第24話 聖女降誕の儀
(安直だったかあ……!)
残念ながら、エルミーゼの菓子によるアリアナ陥落作戦はうまくいかなかった。
もちろん、媚を売ってやる大作戦の一環である。
(子供なら、お菓子でイケる! と思ったんだけどな)
しかし、そう簡単には陥落しなかった。
(ふむふむ、聖女としての教育ができてるんだなあ、偉い偉い)
前世では、この部屋で淡々と聖女とは――について語ったような気がする。彼女の目指すべき高みが、高みのままであり続けるように祈りながら。そこには一定の厳しさがあったかのように思う。
悪女となって自己保身のかたまりとなったエルミーゼにその選択肢はない。
(全力で媚を売ってやる! 彼女の未来など気にしている余裕はない!)
アリアナの日頃の生活を聞きながら、むっちゃ褒めまくった。
「大丈夫、アリアナは間違っていません!」
「うわわー、もうそんなことができるんですか!?」
「そこまでできているのなら、全然いいと思いますけどね!?」
ひたすら褒めていると、少しばかりアリアナの表情が緩くなった気がした。
エルミーゼにはわからないことだが、実際、このとき、アリアナは人生で初めて胸が暖かくなる感情を抱いていた。
聖女のトレーニングを受けてからというもの、厳しく叱責される日々を送っている。そんな6歳のアリアナが、こんなにも褒めてもらえたのは人生で初めてだった。
ただ、アリアナには喜びよりも驚きのほうが大きく、その感情を表現する術がなかったのだけれど。
結果として反応の薄いアリアナを見てエルミーゼは焦っていた。
(く、くそ……!? これでもダメなの!?)
結局、エルミーゼが手応えを感じることもなく、今日の話し合いは終了した。
「ありがとうございます、エルミーゼ様」
アリアナが別れ際に吐いた言葉は、前世と同じものだったけど、微妙なニュアンスが確かに違っていた。
ほんの少しだけ、世界は変わろうとしている。
(うがああああ! どうやって媚を売ればいいんじゃああああああ!)
焦る聖女エルミーゼには、微妙な変化が見えていなかったけれど。
翌日から、再び聖女エルミーゼはブラックに働くことになった。大聖堂は王都から少し離れているので、しょっちゅう来れるわけではない。どうしても『やって欲しい仕事』が集中してしまう。
前世はにっこり聖女スマイルで気にせず受けていたけれど、今世は表面的には同じだけれど内面では業腹である。
そんなエルミーゼの気持ちを支えたのは、山籠りという名の温泉ざんまいである。
(絶対に温泉でゆっくりしてやる!)
そうやってハードに働いていると、あっという間に小聖女アリアナの聖女降誕の儀を執り行う日がやってきた。
聖女降誕の儀とは――
聖女になるための儀式である。それを行うことで神に認められれば、聖女としての力が使えるようになる。
(ううう……寒い……)
ひんやりとした夜だった。もうすぐ年始を迎えるのだから、当然だけれど。
儀式を行う場所は大聖堂内にある中庭だった。
そこには重厚な祭壇と、大きな泉がある。祭壇部分には雨よけの屋根があるけど、それだけでなので、基本的には屋外である。
なので、心底から寒い。
夏は暑くて冬は寒いと評判の聖女服では実に辛い。だけど、本当に辛いのは儀式の主役であるアリアナである。
(今、あの格好する根性ないわー)
アリアナは薄手の肌襦袢だけを着ていた。薄布一枚である。寒いという次元ではないだろう。だけど、聖女として鍛えられたアリアナは震えることなく、冬の夜気の中に立っていた。
色々と教会のお偉方が祝福の言葉やら事前の儀式を執り行った後、ついに本番が始まる。
アリアナが泉にその身を浸すのだ。
もちろん、あの泉は温泉などという優しい設定ではなく、カッチンカッチンに冷えている冷水である。
エルミーゼも幼い頃、冬の泉に入った記憶がある。
(わざわざ寒い時期を選んでやるなよ……)
そんなことを思いながら、エルミーゼは儀式のもう一人の主役として、アリアナに近づいていった。
「聖女エルミーゼより願い奉る。天にまします、いと高き御方よ、ご照覧あれ。天上に身命を捧げし乙女を。生涯あなたを支える乙女を。願わくば、あなたからの祝福があらんことを」
エルミーゼがかざした手から魔力がこぼれる。それはまるで、冬のダイヤモンドダストのようにキラキラと輝いた。
アリアナの肩にエルミーゼが手を置く。
――あなたの努力は報われるでしょう。なぜなら、あなたもまた理想の聖女を目指すのだから。それ以外の未来は許されません。
前世ではその言葉を送ったが、エルミーゼは結末を知っている。
だから、少し考えてから別の言葉を送った。
「……成否は重要ではありません。何があっても、決して歩みを止めないことです。私はあなたの努力を知っています。その事実こそが尊いのですから」
「はい」
硬い表情、硬い声のまま、アリアナが泉に向かって進んでいく。
澄み切った水、夜の闇を映して真っ黒な水に足をつけた。アリアナの小さな体がみるみると沈んでいって肩口まで浸かった。
そこで祈りを捧げた後、アリアナは泉を突っ切り、泉の向こう側にある祭壇へと移動する。
水から出たとはいえ、たっぷりと水を含んだ肌襦袢と、この寒さだ。
普通の人間であれば倒れてしまうほどの寒さだろう。
それでもアリアナは弱音を吐かない。辛さも外に出さない。昔のエルミーゼのように。それほどの鍛錬を積んできた証だ。
だけど、現実とは残酷で――
アリアナは祭壇に祈りを捧げた後、そちらに背を向けた。泉を挟んでアリアナとエルミーゼは正対する。
アリアナが両手を前に差し出す。
「私の名はアリアナ――私は誓います。私の全てを主人に捧げることを。ゆえにどうかどうかご慈悲を。私に世界を正し、人々を導くための力を。ここに深く深く祈り奉ります」
直後、アリアナの手に黄金の輝きが生まれた。
儀式に参加していた関係者たちが、おお! とか、やった! とか興奮の声をあげている。
だけど、そこまでだった。
アリアナの作り出した黄金の輝きは膨らむことなく、尻すぼみに弱まっていって、あっという間に夜の闇に飲まれて消えた。
「そ、そんな……!?」
アリアナが輝きの消えた両手を天高く掲げた。
「どうしてですか!? 主人よ!? 私の願いを聞いてください! あんなに頑張ったのに!? どうして!? 慈悲を! お願いします! お願いします」
だけど、アリアナの手はぼんやりと輝くだけで、エルミーゼのような夜の闇を吹き飛ばすような光は現れなかった。
(……やっぱり、ダメだったか……)
前世と結末は変わらなかった。一回目の儀式でアリアナは失敗してしまう。
歴代の聖女でも必ず1度で通るわけではないのだけれど、厳しい訓練に耐えて臨んだだけに、己への失望は深くなる。
アリアナは何度も呼びかけるが、天の主人は答えない。主人が沈黙を保つとき、それは無慈悲なまでに徹底している。
やがて、諦めたアリアナが両手をだらりと落とす。
エルミーゼと目があった。
前世だと、憤怒と屈辱で燃え上がった目がエルミーゼを睨んでいたが、今世では違った。捨てられた犬のような、ただただ悲しい目がエルミーゼを見つめていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
儀式が失敗してから、アリアナの記憶は曖昧だ。
あんなに厳しいことに耐えたのに。あんなに辛いことに耐えたのに。
ぼんやりとしたままシスターたちに連れられて待機室へと戻り、体を拭かれて、シスター服に着替えさせられた。緊張の糸が切れたので、体が震え出したところ、毛布を肩からかけられた。
「……一人にしてくれませんか?」
そう言うと、シスターたちは部屋から出ていった。
たった一人の世界で、アリアナの心は闇に飲まれていって――
ドアが開いた。
「大丈夫ですか、アリアナ?」
現れたのは聖女エルミーゼだった。
今、アリアナを支えてくれているのは、エルミーゼの言葉だけだった。
――成否は重要ではありません。何があっても、決して歩みを止めないことです。私はあなたの努力を知っています。その事実こそが尊いのですから。
その言葉のおかげで、どれだけ救われたことだろう。
もしも、聖女を目指すのだから絶対に成功しろと言われていれば、耐えられなかったかもしれない。
「エルミーゼ様、申し訳ありません……失敗してしまいました……」
「いえいえ、そんなに気にしないでください。たいしたことじゃありませんから。それより、ほら、これなんてどうです?」
持ってきた水筒から、エルミーゼが取り出したのは茶色くて温かい飲み物――ホットチョコレートだった。
甘くて温かい香りにアリアナの冷めた心の温度が上がる。
「これは……?」
「おいしいですよ。これでも飲んでください」
見ただけでわかった。きっとこれは、とってもおいしいものだと。
だけど、本当に飲んでいいのだろうか?
聖女はそんなものと距離が置くべきと教えられたのだけど。
「温まりましょう。風邪をひいちゃいますよ?」
だけど、聖女の言葉と香りは甘美すぎて。
それに耐えるにはアリアナの心はあまりにも凍てついていた。
「……あ、ありがとうございます……」
受け取って、飲んだ。
暖かさが体の内部から広がっていく。まるで氷のように凍てついていた心もじんわりと溶けていく。
その暖かさはまるで、人の優しさのように思えた。
アリアナが触れる初めての優しさ。聖女エルミーゼがくれた優しさ。
「エルミーゼ様! あ、あり、ありがとうございます!」
感情の制御ができなくなり、アリアナはボロボロと泣きながらホットチョコレートをおいしそうに飲んだ。
アリアナは生涯、この日のホットチョコレートの味を忘れることはなかった。
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