第31話 小聖女アリアナの見たところ

 聖女アリアナにとっても、それは初めてみる美しい景色だった。

 彼女の記憶にあるのは、壮大なクローディア大聖堂の内と周辺だけ。それだけがアリアナにとっての世界だった。

 網膜に入ってくる光景の美しさは、アリアナの心を感動で揺さぶった。


「わあああああ……!」


 無意識のうちに喜びの声がこぼれた。手を握る。こんなにも寒いのに、なぜか自分の手を温かく感じた。

 エルミーゼがアリアナに目を向ける。


「喜んでくれましたか、アリアナ?」


「はい! はい! エルミーゼ様! とてもありがとうございます! こんな――こんなにもすごいものを見せてくれて! 一生の宝物にします! 絶対に! 絶対に! 今日のことは忘れません!」


「そう、それはよかった――では、新年のお祈りを捧げましょうか!」


「あ……!」


 うっかり忘れていたのとを、アリアナは恥じてしまう。

 エルミーゼが神への言葉を口にする。


「いと高き場所に座し御方よ。新たなる暦が始まりました。古き営みに感謝いたします。新たなる営みに豊かなる恵みを希望します。あなたの慈悲と慈愛が続きますように。それこそが、あなたの膝下しっかかしずく我々のささやかなる願いです」


 そして、祈りを捧げた。

 アリアナもまた、同じように祈る。

 だけど、心の中は千々に乱れていた。今までアリアナが祈りを捧げるとき、心の中はまるで地下洞窟にある湖の水面のように穏やかだった。まるで、無だ。


 なのにどうだろう、今日は心の湖面が激しく波打っている。

 神以上の存在など、この体の内側には存在しなかったのに――

 今は違う。今は燦然と輝く新たな一番星がきらめている。


 祈りの最中に目を開けてはいけない。そんなことは最初に教わる決まりだ。今までずっと守ってきた決まりを、その日、アリアナは初めて破った。

 そっと目を開けて、アリアナは隣のエルミーゼを盗み見る。

 冬空の下、陽の光を浴びて神に祈るエルミーゼの姿は神秘的な美しさで、アリアナは思わず息を呑む。

 その尊さは、神と比べても――

 そんな危険な考えをアリアナは押し殺そうとした。だけど、無理だった。エルミーゼへの敬愛は次から次へと心から溢れてきてしまう。


(なんて私は狭い世界を生きていたんだろう……)


 そして、それを教えてくれたのはエルミーゼだ。

 きっと偉大なる先達として、エルミーゼにはわかっていた。アリアナが教会という狭い世界で、押し付けられた聖女の役割に苦しんでいることに。

 エルミーゼが、まるで道化を演じるかのような行為をしていたのはわざとだろう。


(きっと私に、それ以外の生き方もあるんだよ、と示すために) 


 世界の広さを知り、世界の美しさを知り、人の営みを知る――

 それこそが必要なことだエルミーゼは、行動を通してアリアナに語り続けたのだ。


(おかげで、聖女として大きくなれた気がする)


 決して、教会だけでは知り得なかったことを、エルミーゼが教えてくれたから。

 それまで、ずっとずっと悲しく、怒っていた。

 どうして私が聖女なんてものをしなくてはいけないのか。同じ年頃の子供が食べているお菓子を食べられないのか。ちょっとしたことで叱られ続けなければならないのか。反抗的な態度を取ると、彼らは口々にこう言った。


 ――そんなことでは、聖女エルミーゼのようにはなれませんよ!


 だから、エルミーゼのことを恨んでいた。

 あなたのせいでこんなにも私は大変な思いをしている……!

 エルミーゼが大聖堂にやってくると聞いても、心に湧き立つものは何もなかった。

 どうせ、理想の聖女様が上から正論を叩きつけてくるだけだろうと。結局、アリアナは肩身の狭い思いをするだけだ。

 だけど、やってきたエルミーゼは思っていた人間とずいぶん違った。

 きっと教会の人間が知れば卒倒するような破天荒だったけれど、エルミーゼはどこ吹く風とばかりにそれらをやってのけた。

 まるで、教会から教わったことが全てではないと笑い飛ばすかのように。

 まるで、これもまた聖女としての正しい在り方だと強弁するかのように。

 アリアナはエルミーゼの行いを正しいものだと思っている。


(……だって……少なくとも、エルミーゼ様は私の心は救ってくれたのだから!)


 今ならば、聖女としての己の役割と向き合えそうだ。この美しい世界を、優しい人たちを守るためならば、己の身命を賭ける価値は確かにある。

 もしも、エルミーゼとの魂を通い合わせるような日々を過ごさなければ、自分がどう育っていただろう。ひょっとするとエルミーゼを恨み、教会を恨み、世界を恨むような化け物に育っていたかもしれない。


(そうならないでよかった……)


 だから、アリアナはエルミーゼを思い祈る。

 私の人生を開いてくれてありがとう。聖女としての気持ちを目覚めさせてくれてありがとう。あなたはいつまでも、私の恩人であり、理想の聖女です……。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 一方、祈りながら、エルミーゼはこんなことを思っていた。


(やっべー! 頂上で祈るをの忘れそうだった!)


 アリアナにはそのために山籠りを脱走してきた、と言っていたので、忘れて下山すると大変なことになっていた。

 祈りが終わった。


「さて、そろそろ戻らないとですね」


 宿にではなく、大聖堂へ、という意味だ。

 山籠り終了の予定日はまもなくだ。遊んでいる時間はなく、下山して、宿を引き払い、何食わぬ顔で霊山まで戻って、大聖堂へと帰還する――

 これにて全行程が終了する。


「撤収しましょうか、アリアナ」


「はい――」


 背中を向けて歩き出したところで、どしん、と背後から衝撃があった。アリアナが後ろから勢いよく抱きついてきたのだ。


「……もう、お別れなんですよね?」


「そうなりますね。私は王都の教会に戻りますから」


「だったら、もう少しだけこうしていていいですか?」


「……少しだけですよ?」


 なんて言いつつ、エルミーゼは邪悪な顔でガッツポーズをした。背後から抱きついていたので、アリアナには見えなかったが。


(よっしゃああああああ! 媚び売り作戦、成功おおおおおお!)


 エルミーゼも鈍感系主人公ではないので、さすがに好意には気づく。どうやら、アリアナはエルミーゼへの、一定の敬意を持ったようだ。


(やっぱり、温泉宿での接待は効くのおおおおおおお!)


 エルミーゼにとっては『やってみたかったけどできなくて我慢したリスト』の消化も含めて、実りの多い日々だった。

 それから、アリアナとともにエルミーゼは下山し、そのまま宿を引き払った。

 再び山嶺を逆向きに踏破して、しれっと霊山へと戻る。

 そして、霊山の山籠りは実に大変でしたよ、という風体でクローディア大聖堂まで戻った。

 期日通りの帰還だったため、大聖堂のお偉方が総出で出迎えてくれた。

 エルミーゼとアリアナを育ててくれたリッケン枢機卿が口を開く。


「おお、よくぞ戻られました、エルミーゼ様! 山籠りは大変でしたか?」


「出迎えありがとうございます、リッケン枢機卿。いえ、苦労など何もありません。神と民を思う気持ちがあれば、山籠りの日々も愛しいだけです」


「おお……さすがは理想の聖女。さすがでございます」


 そして、その視線をアリアナへと向ける。


「ところで、アリアナは邪魔ではありませんでしたか?」


「そのようなことは。大変、助けられました。素晴らしい聖女になることでしょう」


「その言葉――確かかも知れませんな」


 じっとリッケンがアリアナの目を見つめる。


「瞳の輝きに、何か芯のようなものが入った気がします。聖女としての自覚か――何か信じるべきものを見つけた、そんな感じの。期待しますよ、アリアナ」


「はい! 頑張ります!」


 アリアナの声を聞いてリッケンは少し驚いたような様子だった。今までの、覇気の欠けた様子とは少し違ったからだ。


「実に楽しみです。では、エルミーゼ様、こちらでお身体を休めください」


「あ、あの、ま、待ってください、エルミーゼ様!」


 ぞろぞろと全員で移動を始めたとき、残された側のアリアナが鋭い声を発した。

 全員が足を止めてアリアナを見る。

 その顔は緊張で真っ青になっていた。きっと、旅の間に言おうか言うまいかずっと悩んでいて、最後のこの瞬間だからこそ、切り出す勇気を持てたのだろう。


「なんですか、アリアナ?」


「よ、よければなんですが、その――!」


 言い淀んでから、勇気を振り絞って最後の一線を越える。


「お姉様、とお呼びしてもいいですか!?」


 それは、聖女が先輩にあたる聖女に敬意と親愛を表するための言葉だ。


(お姉様、か……)


 あまり、その言葉にいい印象をエルミーゼは持っていなかった。前世のアリアナもまた、いつの日からか急に『お姉様』呼びしてきたからだ。だけど、そこにあったのは親愛などでは決してなく、対抗心と侮蔑だけだった。

 なので、あまりアリアナにお姉様呼びされたいとは思わなかったが――


(今世だと様子が違うし、ここで変に断ってヘソを曲げられてもね……)


 この大衆環境だ。恥をかいたアリアナが急に闇落ちモードになるかもしれない。

 今でもまだ、エルミーゼは媚び媚びモードだった。


「いいですよ」


「あ、ありがとうございます……、お、お姉様……!」


 大きく前世のイベントを書き換えて、エルミーゼの山籠り(温泉堪能旅)は終了したのだった。


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