第12話 聖女パンチ
「聖女様の姿が見当たりません――!」
モーリス大司教の報告を聞き、ルークは唖然とした。
エルミーゼだけではない。護衛のクレアに子爵令嬢ソフィアの姿まで消えている。そして、クレアが馬を2頭、貸して欲しいと子爵の馬番に頼んでいたことも。
ルークは優秀な男なので、すぐに気がついた。
――あいつら、まさか瘴気溜まりを探す旅に出たのか!?
怒りとは別に、エルミーゼの気高さに感嘆する部分もあった。献身的ではあるが、権威に対して従順な人物という認識だったが、まさかこれほどの行動を取れるなんて!
(……少々、甘く見ていたか……!)
聖女エルミーゼは、困っている弱者のためならば無茶も厭わない。
想像以上の傑物!
「追うぞ! 聖女の身柄を確保する!」
ルークは手勢を引き連れて、ウィルトン子爵邸を飛び出した。
だが、それは方便だった。
ルークが一目散に向かったのは、瘴気溜まりのある山だった。
(……ともかく、あそこにさえたどり着かせなければ問題ない!)
そこに瘴気溜まりがあることを、すでにルークは知っていた。
ウィルトン子爵領の瘴気を増やし、財政的に破綻させる――それが大いなる計画のひとつであり、ラクロイド伯爵家の役割だった。
ルークの一連の言動も、それを成し遂げるためのものだ。
苦しむウィルトン領の現状は、まさに計算通り。
計画は順調に進んでいたのに――
ここに来て聖女が動き出すなんて!
(もうあと少しなんだ! ここまで来て邪魔をさせるか!)
血相を変えたルークは大急ぎで馬を走らせる。
山の麓で馬から降り、ルークたちは大急ぎで山を登った。不安はあったが、それほど大きくもなかった。この一帯さえ封鎖してしまえばいい。いくら聖女といえど、この短時間でここまでやって来れるはずが――
山頂に至ったとき、ルークは血相を変えた。
(な、なんだと!?)
瘴気溜まりの近くに、聖女エルミーゼらしき人物が座っていたからだ。顔をうつむけているせいで表情はわからなかったけど。
一瞬にして肝が冷えた。
まさか、ここまでもうたどり着いているなんて!?
(……さすがは聖女……恐るべき人物だ……!)
ルークは手勢に周囲を警戒するように言うと、微動だにしない聖女に近づいた。
そして、声をかける。
「エルミーゼ様」
「ひっく」
変な言葉が返ってきた。うつむいたままなので、表情は伺えない。
(ひっく?)
まさか、エルミーゼが酔っ払っているとは思っていないルークは、頭の中にたくさんの疑問符を浮かべた。
疲れて痙攣でも起こしているのだろうか?
そのときだった。
「う、うわあああああああ!?」
兵士たちの悲鳴が響き渡った。
地面から、黒い物体が湧き上がってくる。人型の影に似たそれが、周辺の兵士たちに襲いかかったのだ。
これも瘴気溜まりの周辺で起こる現象のひとつだ。
(ええい、厄介な!)
近づいてきた影を切り捨ててから、再びルークはエルミーゼに声をかける。
「エルミーゼ様! 返事をしてください! どうなされたのですか!? ぼうっとしている場合ではありません!」
「ああ?」
なんだか、ひどく不機嫌そうな声が返ってきた。
いつも鈴の音が鳴るような声を出しているエルミーゼの声とはとても思えない。
「うっせーな……!」
エルミーゼが立ち上がり、ルークに顔を向けた。
(――!? なんだ!?)
ルークには意味がわからなかった。エルミーゼの表情は普通のそれではなかったから。
どこか目の焦点があっていなくて、顔を赤く染めている。
その手がルークの襟首をつかんだ。
「私がぁ、何をしていようとぉ、別にいいらろう? いちいち文句を言うな。こちとら、仕事仕事で疲れてるんらから!」
呂律の回っていない言葉でそんなことを言って――
「あっちいけ!」
思いっきりルークの顔面を殴り飛ばした。
繰り返すが、聖女エルミーゼは鍛えているので意外と強い。
「ごっぱあああああああああああああ!」
悪役貴族ルーク・ラクロイドは予想もしなかった一撃を受けて大きく吹っ飛び、地面をゴロゴロと転がって気絶した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
生涯初の泥酔を体験したエルミーゼは切り株に座ったまま、うとうとしていた。まるで公園で朝から酒を飲んでごろ寝しているおっさんのように。
だけど、それは彼女にとって心地よい体験だった。
もう何もかも投げ捨てて、酔いに身を任せる。
酔っ払い、万歳!
(うへへへ……気持ちいー)
心がふわふわした状態を楽しんでいると、無粋な声が響いた。
「エルミーゼ様」
それは呪いの言葉だった。エルミーゼ様、エルミーゼ様、聖女様。前世の頃から、どれほどそう呼ばれたことだろう。そのたびに、エルミーゼは自分の中にある聖女スイッチをカチッと押すのだ。そして、理想の聖女になったエルミーゼは泰然とした表情で仕事に臨む。
酔っ払った今、その言葉はむっとするだけの言葉だった。
(人が気持ちよく休んでいるときに――!)
ふつふつと怒りがわく。
そこに、再び声が重ねられた。
「エルミーゼ様! 返事をしてください! どうなされたのですか!? ぼうっとしている場合ではありません!」
その瞬間、酔っ払い聖女の怒りが燃え上がった。
前世で、ひたすら仕事を押し付けられて、大忙しで働き続けていた嫌な記憶が蘇ったのだ。
(……こんなにも頑張っている私を……まだ仕事をしつけようとするの!?)
今世は楽しく生きるつもりなの! 悪女として生きるの!
そんな気持ちが爆発したエルミーゼは立ち上がり、ルークの襟首をつかんだ。
酔っ払いのエルミーゼは、ルークをルークとはみなさなかった。誰か思い出せない、顔立ちの整ったやつ、くらいの認識だ。
ただ、合わせてこうも思った。
うん、こいつは殴ってもいいやつだ。
「あっちいけ!」
間髪入れずにルークの顔面を殴り、後方に吹っ飛ばした。
うるさいやつが消えた。さあ、これでもう一眠り――
「……あんら……?」
周辺の異常にエルミーゼは気づいた。
兵士たちが悲鳴を上げながら、黒い影たちと戦っている。わーわーうるさく、気持ちよかっった気分が台無しになった。
再び怒りが燃え上がる。
(……せっかく……人が楽しくやってるのに……!)
エルミーゼの両手に光が灯る。
「邪魔をするな!」
怒りの咆哮とともに、両手の光が爆ぜた。膨らんだ光は周辺を飲み込み――
消えたときには、もう影の姿はどこにもなかった。
達成感に浸る間もなく、エルミーゼはつかつかと瘴気溜まりに近づいていく。そして、
「ふん!」
聖女パワーを込めた拳で、思いっきり闇色の亀裂を殴り飛ばした。
ガラスの割れるような綺麗な音がして、瘴気溜まりが木っ端微塵に砕け散る。
その瞬間、ルークが連れてきた兵士たち歓声をあげた。
「おお、聖女様!?」
「すごい、奇跡だ!?」
「聖女様、万歳!」
彼らはルークの企みの深い部分など知らないので、大喜びで聖女の偉業を讃える。
だけど、その声はエルミーゼの耳に届いていなかった。
「ぐー」
泥酔状態なのは変わらない。そのまま地面に転がり、エルミーゼは安らかな寝息を立てていた。
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