第20話 クロノ・ガルダニア第三王子

 エルミーゼは少年が第三王子だと気づかなかった。

 もちろん、少年が名乗らなかったからだが、エルミーゼには前世の記憶がある。だけど、前世において第三王子は世捨て人のような生活をしていて、公的な式典以外では顔を見せなかった。

 その程度の面識だと、あまり印象に残っていない。

 おまけに、少年は地味な服装をしているので、わかるはずがない。


「……お話ですか。どんなお話をしたいですか?」


 エルミーゼは気安く応じた。暇だからというのもあるが、どちらかというと気性だった。エルミーゼは昔から年下――特に子供の面倒見がいい。

「やった!」


 少年が両手を挙げる。 そのとき、少年の右手に持っている紙袋がかさりと音を立てた。なんとなくエルミーゼが目を向けると、少年がその視線に反応する。


「お姉さんも食べる?」


「食べるって?」


 少年が袋から取り出したのは――


「あ、ドーナツ……!」


(あれが、噂に名高い甘くて美味しい幸せな食べ物……!)


 ケーキやクッキーと同じく、エルミーゼが食べたことがないものだった。

 食べたい!

 そう思ったけれども、即答できなかった。どう見ても、少年の服装は裕福なものではない。そのドーナツも仕事のおやつとして、なけなしのお給料で買ったのかもしれない。


(欲しいけど、もらっちゃダメだよねえ……)


 悪女を志す癖に、エルミーゼは本質的には善良な人物であった。子供の楽しみを奪うのは気が引ける――子供からドーナツを奪って高笑いしている悪女も嫌だけど。

 どう答えようか迷っていると、


「はい、お姉さん! あげる!」


 押し付けられた。


「あ、え、うん、ありがとう。もらっていいの……?」


「いいよ!」


 満面の笑みだった。そうまで言ってくれているのに、この好意を押し返すのは何かが違う。


「ありがとう」 

 エルミーゼはドーナツを食べることにした。ちなみに、毒殺などは考える必要もなかった。なぜなら、聖女であるエルミーゼに毒は効かないからだ。

 ドーナツを掲げて見上げる。ぽっかりと空いた中央の穴から太陽が見えた。


(不思議な形状だなー。どうして穴が空いているんだろ?)


 ユニークな外見だけど、その形状が愛おしい。僕、おいしいですよ? そんな意志を伝えてくるようではないか。見ているだけで人を幸せにしてくれる愛らしい存在。目立つ外見だったから、ずっと食べたかった。ほうばったみんなが幸せそうな表情を浮かべていたから。

 それを聖女としての高い意識でずっと我慢していたけれど。

 今は、そんなものはない!

 ぱくっ。


(ほわっ!?)


 それはもう、幸せの味だった。口の中でほろほろと崩れていく生地の感触と、広がっていく甘みが絶品で言葉を失ってしまう。表面にまぶされた真っ白な砂糖が、暴力的なまでに甘さを高めている。うお、これは、というくらい。だけど――

(だけど、それが、いい……!)


 そんなことを思う。世の中の真理の如く思う。

 パクパクとドーナツを食べていく。あっという間になくなってしまった。


「あー……おいしかった!」


「すごいね、お姉さんの食べっぷり!」


「うふふふ……ちょっと食い意地を多めで生きていこうと思っているんですよ?」


 それからエルミーゼは少年と取り留めのない会話をした。本当に取り留めのないこと。今日の天気とか、好きな食べ物とか、暇なときにどんなことをしているのかとか――

(なんだか会話のうまい子だな)


 会話のリードをしているのは意外にも少年だった。巧みに話を展開し、盛り上がる相槌をうち、流れるように次の話題へと進めていく。

 社交に長けた王族であれば当然のことだが、エルミーゼにその認識はなかった。

 ちょうど会話の流れが切れたところで、エルミーゼを案内した女性の侍従がやってきた。


「……エルミーゼ様。モーリス大司教の用事が終わりました。光合成は充分に終わりましたか?」


「終わっていないけど……始まってもいませんね?」


「それは良かった。では、大司教の元へご案内します」


「わかりました」


 立ち上がったエルミーゼに少年が声をかけた。


「バイバイ! お話ししてくれてありがとうね、お姉さん!」


「私も楽しかったよ。ねえ、あなたのお名前は?」


「うーん……」


 少し考えてから、少年は首を振った。


「秘密!」


「ええ……、気になるなあ。私はエルミーゼ。ありがとう。また会えたらいいね」


 そう言って、エルミーゼは侍従とともに教会一行の元へと向かった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 女性の侍従――セリーナはエルミーゼを送り届けた後、そのまま第三王子の私室へと向かった。

 彼女は国王付きの侍従ではなく、第三王子についている。年は20歳くらいで、赤い髪の美しい女性である。甘さよりはクールな印象が強い。


「失礼いたします」


 部屋の主人はテーブルで本を読んでいた。

 第三王子クロノ・ガルダニアだ。まだ12歳の少年であり、まだ本格的な成長期を迎えていないのもあって背はセリーナより低い。

 さっきまでの質素な服とは違い、王族にふさわしい豪奢な服を身につけている。


「ご苦労」


 本を置いて視線を上げるクロノに、セリーナは応答した。


「さっきの純朴そうなニコニコ顔はどこに行ったのですか? いつも通りの腹黒王子の顔に戻っていますよ?」


 容赦のない言葉だったが、クロノは不適な笑みで浮かべただけだった。

 腹黒かどうかはともかくとして――実際、同一人物かというくらいに雰囲気が変わっている。今のクロノと対面すれば、気の弱い人であれば気後れする部分もあるだろう。

 外見は、柔らかな少年なのに。


「ところで、どうしてエルミーゼ様と、あのようなまどろっこしい対面を?」


 第三王子クロノが望めば、どうとでもアレンジできる話だというのに。


「僕は目立ちたくないんだよ。知ってるだろ?」


 言葉としては間違ってはいないが、適切な表現というには無理がある。

 隠れたいのは、父である王であり、第一王子であり、第二王子であり、教会であり、有力貴族たちからだった。

 目立ちたくない――その言葉で収めるには重すぎる事実だ。聖女エルミーゼに第三王子と話したという事実を残したくないのなら、今日のこれは正しい。


「そうですね。ならば、逆に問うならば――どうしてめんどくさがり屋で日和見主義のクロノ様がわざわざ目をつけられる危険を冒してまで、あんなことを?」


「どうしても、聖女エルミーゼを確認したかったんだ」


「聖女だから、ですか?」


 クロノはためらいなく首を振る。

 そう、クロノは聖女であることには興味がない。そこに興味があれば、前世の時点でエルミーゼはクロノと出会っているからだ。


「違う、エルミーゼという人物に興味がある。彼女は――傑物だ」


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