第8話 子爵令嬢ソフィアの見たところ

 真夜中、ソフィアはエルミーゼたちとともに馬に乗って屋敷から脱した。

 馬は2頭。1頭にはエルミーゼを後ろに座らせたクレアが乗り、もう1頭にはソフィアが乗って先導している。

 ソフィアは思った。


(クレアさんって、すごいな……)


 あの短時間で、こっそり馬と脱出ルートを本当に用意してしまうなんて。

 そう簡単なことではない。

 なぜなら、屋敷のあちこちにはルークの連れてきた騎士たちが巡回しているからだ。


 ルークは当然の警備だと言い張っていたが、ソフィアは口実だと思っている。

 本当の狙いは、監視だ。

 監視対象は聖女? あるいはソフィア? その両方? それはわからないけれども。理由をつけて、この領までついてきたのも、勝手なことをさせないためだ。


 どうしてそういうことをしているのか?

 ソフィアはルーク、いや、ラクロイド家そのものを疑っている。


(私たちが何度も苦境を伝えているのに、聖女様はそれを知らないようだった。ひょっとして、ラクロイドの家が握り潰している……?)


 証拠も何もないので、口外したことはないけれど。

 今、王宮は次代の王を巡って権力闘争の真っ最中だ。それが影を落としているとすれば――

 特に派閥にも属していない、吹けば飛ぶような子爵家にどれほどの対抗策があるだろうか?

 それを打破するため、一か八かで聖女エルミーゼを頼ってみたが、


(本当に良かった……)


 心からそう思う。普通であれば助ける価値などない人間にまで、なんのためらいもなく慈愛の手を伸ばしてくれた。

 あの手の温かさが、どれほど嬉しかったか。

 見放された、この領地に来てくれたことだけでもありがたかったのに――

 さっきのような判断までしてくれるなんて!

 今も耳の奥で思い出せる。


 ――だって、見過ごすわけにはいかないじゃない? せっかくの機会なんだし。


 無理をしてでも、この領地を救うための努力をしてくれるなんて!

 あの言葉だけでどれほど救われただろうか。

 立場上、絶対に問題があるだろう。大司教たちは反対していたのだから。それでも、エルミーゼはわざわざ探索の時間を作ってくれたのだ。ウィルトン領の苦境を捨てておけないから。

 まさか、これほどの慈愛を持っているなんて!


「あなたこそ、本物の聖女様です……!」 


 今日のことは絶対に忘れない。一生をかけてでも恩返しをしよう。

 ソフィアはそう固く決意した。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 ――ああああ! やっと酒にありつけるうううううう!


「ここが、ロイヤル・ワインを作っているワイナリーです」


 そうソフィアが口にしたとき、エルミーゼの頭に浮かんだワードはそれだった。

 広大なブドウ園の手前に、作業所と住居が組み合わさった大きな建物が立っていた。

 たどり着いたのは早朝だった。降りた馬を引いて歩きながらエルミーゼたちは近づいていく。職人の朝は早いというやつなのだろう、建物の周りですでに掃除をしている人たちがいた。

 彼らは近づくソフィアに気づくと平身低頭で迎える。


「ソフィア様! わざわざお越しくださるなんて!?」


「いえいえ、気になさらず作業を進めてください。ところで、グラハムさんはいらっしゃいますか?」


「はい、います! 呼んできますので、お待ちを!」


 男の一人がバタバタと建物の中に入っていく。ほどなくして、40代くらいの大柄な男を連れて戻ってきた。


「お嬢かい。どうしたんだ?」


「最近、ワインの出来が良くないことについて、話を伺いたく思いまして」


(……あれ……? そんな理由で来たんだったっけ?)


 酒しか頭になったエルミーゼが内心で首を傾げている間に、グラハムの目がエルミーゼを見た。


「そっちは?」


「聖女様です」


「……せ!?」


 想像もしていなかったのだろう、グラハムが大きく目を見開く。

 だけど、着ているからして実に『聖女感あふれる感じのもの』なので、疑う余地もないようだった。


(これはもう、己を売り込むチャンスじゃないですか)


 エルミーゼがにっこりと聖女スマイルを浮かべた、まさにその瞬間――

 ぐー。

 エルミーゼの腹の音がなった。

 昨日の夜からずっと移動しっぱなしだったので、単純に腹が減っていた。

 気まずい沈黙が流れる。

 グラハムが困ったような声で、こう言った。


「……とりあえず、飯でも食いながら話をしようじゃないか」


 通された応接間で待っていると、グラハムが料理を持ってきてくれた。

 熱々に焼かれた厚切りのトーストに、真っ赤な色が目をひく美しい色のジャム、透き通ったスープに、見ているだけで甘さを感じさせる搾りたてのオレンジジュース。


(ああああああ! おいしそおおおおおおおお!)


 あっという間に食べてしまった。


「あんた、食いっぷりがすごいな……」


 グラハムが多少、いや、かなり引いている。

 だって、お腹が空いていたんだもん!

 サクッサクッのトーストが犯罪者だった。サクッ! と歯が届いた瞬間、もうエルミーゼは獣になった。幸せ者すぎませんか、これ? 口の中に残るトーストのかけらはスープを飲んでそっとリセット。これ無限にいただけちゃいますね?


「おいしかったですよ?」


 さっき見せそびれた聖女スマイルを浮かべておく。困ったときはわりとこれでごまかせる。ほら、今回もごまかせた。


「それで、ワインの出来に関する話だったな――」


 グラハムが話してくれた内容によると、ワインを作るには、ブドウの品質と醸造する水の品質が大事らしいが、ここ数年、両方とも品質の悪化が止まらないらしい。


「王家どころか、普通のワインですらまともに作れないレベルだぜ。困ったもんだよ」


 心の底から困ったようなため息を、グラハムが吐く。


「瘴気なんですかね……聖女様?」


「はい、おそらく」


 この領そのものが、広く病んでいる。もはや疑うまでもない。

 話題がひと段落したところで、


(どうして、瘴気の話になっているんだろう?)


 そんなことをエルミーゼは思った。あれ、ワインを飲みに来たんじゃなかったっけ? そんなわけで、エルミーゼは彼女が思うところの本題を切り出した。


「ここ数年、作ることができていないロイヤル・ワインですが、ここに在庫があると伺いましたが、事実ですか?」


「ああ……昔のならあるよ」


 旅の間、ずっと考えていた言い訳をエルミーゼは口にした。


「なるほど……ひょっとすると、何かしら解決の糸口になるかもしれません。少し味合わせていただくことは可能でしょうか?」


 実際、全く関係はないし、糸口にもならない。

 しかし、それを外野は理解できない。まさに強引な突破というやつである。


(……これならば断れるはずもない……!)


 まさに悪女であり策士である。

 だが、致命的な見落としがあった。

 グラハムが困ったような表情を浮かべる。


「え、いや……あんた、未成年だろ? 飲ませるわけにはいかないよ」


 がーん。

 シンプルに落ち込んだ。


(そうだった……今の私は15歳! 前世の享年25歳じゃない!)


 うわ、どうしよう。今すぐ飲めないのに頑張っちゃった? 無駄なことしちゃった? そんな言葉がぐるぐると頭を回る。

 そのとき、ソフィアは直感した。

 ワインがなぜ必要なのかはわからないけれど、これは聖女様の深謀遠慮である。ここはフォローしなければならない!

 あるのは深謀遠慮ではなく、ただの欲望なのだけど。

 もう一生をエルミーゼに捧げると決めたソフィアに思いつくはずもなかった。


「グラハムさん、よろしければロイヤル・ワインをエルミーゼ様に持たせていただけませんか? きっと必要なことなので」


「うん……? まあ、別に構わないけどよ。ああ、だけど、一級品は全部、王家に納めちまってるから、少し落ちるよ。それでいいか?」


「構いません」


 にっこりとした笑顔でエルミーゼは受け答えた。

 内心では、よっしゃー! と拳を突き上げながら。


(飲む方法は後で考えよう……! 一人になったときにでも……うししし)


 悪女は未成年の飲酒など気にしないのだ!

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