第28話 エルミーゼは初日の出を拝みたい
その日の晩、約束通り、エルミーゼたちに猪鍋が振る舞われた。
食堂でエルミーゼは、ぐつぐつと美味しそうに野菜と猪肉を煮込んでいる鉄鍋を眺めていた。
「……なんですか、このスープは?」
スープといえば透き通ったもののイメージしかないエルミーゼだが、鉄鍋で猪を煮込んでいる液体は茶色く濁っている。
やってきた宿の店主の答えはこうだった。
「それは、味噌だよ」
「味噌?」
「俺も商人から仕入れるものだから、よくわからないんだけど、東方の国で大豆をベースにして作っているものらしい」
「へえ!」
「味が結構しっかりしていてね、猪の肉に合うんだよ、これが」
宿の店主が、エルミーゼとアリアナの取り皿に味噌のスープを移す。
エルミーゼはスープを口にしてみた。
「おいし……!?」
今まで味わったことのない、芳醇な味わい。野菜を煮ただけのスープとはまた違う、グッと存在を主張してくる味の強さ。だけど、それは侵略されるような不快さではなくて。ずっとずっと味わっていたい、このままで浸っていたい――そんなことを思わせるような味わいだ。
アリアナも目を輝かせている。
「美味しいですよ、エルミーゼ様!?」
「はい、同感です。味噌……こんなものがあるのですね」
エルミーゼは猪鍋に視線を落とした。
スープの味噌だけで、こんなに美味しいとは。そんなものでたっぷりと煮込んだ猪肉と野菜はどんな感じになってしまうのだろう?
「うわあ……すごく美味しそう……」
「うまいんだよな。特にな、これが合うんだよ」
そう言って、宿の店主が持ってきていた黒いボトルをテーブルに置いた。
「焼酎って言うんだ」
「ショーチュー?」
「これも東方の国のものでな……アルコールだよ。鍋に合うんだよなあ、これが」
そう語る男の顔は実に恍惚としたものであった。おそらくは、そのグルメな舌先に犯罪的甘美をを思い出しているに違いない。
なんたる愉悦か!
その表情を見ただけで、エルミーゼの腹の中にすくうグルメ総大将が荒ぶる。それはエルミーゼの中枢神経をクリティカルヒット、刹那、よだれを口内に発生させた。
ほろ酔い気分で、この香しい鍋をつつく。それはどれほどの幸福であろうか。
主人が焼酎のボトルを掲げた。
「どうする? 飲んでみるか?」
「の、飲みま――!」
エルミーゼの声は、続く怒声にかき消された。
「あんた! 未成年の子に何を薦めているんだい!?」
主人の奥さんが登場した。彼女は瞳に憤怒の炎をたぎらせて、己の夫を撃滅せんと距離を詰めてくる。
ご機嫌だった主人の顔が総毛立つ。
そこに描かれた文字は『あ、まずい』――
(まずいことないから!? まずいことないので、それを! それを!)
そんなことをエルミーゼは思うが、残念ながら正義は彼女になかった。
そう、未成年者は酒を飲めないのだ。
「い、いや、これはその、うっかりしてだな……」
「うっかりじゃないの! 本当に! 困らせてどうするんだい、ねえ?」
「はい……そ、そうですね……」
奥さんがすごい勢いで同意を求めてきたので、エルミーゼも勢いで返事をする。それは本意ではないのだけれど! しかし、それ以外の返事は許されなかった!
「気をつけな!」
厨房に奥さんが戻っていく。主人が申し訳なさそうにこちらを向いた。
「すまねえすまねえ……未成年とか気にするべきだったなあ……ま、大人になったらの楽しみということで……また来てくれよ!」
そんなことを言って、主人はボトルを持って奥さんの後をおった。
(飲みたかったなあ……未成年であることが悩ましい! 早く大人になりたい!)
エルミーゼはがっかりしながら、焼酎を『やってみたかったけどできなくて我慢したリスト』に追加したのだった。
ちなみに、猪鍋はむっちゃ美味しかった。
濃厚な味噌の味が染み込んだ猪の肉は間違いなく合格。いや、だけど、野菜も負けてはいない。とろとろになるまで煮込まれた野菜は、もはや味噌そのものではないかというくらいに味が染み込んでいる。それを口に入れたときの多幸感は筆舌に尽くしがたい。あれ? 野菜ってこんなに美味しかったの? そう思ってしまう。
(はあああ……幸せじゃあああ……)
ニコニコ顔のアリアナとともに、エルミーゼは素晴らしい夜を過ごしたのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
翌日、エルミーゼは昨日と同じく、朝の支度を終えるとアリアナとともに食堂で朝食を摂ることにした。
食事を進めながら、エルミーゼはアリアナに今日の予定を切り出した。
「今日はですね、お昼寝をたっぷりとしてください」
「お昼寝? どうしてですか?」
「今日はですね、夜通し山を登ります。で、そのまま早朝まで起きて日の出を見ます」
「……え、どうして?」
「今日は年の暮も暮れ……つまり、明日の日の出は『初日の出』だからです」
「あ!」
そう、今日で今年が終わるのだ。そんなわけで、ありがたい初日の出を見てやろうという算段である。
「この高原近くにあるクリストファ山の頂上から見える日の出は絶景らしいですよ?」
というのを、前世の貴族から聞いたのだ。
――トール高原のクリストファ山から見える日の出の景色は本当に素晴らしかった! 過去で一番と言ってもいいだろう!
暇と金にあかせて全国を旅している人物の、ベタ褒め。
前世のエルミーゼは興味があったが、理想の聖女を体現するため、ずっとクソ寒い霊山で真面目に山籠りをしながら我慢するしかなかった。
なんと悲しい生き様か!
そんなわけで、現世ではやってられるか精神に突き動かされるままに、早々と霊山から続く山嶺を寒中突破した。その最大の理由は、ご来光を見るためである。
そして、どうせなら、初日の出にしよう! と気を伺っていたのだった。
「初日の出……あっ!」
そう言って、アリアナがハッとした。
「そういうことですね!? 聖女としての新年の祈りをクリストファ山の頂上で捧げるということですね!?」
「――」
エルミーゼは無言で、少しだけ衝撃を受けていた。
そうだった! そんなのがあった!
山籠りのイベントには初日の出に合わせて、幸福を祈願するという予定が組み込まれていた。
(すっかり忘れていたけれど!)
山籠りを回避した時点で、すでに詳細はエルミーゼの脳内のゴミ箱に消えていた。
アリアナがうっとりしたような表情でエルミーゼを見る。
「わざわざ、どうしてこんなところに移動してきたのか……まさか温泉旅行を堪能しているだけでは……? そんなことを思ってもいました」
(はい! 本当にサボっていただけです!)
「クリストファ山もまた、聖人クリストファが亡くなった由来のある山。そこで祈りを捧げようとはるばる移動なされたのですね……本質を見誤りかけていた私をお許しください……」
そのとき、エルミーゼの脳内に悪魔的な閃きが起こった。
にっこりと聖女スマイル(意味深)を顔にたたえる。
「問題はありません、アリアナ。自慢に聞こえるのを恐れて、説明を怠った私にも咎はあります。ただ、あまり声高に言うべきではないのも事実でしょう……なので、アリアナ、いいですか、このことは他言無用でお願いします。決して、他言なきよう。私は私の手柄をひけらかす趣味はありません」
「もちろんです、エルミーゼ様! 決して漏らしたりはしません」
内心で、悪女エルミーゼはガッツポーズした。
(これで私がバカンスを楽しんだ事実は隠蔽できた!)
アリアナの口をどう封じるか――密かな悩みが解決してエルミーゼの心はずいぶんと軽くなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます