第44話 悪女に人生を狂わされた男たち

 クーデターが始まる――

 その決行の瞬間を、ラクロイド伯爵領の息子ルークは今か今かと心待ちにしていた。


(第二王子を王にして、要職につく――そして――!)


 聖女エルミーゼに告白し、婚約するのだ!

 ルークが己の左頬に手を添えると、それだけでぞくぞくとした得体の知れない気持ちよさが背骨を駆け上った。

 そこはエルミーゼによって殴り飛ばされた場所だ。

 脳裏に閃く記憶は、


 ――あっちいけ!


 というエルミーゼの怒声と、怒りの形相だ。ロイヤル・ワインを巡るウィルトン領でのこと、ルークはエルミーゼに思いっきり殴り飛ばされたのだ。


 その記憶は、燃えるような恋心と性的な興奮とともに蘇る。


 最初は、そんなバカな! 変態か!? と事実を認められなかったが、今では違う。肯定感しかない。俺はこういう生き物なのだ。もう一度、エルミーゼと会って告白したい、殴られたい、踏みつけられたい。


 聖女にふさわしい男になり、エルミーゼに愛を送る。


 ルークは本気でそう決心した。

 あの喜びを、再び味わうのだ。


 そこに舞い降りてきたクーデターの呼びかけ。父である伯爵は「教会と画策していた企みが漏洩すれば破滅だ。第二王子に王になっていただくしかあるまい」とクーデターへの参加を決めた。


(これを成功させて、あなたを迎えいれよう! エルミーゼ、待っていろ!)


 胸に愛の炎が灯る。

 腕を組み、遠く――第一王子がいるであろう場所を眺める第二王子ガルガドにルークは近づいた。

 ルークは、急襲部隊の副大将の地位にあった。


「ガルガド様。そろそろお時間です」


「よかろう」


 うなずくと、ガルガドは馬にまたがった。ルークも隣の馬に騎乗する。

 ガルガドは腰から引き抜いた腱を高く掲げた。


「これより、ガルダニア王国の未来を賭けた一戦を行う! 正当なる後継者は惰弱な兄であるべきではない! ガルダニア王国の王は精強であるべし! その定めは天が決めたことわりなり! その座には、この私、ガルガド・ガルダニアこそがふさわしい!」


「おおおおおおおおおお!」


 集まった兵たちが大声でそれに応じる。

 作戦は完璧だ。万に一つも失敗はない。安全地帯だと思って、最小限の護衛しかつけていない第一王子の首を落とすだけ。その先にあるのは、目も眩むような栄達!


「突撃ぃぃぃぃぃぃ!」


 ガルガドの命令により、100を超える兵士たちが突撃した。

 秘密裏の行動だったので、これが限界だった。だが、十分だった。第一王子の護衛は20人ほど。精鋭ではあるが、数で押し殺せばいい。

 それに何よりも、ガルガド・ガルダニア本人が恐るべき使い手なのだから!


 ――夢は早々に散る。


「は?」


 ルークは異変に気がついた。

 第一王子が献花をしている記念碑までの間に、何かしら黒い膜のようなものが見える。

 近づくにつれて、それがなんなのかわかった。

 王国の騎士団だ。

 その数、300はいるだろうか。


「な、なんだと!?」


 ガルドガが悲鳴のような声を上げる。


「止まるのです、ガルガド様!」


 前方の騎士団から大声が飛ぶ。状況はすでに兵たちに伝わり、反乱兵は混乱の渦中にある。勢いが失われた今、突撃そのものに意味はない。


「止まれ!」


 ガルガドが歯噛みしながら号令を下す。

 一定の距離を置きながら、反乱兵は騎士団と睨み合った。


(何が……何が……!?)


 ルークは真っ青になった。勝てるはずの戦なのに。あともう少しなのに。あともう少しで、エルミーゼに殴って愛してもらえるのに!

 騎士団の先頭に立つ男が馬を前に進める。白い口髭と白髪が目立つ50の男――ルークも知っている。第一騎士団の団長だ。


「おやめなさい、ガルガド殿下。あなたの謀反は失敗しました」


「……ど、どういうことだ!? なぜ、お前たちがここに!?」


「殿下の企みは露見していたということです――もう少しでしたがね。危ないところでした」


「そ、そんなバカな……!」


 ガルガドが吐き捨てる。それはルークにとっても驚きだった。準備は細心の注意を払ってルークが実行した。ルークは変態だが、優秀な男だ。この100の兵は、絶対に気づかれないという自信があった。いかに第一王子といえど、見抜けないはず。


(想定以上の天才がいるのか、この王国に!?)


 ただただ戦慄する。信じられないが、だが、信じるしかない。目の前に絶望が広がっているのだから。

 騎士団長が口を開く。


「遊軍もすでに展開済みです。兵はここ以外にもある。逃げたところで袋の鼠。おとなしく降参しなさい。降参すれば、命だけは救う――第一王子からの伝言です」


「ふ、ふははは、はははは……そんな言葉を信じろというのか?」


 ガルガドの瞳に浮かんだのは諦観ではなかった。

 そこにあるのは炎。

 絶望を燃やし尽くして、なお前に進もうとする野心の輝き――あるいは、野心とともに燃え尽きることを選んだものの狂気。


「逃げる場所がないのならば! ただ前に進むのみ! 屍山血河を超えて、兄の首を討ち果たすのみよ!」


 すっと息を吸い込み、おののく自軍の兵たちに大音声を叩きつけた。


「投降して助かると思うな! お前たちもまた同様に等しく死罪! 運命を切り開きたければ、俺とともに前に進め! 剣を振り抜け! 勝てば栄光だ! 突撃!」


 恐怖に支配された反乱兵たちが狂奔に満ちた突撃を開始した。

 ルークも馬の腹を蹴る。


(くそ! くそ! くそ! 生きてエルミーゼに! エルミーゼに会って、今度こそ愛を伝えるんだ!)


 轟音とともに攻撃を開始するガルガドたちの姿を見て、騎士団長がため息を吐いた。


「愚かな……」


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 その戦いを、近くの高所から眺めている人物がいた。

 10代前半くらいの幼い人物――第三王子クロノ・ガルダニアである。


「いよいよ、始まっちゃったね」


 横に立つ護衛兼メイドのセリーナに話しかけた。


「始まらない――降参すると思っていましたか?」


「いいや。ガルガド兄の性格的には、戦って死ぬと思っていたよ」


「ガルガド殿下が戦列を突破して第一王子に肉薄――逆転する可能性はありますか?」


「ははは! あるわけない。0%だ」


 一拍の間を置いてから、クロノが続けた。


「誰が、この陣形の計画を立てたと思っているんだい?」


 そう、全てはクロノのお膳立てだった。

 クロノの天才的な頭脳は、ラキアーノ公爵の死がガルガドの謀反の引き金となることを予見していた。あの粗野な、野心を忘れられない兄ならそうすると、確信を持っていた。


 全てを読み切ったクロノは兄に告げた。

 今日この日この時間、第二王子ガルガドは謀反を起こす――


 信じる信じないは第一王子に任せるつもりだった。ことは告げた。あとはそちらでやってくれ、そう思っていたが――


「防衛を固めるのはお前に任せよう」


 当てが外れた。どうやら末の弟を楽にさせるつもりは長男にはないらしい。


「やる限りは徹底的がモットーでね。水も漏らさないよ。ガルガド兄に勝ち目はない。全てはここで終わりだよ」


「これから、もっと第一王子様に頼られそうですね」


「いや、今回で終わりさ。もう終わり。もともと表には出てこず、王族の身分を最大限に利用して、好きなことをダラダラと楽しみながら生きるつもりなんだ。今日だけで、もう最大限の労力を発揮したつもりだよ」


 うっかり表に興味を示してしまったせいで、とんでもない仕事をさせられてしまった。


 全ては聖女エルミーゼのせいだ。


 低脳な貴族どもの退屈な権力争いごっこや政治ごっこにはうんざりしていた。距離を置こうと決めていたのに――

 謎めいたエルミーゼの立ち振る舞いに興味を持ってしまった。


 だから、表舞台に目を向けてしまったのだ。

 そのせいで、兄の不埒で稚拙な謀反の計画が見えてしまった。


 もしも、エルミーゼに興味を持たなかったら――クロノが閉じられた己だけの世界にいたら、見破ることはできなかったかもしれない。


 全てはエルミーゼが発端なのだ。

 クロノは小声で囁く。


「恐ろしいなあ、エルミーゼ。君が僕を動かしたせいで、王国の未来が変わってしまうなんてねえ……」


「……? 何か言いましたか、クロノ様?」


「いや、なんでもない。世の中は楽しいねえ、それだけさ」


 全ては聖女の手のうちか。あるいは悪女の手のうちか――

 底の見えない澱みを眺めているような気分だ。

 深さを知りたいけれど、知ろうと手を伸ばせば戻ってこれない恐ろしさがある。


(どうにも君への興味が尽きなくて仕方がないよ、エルミーゼ。ひょっとすると、僕はまだ表舞台を離れられないかもしれない……)


 兄ガルガドの最後の戦場を眺めながら、クロノはそんなことを思った。


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