第14話 教会法107条

 教会法とは、教会と王国が協議して作り上げた『教会の活動』に関する法律である。

 教会法107条にはこう記されている。


『聖女は王国領の1つを直轄領として宣言することが可能である。その宣言が、当該領地を管轄する領主に認められた場合、そこを聖女の直轄領とする。聖女の直轄領は聖女に対する絶対的な服従を余儀なくされる代わりに、王国や教会からのあらゆる要求を棄却する権利が与えられる』


 もともとは、聖女が己の身を守るために使うことを想定された法律である。


(だけど、前世では役に立たなかったんだよね……)


 前世の末期において、エルミーゼは教会法107条を発動したが、それを受け入れてくれる領主は誰もいなかった。

 堕ちた聖女、裏切りの聖女、傾国の聖女――

 そんな女の嘆願を聞き入れる領主などいなかった。


(困ってから使っても役に立たないんだよね……だから、使うのは今! これが通れば、いざというときの逃げ場所ゲットじゃない?)


 それは今世のエルミーゼの宿願でもあった。

 もうあのときのような寂しくて悲しい想いはしたくない。ここで、ウィルトン領を手に入れておけば、ソフィアたちはエルミーゼがピンチになっても見捨てることができない。


(ぐふふふふ、私と契約して直轄領になってよ!)


 まさに悪女仕草である。

 狼狽しまくっているのはエルミーゼ以外の全員だった。

 モーリス大司教が泡を食ったような勢いで話し出す。


「なな、なな!? 何をおっしゃられているのですか!? 意味がわかっていらっしゃるのですか!?」


「はい、もちろん」


 にっこりとほほ笑んで、エルミーゼが続ける。


「聖女の直轄領になれば、ルークさんからの訴えを無視できるし、借金の取り立ても相手にしなくていいですね?」


 あらゆる影響を排除できる、ということはそういうことだ。


(もちろん、借りたものは返すべきだと思うけど)


 ルークの無体な返金要求だけ棄却して、ゆっくり時間をかけて返せばいい。

 モーリス大司教は引かなかった。


「早く取り下げてください! 直轄領の宣言はそう易々とするものではありませんし、そもそも子爵領などに使うなんて!?」


 どうせなら公爵領だろう、と。それはそうだろうが、豊かな権力者である彼らがこんな条件を飲むはずがない。王国の命令すら無効にする――その文言は非常に強力だが、代わりに聖女の言葉に対しては抵抗を許されない。まさに諸刃の剣なのだ。


(子爵領でもゲットできれば、念願のマイホーム! 贅沢は言わない!)


 火炙り回避のルートが手に入るかもしれないんだから!

 そんなわけで、エルミーゼの返答は決まっている。


「なんと言われようと、もう私は宣言しました。モーリス大司教、あなたが立会人ですよ?」


「ぐ、ぐぬぬぬぬ……!」


 モーリス大司教は頭を抱え、ルークは顔を蒼白にさせて唇を震わせている。

 ソフィアが口を開いた。


「あ、あの……本当に、うちでいいんでしょうか……?」


「構いません」


「1つしか宣言できないんですよね……?」


「あなたたちが幸せであれば良いのです。私は今日の行いを決して後悔しないでしょう」


 ここでにっこり聖女スマイル。


「エルミイイイイゼ様あああああ!」


 ちょろい。落ちたソフィアはボロボロと流れる涙を両手で拭った。


「お父さん、エルミーゼ様のお気持ち、ありがたく受け取ろうよ!」


「そ、そうだな――」


 冴えない子爵領が、聖女の直轄領に大出世! ウィルトン子爵は状況についていけないようだった。

 慌てふためきながら、口をもごもごと動かす。

 子爵が承諾しない限り、エルミーゼの宣言は有効にはならない――


「待て、ウィルトン子爵!」


 ルークが鋭い声を割り込ませた。


「王国の命令を受け付けないということ――それはすなわち、王国に背を向けるということだぞ! 王国貴族として恥ずかしくないのか!? どう判断するべきか、国王様や諸侯たちと協議するべきではないか!?」


「…………」


 ウィルトン子爵はしばしの沈黙の後、こう言葉を続けた。


「我々が苦境にあったとき、助けてくれたのは聖女様です。何が正しいのかは判断が難しいところですが、私は聖女様が差し伸べてくれた手を取りたいと思います」


 そして、エルミーゼに顔を向ける。


「エルミーゼ様、どうぞ、この領を直轄領としてお使いください。我らウィルトン子爵家はエルミーゼ様に忠誠を誓います」


 これにて教会法107条は効力を発揮した。もう何物も、この領を脅かすことはできない。


(相手の弱みにつけ込んで拠点をゲット! これぞ悪女の道! やったああああああ!)


 エルミーゼは念願の拠点を手に入れて浮かれていた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 そんなやりとりを、エルミーゼの背後に立って見ていたクレアは感極まっていた。


(な、なんと素晴らしいお方なのだ……!)


 まさか『聖女にとっての最後の砦』とも評される教会法107条を惜しげもなく、救済のために使ってしまうなんて!


 これほどの献身。

 これほどの慈愛。


 歴代の聖女たちと比べても、聖女としての資質は比較にならないのではないか、いや、圧倒的だろうとクレアは断定できる。

 今回だけではない。

 ソフィアが助けを求めに来たときも、エルミーゼは彼女を見捨てなかった。普通であれば、見捨てて終わり――そうなれば、ルークやモーリス大司教の剣幕からして子爵領には取り潰しの可能性すらあっただろう。


 話を聞いただけでも驚くのに、屋敷を脱走までして瘴気溜まりを払いに向かうなんて!

 エルミーゼにはなんの得もない。立場が危うくなるだけ、いや、命の危険すらあるのに。

 どれほど人を愛していれば、それほどの覚悟ができるのだろう。


(はたして、私は自分の職責を超えてまで尽くせるのだろうか?)


 それは容易な答えではない。

 だが、エルミーゼはためらいなくやってのけたのだ。

 山でソフィアが瘴気酔いにかかったときも、自分の身の安全よりもソフィアの身を案じていた。そして、ためらうことなく自分の護衛であるクレアを残し、危険にたった一人で踏み込んでいった。

 誰よりもまず、他人。己の幸せよりも、人の幸せを願う。

 まさに理想の聖女――


(まるで人がお代わりになれたようだ……)


 あのスカートをパタパタとしていた日から、中身が変わってしまったかのように。

 それは負から正の変化ではない。


(以前のエルミーゼ様も、理想の聖女だと思えるような人物だった。だけど、今のエルミーゼ様はそれ以上だ。その生き様に心の奥底が震えてしまう……!)


 正から正、いや、圧倒的なる正への変身。これほど素晴らしい人間がいるなんて!


 ――はたして、私は自分の職責を超えてまで尽くせるのだろうか?


 その問いの答えをクレアは見つけた。

 この人のためならば、最後の最後まで尽くそう。己の職責を超えてみせよう。命を捧げるべきはこの人だ。この人が理想の聖女として生きていけるよう、全力を尽くそう!

 クレアは心の奥底で感動の涙を流していた。

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