じ。

 ふは、普通に美味しい。なんだ、火野上さんって結構料理出来るんじゃん。

 コチュジャンできちんと辛くしてあるし、ほうれん草も良い感じに切れてる。


「あー食べちゃった。おかわりってあります?」

「うふふっ、黒崎君は結構食いしん坊なんだね」

「すいません、なんかとても美味しくって」

「…………ふん」


 さっきから火野上さん「ふん」しか言わないけど……でも、顏がちょっと赤くなってる。

 嬉しいんだろうな、褒められたら嬉しい、それは料理でも一緒だ。

 二杯目も大盛りにして食べきった後、予定していた制服の袖通しが始まった。


「ほら、黒崎君もなに遠慮してるの。青少女保護観察官なんだから、しっかりと見なさい」

「ああ、いや、さすがにまだ異性の下着姿には慣れていないので」

「昨日一緒にお風呂入ってるんでしょ? 裸全部見てるんだから、気にしないの」


 そんな簡単に割り切れないよ、昨晩だってどれだけ煩悩押し殺したことか。

 部屋の隅で極力、下着姿の火野上さんは視界に収めないようにして、制服の着方を学ぶ。


 とはいえ、そんなに難しくはない。


 まずは下に無地のシャツを着せて、その上にスクールワイシャツと襟部分にリボン、下はチェックのプリーツスカート、太腿の半分くらいまである黒のニ―ハイソックスを穿かせたら、セーターとブレザーを着せて完成。あっけない程に早く完成したけど、その完成度はクソ高い。

 

「……これ、ノノン?」

「そう、女子高生のノノンちゃんよ」


 姿見鏡でクルクルと回っては、自分の姿を確認している。可愛い。

 こうして見ていると年頃の女子高生にしか見えない。

 元々、きっと普通に生活していれば、彼女の人生バラ色だったに違いないんだ。

 生まれた時から不公平で、悲しい人生しか送れてなくて、毎日死を望むとか。

 

 ……絶対に、間違ってるよ。


「どうしたの黒崎君、泣くほど嬉しい?」


 火野上さんが綺麗になれば綺麗になるほど、過去が許せなくなる。 

 それが、気付けば涙という形になって表れてしまうんだ。


「……そうですね、とっても綺麗で、思わず泣いちゃいました」


 マセた言葉だ、僕の言葉とは思えない。

 椅子に座って目端をこすっていると、いつの間にか目の前に火野上さんの顔があった。


 大きく開いた赤い瞳、ぴんと立った長い睫毛、すっと通った鼻梁に、健康的な色合いの唇。

 街中を歩いたら数人は振り返ってしまうような、そんな可愛らしい素顔だ。

 

「ノノン、綺麗……?」

「……うん、綺麗だよ」

「…………そっか」


 何かを確認したかったのかな。彼女にとっての何かの指標になれたのなら、それでいい。

 僕の役目は彼女を更生すること、彼女が幸せになってくれるのであれば、それが一番なんだ。


「おま……えと、くろ……」

「黒崎桂馬、だよ」

「……ケーマ?」

「そ、桂馬、将棋の駒だね」

「しょうぎの、桂馬?」

「うん」

「桂馬」

「そう、僕の名前」

「難しいの、ノノンわからない。でも、桂馬が喜ぶなら、ちょっと頑張る、ね」


 ちょっと頑張る、その言葉を聞いただけで何だか泣けてくるのは、なんでなのかな。


 是非とも頑張って、制服を一人で着れるようになって下さい。

 今はどれだけ叫んでもいいですから。 


「ノノン、ボタン付けるの苦手!」

「諦めないの! 今さっき桂馬君の為に頑張るって言ったでしょ!」

「もう頑張った! ズレててもいい!」

「ダメ! もう、ずっとジャージで生きてきたのってこれが理由だったのね!」


 ワイシャツのボタンの掛け違いで水城さんと延々とバトルしている。

 まだまだ時間が掛かりそうだ、今の内に、僕も明日の用意を終わらせておこうかな。

 確か提出物とかあったよな……あれ? 火野上さんの提出物って、どうなってるんだ?

 というか、花宮高校って偏差値五十はあるんだけど、勉強についてこれるの?


「え、そんなの無理に決まってるじゃない」

「へ? じゃあ、高校には何をしに」


 着替え戦争を終えた水城さん、リビングのソファに座ってアイスコーヒーを一口。

 火野上さんは制服姿がよっぽど気に入ったのか、自室でずっとクルクルしてる。


「ノノンちゃんが学ぶのは、これよ」


 水城さんが元ノノンの部屋にあった机から取り出したもの。

 それは、小学校一年生から六年生までの、国語と算数の教科書だった。

 

「え、これって……冗談ですか?」

「冗談なもんですか。ノノンは二桁の足し算で精一杯なの」

「二桁?」

「そ、二桁。漢字も文法も全滅、会話してて気づかなかった?」


 気付いてはいたけど、そこまでとは思いもしてなかった。

 

「生きる為に最低限必要な事を学ぶ、それがノノンが高校に行く理由よ」

「いや……それって高校である意味なくないですか?」

「じゃあ黒崎君は、ノノンに小学校に行けって言うの? 小学生と机並べて?」

「それはさすがに。ほら、家庭教師とか」

「この家から一歩も出さないつもり? それも可哀想だと思わない?」


 そこまでは言ってないけど、それに近いことは思っていた気がする。


「うふふっ、冗談」

「冗談って」

「ノノンが学校に行く理由はね、黒崎君を通して、人間関係を学ぶことが最大の目的なの」

「僕を通して……って、え、同じ教室で過ごすって事ですか?」

「もちろん。通学も一緒だし、教室も一緒。ただ、ホームルームと体育だけ、それ以外は別で授業をすることになるわね。さすがに黒崎君まで小学生の授業じゃ困るでしょ?」


 困るというか、僕の将来が終わる。

 

「ノノンが更生する上で、人間関係が一番の課題になるのは間違いないから」

「まぁ、確かに、何となく想像できますけど」

「守ってあげてね……あの子にはもう、貴方しかいないから」

「……そんな、仰々しく言う必要はありませんよ」

「ううん、仰々しくなんかない、本当のことよ」


 含みのある言い方をした水城さんだったけど、お昼の片づけをすると「まだ仕事があるから」と言ってマンションを後にしてしまった。大人になったら本当に春休みなんてないんだなって思いながら、さっそく算数ドリルを手に取り、僕は火野上さんの部屋へと向かう。


「火野上さん、算数ドリル……」

「桂馬、ほら! ノノン、可愛い!?」


 スカートの裾を持って、僕にピンクの下着を見せつける。昨日から溜まっていた欲求が鼻血となってあふれ出て来るのを、僕は熱いリビドーと共に感じていた。

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