第30話 初日の出

 そんなことをしつつ、ダラダラと過ごしていると陽が落ちた。


「さて、それではクリストファ山に登りましょうか」


 宿の主人から用意してもらった晩御飯用の弁当と、朝食用のパンを出発前に受け取る。

 食事を渡しながら、半ば呆れ気味に宿の親父が言う。


「このクソ寒い中、頑張るな」


「え、名所なんですよね? 素晴らしい絶景だと伺いましたけど?」


「ああ、景色がいいのは確かだ。……だけど、年末年始ののんびりしたい時期に山を登るのはよほどの好きものくらいだし、ここでも夜通し店を開けて新年を祝うからな。こっちを楽しみにしている客のほうがいいかな」


 こっちでも夜通し遊べるなんて!

 なんかそっちのほうがお手軽で面白くない? 今世になってザコ化したエルミーゼの忍耐力はグラグラと揺れた。実に魅力的。

 だけど、エルミーゼは己の初心を貫徹することにした。


(あの旅好きの貴族がそう言ったんだから、絶対に見るんだ!)


 そんな強い意志のもと、冷気の漂う山を登っていく。

 とはいえ、それほど厳しい道のりでもなかった。貴族が行けるくらいなので、道は整備されていて、頂上には道の通りに歩いていけば問題なくたどり着ける。

 黙々と歩いているうちに、高原の宿場街から『ガラーン』という鐘の音が聞こえた。


 ――どの街でも同じ音が鳴っているだろう、新年の始まりを告げる音だ。


 振り返ると、泊まっていた宿のあたりに昼間のような輝きが満ちていた。きっと宿の親父さんが言っていたように、新年を祝う催しが行われているのだろう。

 同じように、その明かりを見ているアリアナにエルミーゼは話しかける。


「アリアナ、あそこで遊びたかったですか?」


「え、いえ! エルミーゼ様と一緒なら、私は幸せです! どこでもご一緒いたします!」


 それは決して世辞ではなかった。アリアナの目にはエルミーゼへの信頼だけが輝いている。


「そう、なら良かった」


 エルミーゼは艶然とした笑みを浮かべてから、こう付け加えた。


「ああ、そうだ。アリアナ、あけましておめでとう」


「おめでとうございます!」


 なんだか不思議な気分だった。前世では、もう顔も見たくないと思っていたアリアナとこんな心の通った挨拶が交わせるだなんて。


「寒くない?」


「大丈夫です!」


 そう言ってから、アリアナは微妙な足をモゾモゾと動かした。


「……ひょっとして、おトイレ?」


「違います!」


 大剣で真っ二つにするかのような勢いでアリアナが言い返す。


「あの、さ、寒くはないのですけど……暖かくしたいから――」


 そう言って、オズオズと己の右手を差し出した。


「エルミーゼさんと手を繋いでもいいですか?」


 断崖絶壁を見下ろすかのようなアリアナの強張った表情がおかしくて、エルミーゼは心が和んだ。だけど、笑うまい。アリアナはありったけの勇気を出して、その言葉を口にしたのだから。顔は真っ赤で直視できない視線が下を向いている。

 エルミーゼはアリアナの手をとった。

 小さな手の温かさがエルミーゼの冷えた手のひらに伝わってくる。


「いいですよ」


「ありがとうございます!」


 この出来事を末代まで語って聞かせよう! そんな明るい声色だった。


(まあ、聖女と手を握るのはそれくらいのイベントなんだろうけど、あなたも聖女なんだよ、アリアナ?)


 そんなことを忘れているかのようなアリアナの浮かれっぷりだ。

 無理もない。聖女候補として厳しい子供時代を過ごしたとはいえ、本質は6歳の女の子なのだ。誰かと手を繋ぐことが、たまらなく嬉しい年頃なのだ。

 エルミーゼはアリアナとともに山を登り、やがて山頂にたどり着いた。ずっと遠くまで夜景が見えるが、月明かりだけなので、そこまでははっきりと見えない。これ以上は夜明けを待つしかないだろう。


「さて、私はテントを用意します。アリアナは休んでいてください」


 背中に背負っていたバックパックからテントを下ろして、エルミーゼは設営を開始する。聖女のイベントに単独の山籠りがあることからもわかるように、基本的なサバイバル知識は実習済みなのだ。

 設営が完了した。


「できましたよ。アリアナ、ゆっくりと休んでください」


「ありがとうございます……」


 子供らしく、うつらうつらしていたアリアナは我慢できずテントに入るとあっという間に寝息を立てた。

 エルミーゼは、すやすやと眠っているアリアナの顔を眺める。


(もしも、未来の禍根を断つのなら、ここで――)


 暗殺してしまうべきだろう。

 だけど、もちろん、そんな気持ちはない。前世のように憎悪の気配マシマシであれば、ちらっと頭によぎるかもしれないけれど、今世ではアリアナはまさに忠犬の如き振る舞いである。なんだか、命を狙ってくるというよりは、命を差し出してでもエルミーゼを守ろうとしそうだ。


(どうして、こんなことになったんだろう?)


 自称・悪女の無自覚聖女としてはそこがわからない。

 前世でも幼い頃のアリアナとは接点があったが、こんなに懐くことはなかった。決して気を許さない様子でエルミーゼと常に距離を置いていた。


(前世のほうが完璧な聖女として接していたから、満足度は高いはずなんだけど?)


 完璧じゃないからこそ、むしろいいのだけれど、エルミーゼにはそれがわからなかった。

 しばらくの休憩が終わった後、エルミーゼはテントから這い出した。

 夜はまだ深く、夜明けの兆しは見えない。

 だけど、構わなかった。冷ややかな夜気に包まれながら、エルミーゼは静かに夜の終わりを待つ。

 明けぬ夜はない――

 その言葉の通り、ゆっくりと空が漆黒から青みを帯び始める。


(ああ、いよいよ)


 太陽が昇る。朝が始まる。

 テント内に上半身を突っ込んで、エルミーゼはアリアナを揺する。


「アリアナ、起きなさい。そろそろ初日の出ですよ」


 まだ寝ぼけた様子のアリアナと一緒にテントを出る。

 星が瞬く以外、時間が制止したかのような漆黒の夜は終わっていた。まるで子供の表情のように分秒で変わっていく世界がそこにはあった。


 空の色が変わっていく。夜から、朝へと。

 そして、太陽が遠くの稜線の向こう側から陽の光を投げかけ始める。


 世界があらわわになった。


 頂上から向こう側は谷間になっていて、低地に豊かな森林と何本もの大きな川が見える。暗闇にずっと沈んでいたそれらは、太陽の光を受けてまるで宝石のようにキラキラと輝き始める。自然を彩る緑にも多くの種類がある。深い緑、淡い緑、黄色い緑――それらが陽の光を浴びて鮮やかさを増していく。


(世界が目覚めようとしているんだ)


 そんなことをエルミーゼは思う。

 貴族が『初日の出の時期がいいんだよ!』と力説していた理由がよくわかった。

 ダイヤモンドダストだ。

 寒冷な空気によって生み出された小さな氷の結晶が、キラキラと視界の下の森を漂っている。まるでそこにいるフェアリーの輝きのように。


 ずっと向こう側にはクリストファ山と同じくらいの高さの山があり、その山頂から太陽が登っていく。炎のような明るさが、世界を白く染め上げて、一瞬だけ生まれた氷の輝きも飲み込もうとしている。


(寒い思いをした甲斐があったかな……)


 見た景色を、エルミーゼは心の中の宝箱にそっとしまい込んだ。思えば、前世だと景色の美しさに感動をした覚えがない。というか、そんなものを見ている時間などなかった。


(良かったなあ……)


 そんなことをエルミーゼはしみじみと思い、心の中で小さな幸福を噛み締めた。

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