第27話 聖女は猪鍋を食べたい
「あの、エルミーゼ様。朝ごはんが終わったら何をするのでしょうか?」
「……あんまり考えていなかったですねぇ……」
自分は何をしようとしていたのだろう? どんなことを楽しみにしていた? それを言語化しようと、うーんと悩み、そして答えにたどり着いた。
「ぼうっとするんですよ」
「ぼうっとする!?」
アリアナが目を丸くした。その気持ちはエルミーゼにもわかる。多忙な聖女の生き様において『ぼうっとする』という言葉はないのだから。
(……確かに前世では、そんなことを考えたこともなかったなあ……)
それを端的に言葉にすると――
「『何もしない』をするって感じですね?」
「お、おおおお……い、いいのですか?」
「今度は頑張らないって決めましたから。アリアナも頑張らなくていいですよ」
「は、はい……」
少し困ったような、でも、不意の休暇が嬉しそうな、そんな微妙な表情をアリアナが浮かべる。
(うしししし……アリアナ、あなたも堕落するのです……そうすれば――)
10年後、聖女としての使命に突き動かされてエルミーゼを潰そうとはしなくなるかもしれない。
こっそりと籠絡するのも、悪女ムーブである。
「のんびりと散歩しましょう。ここは名所でもあるのですよ?」
店員に、昼食用のサンドイッチを用意してもらって、エルミーゼたちは宿の外に出た。
空はからりと晴れていた。青い空も日差しの輝きも何もかもが鮮やかだ。
だけど、気温は。
時期は真冬、場所は山の高所。実に寒い。エルミーゼもアリアナも、目立たないようにローブをかぶっているので、多少はマシだけど。
「……寒いですね、エルミーゼ様」
「そうですね。でも、寒いほうが空気が美味しい感じがしませんか?」
「あ、それはあります!」
「でしょう?」
実際に、山の上なので、空気は澄んでいるのだろうけども。
「冬は寒いと嘆くよりも、冬にしか味わえないものを楽しみましょう」
エルミーゼはトール高原を進んでいく。
トール高原は、さっきエルミーゼが言った通り、純粋に観光地として有名である。さして大きくない高原の中央に清流があり、それを囲むように美しい湿原や池が点在している。
「お散歩コースには良さそうでしょう?」
その美しい景観を眺めながら、ぼんやりと歩く。それがエルミーゼのしたかったことだ。
前世では駆け足で生きた人生の時間を、ようやく遅くできる。
「すごく綺麗な川ですね」
アリアナがトール高原のシンボルであるザーズ川に目をやる。彼女の言葉の通り、その水は尋常ではないくらい透き通っていた。
「うんうん……ちょっと飲んでみようかな――ひゃあ!?」
エルミーゼが手を差し込んだ瞬間、尋常ではないくらいの冷たさが肌を襲った。
(そ、そうだった……冬だった……)
水が冷たいに決まっている。観光ハッピー状態で浮かれまくっていた。どうにもアホになっている。
尻餅をついたエルミーゼを見て、アリアナが慌てて起こそうとする。
「大丈夫ですか、エルミーゼ様!?」
「問題ありません……実は聖女としての修行をしていただけなんです。ほら、アリアナも冷水に体を浸していましたよね? あれと同じです」
「え、修行じゃなくて、水を飲もうとしてびっくりしたんですよね?」
「違います。修行です」
「ひゃあ、って言っていませんでしたか?」
「神よ、ご照覧あれ! と言いました」
「ひゃあ、って言っていたエルミーゼ様は可愛かったですよ?」
「が」
残念ながら、エルミーゼの底の浅い抗弁は『可愛い』という単語によって打ち砕かれた。
くだらなくて意味のない会話もなんだか、じんわりと楽しい。
もともと一人で来るつもりで、アリアナの扱いにも困っていたけれど――
(意外と、二人なのも楽しいですね)
アリアナがいるから広がる話もある。
思っていた一人ののんびりとは違うけれど、二人ののんびりも悪くはない。
そんな感じで、二人で小さなことに感動したり雑談したりしながら高原を散歩していく。サンドイッチを食べて、さて散策再開だと思っていたら、前方から3人くらいの男たちが歩いてきた。1人は知っている人だった。
「おおおー、お客さん! 高原の景色を楽しんでいるかい?」
泊まっている宿の、髭面の店主だ。
「はい、とっても素晴らしいですね」
そう応じつつ、エルミーゼは気になることを尋ねた。
「その装備は――?」
男たちの服装は実に物々しい。軽装とはいえ革鎧を身につけていて、大ぶりの短剣やメイス、クロスボウを持っている人もいる。
「猪狩りをしようと思ってね」
「猪狩り!?」
魅惑的な言葉にエルミーゼの脳は支配された!
「遠方に出ているらしくて……こういうのを早い目に駆除しておかないと、こっちに降りてくるからな。うまく行ったら、今日の晩飯は猪鍋だ」
「猪鍋!?」
食欲が刺激されエルミーゼの脳は支配された!
「楽しみにしていてくれ」
「あの、連れていってもらえませんか!?」
エルミーゼは欲望を口にした。
「え?」
「面白そうなんで、ついていきたいです!」
さすがに宿泊客――それも女性、おまけに子供付きを連れていくのは……と男たちは渋ったが、絶対に迷惑はかけないと言いつつ、エルミーゼが河原の石をチョップで叩き割って了解を得た。
聖女による加護と日頃の鍛錬により、エルミーゼはかなり強いのだ。
「こんな美人な姉ちゃんが、こんなに強いなんてなあ……世の中わからんもんだ」
高原の外れと言ってもいい場所まで歩いていく。
「――いたぞ」
林の向こう側に、大きな猪がいる。木の根元の草か根を食べているようで、こちらには気づいていない。
「なかなかの大物だな。こりゃ猪鍋がたくさんできるぞ。姉ちゃんらは、ここで待っていろ。やばいと思ったら即逃げるんだぞ」
3人の男たちが武器を手にして近づいていく。
手慣れた様子で近づき、男たちが一斉に攻撃を仕掛けて――
戦いが始まった。
「ピギィィィィィィ!」
猪が暴れまくって、巨体を回転させる。
男たちは慣れたものなのか、一発を喰らわせた後、すぐに距離をとっていてダメージを受けていない。
そして、3人は三角形の頂点を描くように陣取って猪を囲んでいる。不意に逃走も許さない構えだ。
興奮する猪が3人をねめつけている。そんなことお構いなく、3人は腰につけたクロスボウを射撃した。
3本の矢を喰らい、猪がのたうつ。再び男たちは武器を手に取って近づいた。
(うーん……計算された動き。いい感じね)
口ぶりからして猪駆除には慣れているのだろう。エルミーゼは特に心配せずに眺めていたが、イレギュラーは起こってしまった。
「ピギィィィィィィ!」
半端ではなく激怒した猪が、半端ではなく暴れ回ったのだ。すごい勢いで動き出し、さしもの男たちも距離を置いている。
直後、猪が突進した。
「させるかぁ!」
男の一人がメイスを持ってゆく手を遮ろうとするが、猪の突進力はそれ以上だった。男は足元から掬い上げられて、悲鳴を上げながら後方へとすっ飛んでいった。
「姉ちゃん、動くな!」
宿の主人の声が飛ぶ。猪の突進は微妙にエルミーゼたちから逸れていた。おそらくはエルミーゼたちにも気づいていないだろう。
このまま息を潜めてやり過ごせば、それはそれで終わる話だ。
しかし、エルミーゼはそうしなかった。
(猪鍋!)
頭の中が猪鍋で一杯だったから。特に戒律で禁止されてはいないので、牛も豚も食べたことはあるが、猪はなかった。今世は好奇心旺盛なエルミーゼとしてはぜひ堪能したい一品だ。
なので、エルミーゼには逃げる猪が食材にしか見えなかった。
「待てえええええ、肉ぅぅぅぅぅ!」
逃げる猪の横っ腹めがげて、ダッシュからの飛び蹴りを放った。
「ピギィィィィィィ!?」
哀れな猪は、悲しみに満ちた鳴き声をあげて吹っ飛んだ。木の幹に体を打ちつけて、どさりと地面に落ちる。ピクピクと足を引き攣らせ、口から泡を吹いている。
「た、助かったよ、姉ちゃん。でも、すげーな……」
ドン引き気味の男たちが近づいてくる。
その声を聞いて、エルミーゼはハッと焦った。
(しまった……!? つい食欲につき動かされて!?)
聖女として、いかがなものかという行動にエルミーゼは内心に真っ青になるも、男たちはこんなことを言い出した。
「いや、すげえよ。猪を逃したら、あぶないもんな。身を挺して猪の突進に立ち向かうかんて、普通じゃできねーよ」
「本当です! 感動しました!」
目をうるうるとさせて、アリアナがエルミーゼの手をつかんでくる。
なんだか、善意で猪に立ち向かった勇猛な女傑扱いされている?
なぜかポイントが稼げてしまった。こういうときは、いつもの聖女スマイルを浮かべておくに限る。
「ええ、皆様の安全と安心が守られて、私も嬉しく思います」
エルミーゼを讃える声が沸き起こった。
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