第26話 聖女たちの優雅な山籠り

 ずっと山を歩く強行軍だったので、エルミーゼの足はボロボロ、服もドロドロであった。

 疲れ果てていたので、もう今日は寝るのが一番!

 なのだけれど、ここは温泉宿であった。


「こ、この部屋は――?」


 まだ要領がつかめていないアリアナの手をエルミーゼは引っ張った。


「温泉に行きましょう!」


「お、温泉……? なんですか、それは!」


 エルミーゼは内心でドヤった。知らないんですか、そうですか、知らないんですね。温泉の喜びを、素晴らしさを。それは教えないといけませんね。仕方がないので教えましょうかね!


「いいですか、温泉というのはですね、地下から湧き出した温水で作った広いお風呂です。地中から溶け出した豊富なミネラルが体の疲れをとってくれて、それはもう極楽のような気分になれます」


 偉そうに語っているが、受け売りである。

 前世の貴族がそんなことを言っていたのだ。聖女でも温泉くらいは入っても大丈夫なのだけれど、残念ながら、前世では温泉地に行くことがなかった。

 霊山の、あんなに、近くに、あるのに!

 それはもう、悔しい思いだった。当時は山籠りをサボるなどという発想はなかったので、行きたいなー、と思うだけだった。


「そ、そんなにすごいんですか!?」


 感動するアリアナに、エルミーゼは強く頷いた。


「はい、すごいんです」


 この女、行ったことがないのに、知ったかの極みである。

 この世界において、お湯を溜めた風呂場というものは珍しい。平民ならば水桶で体を洗い、貴族でも魔道具のシャワーを使うかくらいだ。

 大きくて、温かいお風呂。

 それはもう、未知の存在と言っても過言ではない。

 エルミーゼたちは着替えの服と、部屋に用意されていたバスタオルを持って温泉へと向かっていく。

 脱衣所で服を脱ぎ、温泉に通じるドアを開けた。

 開けた瞬間、もわっとした熱気がエルミーゼの顔を撫でていく。その向こう側には、透き通った水をたっぷりと湛えた風呂場が見えた。


(おお、あれが温泉!)


 一瞬でテンションがぶち上がってしまう。

 どうやら、時間が遅いせいか、他の客の姿は見えない。つまり、独占状態だ。


「行きますよ、アリアナ!」


「は、はい!」


 二人は裸足をペタペタと鳴らしながら、温泉場に入っていく。


(確か、湯船に浸かる前には体を流すんでしたっけ)


 そんなことを前世で貴族が言っていたような?

 思い出しながら、風呂桶で温泉水をすくって体にかける。


「おお!?」


 肌に触れた瞬間、水の滑らかさというか、水の清らかさというか、なんだかよくわからない、さらさらとした感じが心地よい。それが適度な温かさなのだから……。


(え、これ、入っちゃったら、どうなるの!?)


 胸のワクワクが止まらないんですけど!?


「わ、わ、わ! 気持ちいい!?」


 エルミーゼの見よう見まねで掛け湯をしたアリアナが、興奮の声を横で上げている。

 二人は温泉に入った。

 これはもう、なんということでしょう。言語表現の領域を超えた心地よさが全身を包み込む。あえて音を出すのなら、


「「ほわああああああ……」」


 二人して、惚けた顔でそんな声しか出ない。

 山の移動で蓄積した疲労がお湯の中に溶けていくような錯覚――否、これはもう厳然たる事実である。エルミーゼ主観的には。

「気持ちいいですね、アリアナ……」


「ふぁ、ふぁあい……」


 沈黙が続く。ただただ、お湯の心地よさに骨が抜かれていたからだが。

 しばらくしてから、アリアナがおずおずといった様子で口を開く。


「あ、あのぉ……。これ、本当に山籠り……です、か?」


「ここはねえ……山の上なんですよお……」


「な、なるほろおおお……大丈夫ですねえええ……」


「それに、ほら……このお湯って聖女力が回復するんですよおお……」


「ああ……そういう感じ……ありますねえええ……」


「だから、山籠りなんですよおおおお」


「そうなんですねええええ」


 二人とも、IQが3になっていた。

 お互いになんとなく会話は成立しているが、実際のところ、適当に反応だけで会話していたりする。

 聖女をダメにするくらい、温泉は気持ちのいいものだった。


(前世の私、何をしていたの……)


 いや、もう、本当に。前世のエルミーゼに減点5。

 温泉から出た後は、部屋に戻ってベッドに倒れ込む。ベッドに倒れ込んでから入眠までの時間は間違いなくコンマ5秒だった。一瞬で寝落ちる。

 気がついたら、朝だった。

 窓から差し込む日差しが気持ちいい。

 ぐっすり眠った爽快感と、肌に広がる温泉の癒し効果の残り香、あとは体が休みましたぞー! という軽さ。

 なんと気持ちいい!


(おおおおおおおおおおお!)


 なんだか意味もなく笑って足をバタバタとさせたい気持ちだ。隣のベッドでアリアナが眠っているのでやらないけれど。

 ベッドの上であぐらをかき、うううん……と唸りながら体を伸ばしていると、アリアナが目を覚ました。


「アリアナ、おはよう」


「ふぁあい?」


 アリアナが寝ぼけた様子の顔を向けてくる。完全に油断している感じが可愛かった。可愛らしいほっぺたをつんつんしてあげたくなる。

 そんなふうに熱い視線を送っていると、アリアナが気を抜きすぎたことに気づいてバタバタと慌て出した。

 慌ててベッドに正座して頭を下げる。


「も、申し訳ございません、エルミーゼ様!」


「いいのですよ、アリアナ。素晴らしい目覚めだったでしょう?」


「は、はい……その、とっても……」


 照れたようにアリアナが顔を真っ赤にする。聖女として、気持ちいいことに喜びを見出すのは少し照れがあるのだろう。


(うむうむ、ういやつじゃういやつじゃ)


 そんなことを、お婆ちゃんみたいな視点で思ってしまう。お前も聖女なんだから、少しは照れろよ、というツッコミもあるのだけれど。

 2人は身支度を整えると食堂へと向かっていく。

 食堂は固定メニューのようで、座っていると勝手に料理が出てきた。

 トーストされた厚切りの小麦パンがまず鼻腔にテロを仕掛けてくる。その横にバターの容器がある。あれ、容器ごとってことはこれ、つけ放題ですか!? 興奮しちゃっていいですか!? 的な状況である。そして、野菜を煮て作ったスープに目玉焼きである。


(ああ……美味しそう……)


 空きっ腹が大変なことになっていた。山から山へ強行したので、当たり前のことだが、相当な運動量だ。

 むしろ、ビーフステーキを持ってこいと言いたい! くらいなのだ。

 給仕を捕まえた。


「すみません、10人分くらい追加で持ってきてもらっていいですか?」


「ええと……連れのお客様がまだいらっしゃる感じですか?」


「いえ、二人で食べます」


 給仕は顔を引きつらせたが、その言葉の通りしてくれた。


(ああ、お腹いっぱい食べられる……)


 それはある意味で幸せだった。

 聖女はそんなにガツガツ食べることもできなかったから。


「アリアナ、存分に食べるのですよ。あなたは成長期なのですから」


「い、いいんですか……?」


「理想の聖女エルミーゼの名において、許可します!」


「ありがとうございます!」


 本当に嬉しそうな様子で、アリアナは朝食を食べていく。

 子供が幸せそうな顔でお腹いっぱいに食べている様子は、それだけでエルミーゼの気持ちを温かくした。


(連れてきてよかったかな?)


 そんなことを思う。


 ――あなたが悪いのです、お姉様。あまりにも完璧で絶対すぎたから。あなたのような人間がいてはいけないのです。とてもとても……私を不快にさせる。


 不意に、前世の16歳のアリアナの恐ろしい形相がフラッシュバックする。

 だけど、目の前にいる彼女とは別人のようだ。

 あのアリアナと温泉旅行に来てしまうなんて。想像できない現世である。


(うんうん、でも楽しいからいいでしょう)


 現世を思う存分、楽しむことにしたエルミーゼは数奇な展開を見せる状況に満足した。

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