第11話 仕事前の景気付け

 エルミーゼたちは山の上から流れてくる細い川をたどって山頂へと登っていく。


(ああ、これは、確かに……)


 歩を進めるたびに、瘴気の濃度が加速度的に増していくのを感じる。

 この先に、ある――

 疑惑が確信へと変わっていく。

 3人は黙々と山を登った。夏の日差しを浴びて緑は生い茂り、樹木は活力に満ちている。ある程度、日差しは遮られているだろうが、そんなものをせせら笑うほどに、夏の太陽は暑い。


(ワイン、飲みてえ……)


 そんなことをエルミーゼは思う。もちろん、他の人間2人がいるので無理なのだけど。

 幸い、川に沿って歩いていているので、いつでも水を飲めるのは良かったが。飲んでみると、実に冷えていて美味しい。

 クレアが口を開いた。


「瘴気の混じった水は飲んでも大丈夫なんですか?」


「そうですね、今日だけなら別に気にしないでも構いません。脱水症状のほうが危険でしょう。ただ、ここは瘴気が濃いですから……日常的に飲料するのはお勧めしません」


 エルミーゼの言葉を信じたのか、クレアやソフィアも川の水で喉を潤した。

 昼下がりを超えた頃、ようやく山頂付近までやってきた。


(……夜になる前には戻りたいので……ギリギリというところですか)


 そんな時間計算をしているエルミーゼの耳に、はあ、はあ、という荒い息が聞こえた。

 視線を向けると、辛そうな表情をしているソフィアの顔が視界に入ってきた。その足元は、ふらふらとおぼつかない。

 ソフィアは最後尾を歩いていたので気付くのが遅れてしまった。


「……クレア! ソフィアさんが!」


 前を歩いていたクレアが足を止めて、倒れそうになるソフィアを支えに向かう。ソフィアはクレアに支えられながら、地面に腰を下ろした。


「す、すみません……なんだか、急にしんどくなって……」


「山道に疲れましたか?」


「……ううん……これくらいの山なら大丈夫だとは思うんですけど……」


 だけど、表情は全く大丈夫そうではない。顔色は青白くて、辛そうに呼吸している。寒気を感じているのか、体も震えている。

 さっきまで元気だったのに、なぜ?

 エルミーゼは症状に心当たりがあった。


「……瘴気酔いですね」


「瘴気酔い?」


 繰り返すソフィアにエルミーゼは頷いて返す。


「濃度の高い瘴気に被曝すると、体調を崩すことがあるんですよ。それではないでしょうか」


 ちなみに、エルミーゼは聖女なので魔法的な瘴気フィルターを常に発動しているので無事、クレアは体を鍛えているから無事である。


「……うう……すみません……私に構わず先に進んでください……」


 などとソフィアは言っているが、病人を置いていくわけにもいかない。かといって、ここまで来たのに瘴気溜まりを放置して戻るのも微妙な判断だ。


「どうしますか?」


「……そうですね。クレアはソフィアさんと下山してください。ここからは私が一人で進みましょう」


「な、なりません! 聖女様をお一人にするなど!」


 クレアが血相を変える。当然だろう、なぜなら彼女は聖女エルミーゼの護衛なのだから。


「大丈夫ですよ。私、強いですから」


 にっこりと笑いながらエルミーゼは拳をぐっと握ってみせる。

 これは強がりではなく本当だった。聖女教育の一貫で護身術を学んでいるからだ。おまけに、聖女の加護のおかげで身体能力も増しているので、そこら辺のゴロツキなら組み伏せるくらい余裕なのだ。


「瘴気溜まりの解決を優先しましょう」


「くっ……己の身を危険に晒してまで……民の幸せを願う……エルミーゼ様の献身、このクレアは感服いたします!」


「ありがとうございます……エルミーゼ様……どうか無理はなさらず、ご無事で……!」


 ソフィアはソフィアで感極まった様子で涙を流している。


「大丈夫、この聖女エルミーゼに全てお任せください」


 にっこりとほほ笑み、エルミーゼは二人の感情を受け止める。

 クレアから荷物を譲り受けると、立ち去っていく2人を見送り、再び山頂を目指して歩き出した。

 ほどなくして――


「あった」


 鮮やかな緑と茶で構成されていた山の風景に異質なもの浮かんでいた。

 それは『空間の割れ目』とでも表現するべきだろうか? まるで割れたガラスのように、空間に亀裂が走っている。亀裂の向こう側は濃厚な漆黒で、そこから黒い蒸気のようなものが空気中にこぼれている。


 まさに、瘴気溜まりである。


 話によると数年間は放置されていたようで、なかなかの大きさに育っている。これを浄化すればウィルトン領の異変は収まるだろう。

 そして、それはエルミーゼにとって造作もないこと。

 すなわち、すでに全ては終わっているのだ。


「ふんふんふーん♪」


 鼻歌を歌いながら、エルミーゼがクレアから受け取ったバックパックを漁る。

 そこから、ずるりと引き摺り出されたものは――

 ロイヤル・ワインの瓶だった。


「うへ、うへ、うへへへへへ!」


 聖女にあるまじき、堕落した笑い声をエルミーゼがこぼす。その口元はだらしくなく開き、目は完全にイッちゃっている。


 ソフィアが瘴気酔いで倒れたとき、悪女エルミーゼの脳裏に悪魔的な策が閃いた。

 ソフィアの救護をダシにすれば、クレアを引き剥がせるんじゃない!?


 未成年のエルミーゼがロイヤル・ワインを飲むためには『一人だけ』になる必要があるのだけど、これは思いのほか難しい条件だった。


 聖女エルミーゼは滅多に一人にならないのだ。

 もちろん、監視されているわけではないので一人の時間はなくもないけれど、そのタイミングでロイヤル・ワインを持っている、という条件まで満たさなければならない。

 エルミーゼの執念は、その不可能を可能にしたのだ。


「へへへへへ……!」


 聖女エルミーゼは切り株にどっかりと座り、ワインの栓を開けた。ふわりと芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。


「言うよねー、景気づけの一杯って! これから大仕事だから! 飲まなきゃね! それに、暑いし! 喉を潤すのは大事!」


 そんな言い訳を並べながら、エルミーゼがごくごくとワインをあおる。

 おそらくは王宮御用達の恐れ多いロイヤル・ワインをラッパ飲みした、世界で初の人間であった。


「ぷはー! おいしい!」


 三分の一くらい飲んで口を離す。

 実際、おいしかった。渋みと甘味が高いレベルでギリギリのせめぎ合いをしている。もう、引き分けでいいから! 引き分けでいいから! 私の舌を喜ばせるために戦うのはやめてー! と叫びたくなる。こんな味を作り出すって、どんだけブドウは偉いんだ。優勝、絶対に優勝。


(こんなの断っていたって、前世の生き方はやっぱりダメー!)


 そんなふうに思った。これはもう、本気の本気で悪女道を邁進しなければ!


「しゃーて、仕事をしなくちゃ、ね……おろ?」 


 立ちあがろうとして、エルミーゼはうまくバランスが取れない自分に気づいた。なんだか、頭の中がぐるぐるとしている。


「おおおおおおー……?」


 エルミーゼの知らなかった事実がいくつかある。

 前世において、完璧な聖女であるエルミーゼの前で泥酔する人間などいなかったので、エルミーゼは酔っ払うという現象を甘く見ていたこと。

 そして、もうひとつ。

 エルミーゼは死ぬほど酒に弱かったこと。

 天にも昇る気分を味わいながら、エルミーゼの口から天上の楽の音のような声が紡がれた。


「ひっく」


 

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