第23話 小聖女アリアナ

 年の暮れも押し詰まった頃、エルミーゼは大司教モーリスをはじめとした教会の一行とともにクローディア大聖堂へとむかった。

 クローディア大聖堂は霊山のふもとにある街の中央に位置する。


(いつ見ても大きい!)


 エルミーゼたちが暮らしている王都の教会もなかなか立派な建物だけれど、クローディア大聖堂と比べるとかなり見劣る。


 一言で言えば、荘厳。


 まるで城を思わせる、大きくて立派な建物が圧倒的な存在感を放っている。宗教に興味がない人間でも、この建物を始めてみると感じ入るものがあるだろう。

 両開きのドアを開けると、非常に大きな礼拝堂がある。

 そこには、大聖堂の聖職者やシスターたちが集まっていた。


 先頭に立つ男が、エルミーゼを見るなり大きな声を発する。


「おお! これはこれは聖女エルミーゼ! よくぞ参られました!」


 クローディア大聖堂を管轄するリッケン枢機卿だ。リッケンはもう50近い男で、この大聖堂でも古株であり、エルミーゼと顔見知りでもあった。


「お久しぶりです、リッケン」


 エルミーゼの挨拶には敬意がこもっていた。

 ここは聖女が幼少の時期を過ごす場所でもある。リッケンには子供の頃に世話になっていたからだ。

 いわゆる、おむつを変えてもらった相手である。

 穏やかであり、深い洞察力があり、統率力がある。教会全体を支える屋台骨の一人だ。当然、エルミーゼも深く敬愛を持っている。

 差し出された手を、エルミーゼは握り返す。


「お転婆になったと聞いておりますよ?」


「……お転婆?」


「はい。教会法107条を発動したのでしょう?」


「あー……」


「昔のエルミーゼからは想像もできませんね」


 そのときだった。エルミーゼの気のせいだろうか、エルミーゼの手を握るリッケンの手の力が増した気がしたのは。

 そして、逆側の手をエルミーゼの肩に置く。


「聖女としての分を忘れぬよう、人々に尽くすのですよ。わかりましたね。私のかわいいエルミーゼ」


 ぽん、とエルミーゼの肩を叩いて手を離す。

 ニコニコとした顔の、いつものリッケンがそこに立っていた。


「エルミーゼ、理想の聖女であるあなたは私の誇りでもあります。そのあなたに、どうしても会わせたい人物がいます」


 リッケンが後方に声をかけた。


「アリアナ、来なさい」


 リッケンに声をかけられて、一人の少女が前に進み出た。

 銀色の髪が美しい、まだエルミーゼの胸元くらいの6歳の少女だ。

 小聖女アリアナ。

 小聖女とは『聖女になる前』という意味を持つ。エルミーゼも昔は小聖女だった。

 エルミーゼを見つめるアリアナの目に感情のゆらめきはなかった。尊敬や敬意といったものも含めて。


(ああ、前世とは同じだな……)


 何も変わらない、アリアナの虚空のような乾いた瞳。

 前世から、その異変には気づいていた。だから、どうにか正しく導けないかと心を砕いた。その心のひび割れに寄り添いたいと思った。

 今世では、


(うおおおおおお! 恨まれたくねええええええええ!)


 それしか思っていない。心に寄り添うとかどうでもいいねん!

 リッケンが口を開いた。


「このアリアナは――エルミーゼ、あなたの次の聖女になる人材です。短い時間ですが、完璧な聖女としての、あなたの薫陶を授けていただきたい」


「もちろんです、お任せください、リッケン」


 前世は心の底からそんなことを言ったけれど、今は違う。


(ご機嫌取りだ! それしかない!)


 全力で媚を売ろうと決めていた。さすがに前世での失敗は繰り返したくない。どうしてあんなにエルミーゼを執拗に狙い続けていたのか不明だが、接し方に何かしらの落ち度があったのだろう。


(……これそ理想の聖女! って感じで接していただけなんだけどなあ……)


 悪かった点は思いつかない。改善点もない。

 だからこそ、適当に接することにした。


(前世と同じなのはここまでかな……)


 エルミーゼは腰を折り曲げて、アリアナの視線に目を合わせて手を差し出した。


「エルミーゼです。よろしくお願いしますね?」


「お願いします」


 ぶっきらぼうに近い言い方で、アリアナは撫でるようにエルミーゼの手を握り返した。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 


 小聖女アリアナにとって、世界とはこの大聖堂であり、聖女である未来こそが己の到達すべき唯一の未来だった。


 いや、厳密には――

 理想の聖女である未来。


 日々、リッケンから厳しい教育が課されていた。

 幼いアリアナには辛くて泣き出しそうなときもあったが、そんなとき、リッケンは必ずこんなことを言った。


「その程度で根を上げてどうするのですか? あなたの先輩であるエルミーゼはこの程度、なんの苦もなく成し遂げていましたよ? 彼女はそうやって理想の聖女となりました。あなたも頑張りなさい。あなたもまた理想にならなければならない。でなければ、エルミーゼの跡を継いでも笑われるだけですよ」


 どれだけ成し遂げても誰も褒めてくれない。どれだけ苦しんでも慰めてくれない。

 エルミーゼならできた。エルミーゼならもっと完璧にこなしていた。


 エルミーゼ、エルミーゼ、エルミーゼ――

 理想の聖女エルミーゼ!


 その言葉は、いつしか憧れから呪いへと変わった。


(お前のような人間がいるから、私はこんな目に……!)


 アリアナは聖女にしかなれない未来に絶望して、己よりも常に輝き続けるエルミーゼという存在を憎んでいた。

 礼拝堂での挨拶が終わった後、アリアナはエルミーゼとともに別室に移動した。


「エルミーゼ、理想の聖女としてのあなたの考えをアリアナに教えてやってください。よろしくお願いしますね?」


「わかりました。ただ、厳しい言葉をかけるかもしれません。リッケン枢機卿は外していただいても構いませんか?」


「はっはっはっは! 構いませんよ」


「ありがとうございます」


 そんな二人の会話をアリアナは乾いた心で聞いていた。手をぎゅっと握りしめる。きっとエルミーゼは、理想の聖女として上から目線でごちゃごちゃとイライラすることを言うのだろう。


 いつか覚えていろ。いつか。今はそうやって私を見下していればいいんだ。でも、いつか私のほうが上になったときは――


 客間にやってきた。

 入ってきたのはエルミーゼとアリアナだけ。


 アリアナはまるで、これから躾を受ける犬のように、静かにソファに座った。エルミーゼが澱みのない動きでストンと腰を落とす。


(どんな、ご高説をするつもり?)


 そんなアリアナの耳に飛び込んできた音は――

 ぐー。

 エルミーゼが、あらあら、と言いながら、お腹を抑えた。


「ああ、お腹が鳴りました。大聖堂を目指せーって最後は大急ぎでしたからね……」


 そんなことを言いながら、聖女エルミーゼは聖騎士クレアから預かっていたカバンを開けて漁り出す。

 取り出した包みをテーブルで開けると、そこにはたくさんのクッキーがあった。

 それを口に入れて、エルミーゼがポリポリと音をたてる。


「ああ、美味しい! バターの風味がすごくいいですねー。口の中が幸せですよ!」


 ポリポリと食べながら、エルミーゼが思い出したように言った。


「どうですか、アリアナも。遠慮なく」


 そう言って、ニコリとほほ笑む。

 アリアナは何が起こっているのか理解できなかった。

 腹の音を鳴らす? そんなこと、聖女として決して許されない。どれだけ空腹でも根性で耐えるようにリッケンから指導された。

 菓子もそうだ。

 理想の聖女を目指すのなら、欲を見せてはならないと教えられた。世俗の愉悦に陥落するなどあってはならないこと。人の身でありながら、霊的な存在だと思わせる――それこそが、理想だと。

 だけど、なのに。

 目の前で、理想の聖女エルミーゼが腹の音を鳴らして、菓子を貪っている。

 これは夢なのだろうか……?


「ほら、どうぞ?」


「い、いえ、結構です!」


 混乱したアリアナは首を振って拒絶した。クッキーから漂う香ばしさは食欲を刺激してやまないが、アリアナは屈しなかった。


(きっと、エルミーゼは私を試している! そうに違いない!)


「……そうですか? こんなに美味しいのに」


 そのエルミーゼは残念そうな顔をして、クッキーをポリポリと食べ続ける。そして、


「あ、リットン枢機卿には内緒でお願いしますね?」


 そんなことを言って、イタズラっぽく笑う。なんだか、変に勘ぐった自分がバカに思えるほどの笑顔を。


(目の前にいる人は、誰……?)


 アリアナは混乱した。理想の聖女――そう言われて作り続けていた己の幻想にひびが入っていく。

 前世のシナリオは、腹の音ひとつで分岐していく。

 

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