第5話 悪女は私利私欲を尊ぶ
「待ちなさい、クレア」
「――!?」
驚くのはクレアだけではなく、抑え込まれている少女もまた。
だが、そんな一瞬の停滞を吹き飛ばすようにルークの声が響き渡った。
「狼藉者だ! エルミーゼ様の身を守れ! すぐに追い出せ!」
主人の命を受けた兵士たちが動き出そうとするが、
「待ちなさい――そう言いましたが?」
まるで地の底から響くような聖女の言葉に、兵士たちの動きが止まる。この場で最も偉いのは、聖女エルミーゼだった。
「お考え直しください、エルミーゼ様」
モーリス大司教が言葉を挟む。
「ここはラクロイド伯爵領です。嫡男のルーク様にお任せしましょう」
「あまりにも必死な人間が私を求めている――耳を傾けるのも、聖女としての務めかと思いますが?」
エルミーゼの言葉に、モーリス大司教は、むぐ、と口をつぐむ。
会話のやり取りが終わったところで、クレアが口を開いた。
「……エルミーゼ様、いいのですね?」
「はい」
エルミーゼの返事を受けて、クレアは彼女を自由にした。膝は地面につかせ、右腕だけは拘束したままだったが。
「あ、ありがとうございます……!」
茶髪の少女が深く頭を下げて礼を述べる。
「私の名前はソフィア・ウィルトン。この伯爵領の隣にあるウィルトン子爵家の娘です」
ウィルトン子爵家の名前は、前世で記憶があった。
彼女が連行された後、しばらくして乱入者はウィルトン子爵家の娘だと聞かされたからだ。聖女に対する無礼により何かしらの罰がくだったらしい。そして、エルミーゼが処刑される頃には家ごと王国から消滅していた。
正直なところ、前世で胸を痛めていた。
あのとき話くらい聞いていれば、と。彼女から敵意は感じなかった。困っていたから、ここに来たのだろう。貴族である以上、どれほどのリスクがあるかはわかっていたはず。それでもここに来るしかなかった。それほどの事情なのだ。
(それに、ウィルトン子爵領と言えば――)
前世のエルミーゼが大人になってから知った情報もある。興味がないわけでもなかった。
「私が聖女エルミーゼです。何か私に御用でしょうか?」
「はい、私のウィルトン子爵領の瘴気を払って欲しいのです!」
「ならぬ!」
割り込んできたのはモーリス大司教だった。
「瘴気払いは全ての領地、全ての貴族たちが望んでいること! その順番は教会によって厳密に――公正に管理されている! 個人のわがままを受け入れている余裕などない! 即刻、立ち去れ!」
「そんな! もう何年も前から陳情しているのに――いつまで待てと!?」
「心配しなくていい」
さらに割って入ったのが、ルークだ。
「例年通り、うちの領地から食料を提供する準備はある。君たちが飢えることなどない」
「提供って――高く売りつけているだけではないですか!? もう財政的な余裕はありません!」
「逆恨みもいいところだな。我々も乏しい食料を提供しているというのに……」
大袈裟なため息をつきながら、ルークが肩をすくめる。
「それに、君たちは金銭的な問題など簡単に解決できるはず。ロイヤル・ワインの免状、売りに出せばいくらでも買い手はつくだろう?」
「そ、そんなこと、できるはずがないと知っているくせに……!」
怒りの形相でソフィアがルークをにらむ。
剣呑な雰囲気だったが、エルミーゼの頭はアルコールの染み込んだお花畑とかしていた。
(そうそう、それー! ウィルトン子爵領産ロイヤル・ワイン!)
それは噂の、とても美味しいワインだった。
毎年、極少数だけ作られて、全て王家にのみ納入される。その味は絶品らしく、全ての貴族が飲みたいと思うほどのものだった。
前世で、ソフィアは一度だけロイヤル・ワインを飲める機会に恵まれた。
もちろん、にっこりとほほ笑んで辞退した。
――ありがとうございます。しかし、お気持ちだけで充分です。
アルコールなど飲まない。それが完全無欠の聖女として正しい振る舞いだと思っていたから。
同席したモーリス大司教はかっぱかっぱと飲んで、うまい! すごい! こんなものは初めてだ! と大絶賛していたけれど。テーブルの下で、ちょっとだけ手をプルプルとさせてしまった。
かっこつけなきゃよかった!
それ以来、前世の『やってみたかったけどできなくて我慢したリスト』に入っていた。
なので、これはチャンスであった。
(ぐへへへへ……絶対にロイヤル・ワインを飲んでやる!)
その領地まで行けばワンチャンあるやろ! そんな精神である。
彼女がウィルトン領の人間だと思い出してから、すでにここまでの青写真はできていた。これぞまさに、理想的な悪女ムーブ。慈悲ではなく我欲で動く。浄化の1発でもかましてやれば、ワインの一本くらい気分よくもらえるだろう。
ソフィアが地面につくほど背中を折り曲げて懇願する。
「お願いします、もう私たちの領は限界です! 聖女様、何卒、何卒、ご慈悲を……!」
「聖女様はお前のわがままを聞くほど暇なお方ではないよ。話は終わりだ。これで終わりだと思うなよ? 法の裁きのもと、お前がどれほど――」
「行きましょう」
「は?」
唖然とした様子でルークが驚愕の視線を向けてくる。
(……ん? 何か言ってた?)
自分の頭の中の悪女ムーブに陶酔していたエルミーゼはルークの話を聞いていなかった。
(ま、いいか)
あまり深く考えないことにした。だって、ルークのこと、嫌いだし。
「行きましょう、ソフィアさん。どうやら、お困りのご様子。私が瘴気を払って差し上げましょう」
「ほ、本当ですか!?」
まさに地獄の底で菩薩でも見たかのような、ソフィアの表情だった。
血相を変えたのはモーリス大司祭だ。
「な、なりませぬ! 聖女様の予定はすでに決まっていて、そのような寄り道を――!」
「私は慈悲を果たしたいと思っております。これは必要な慈悲なのです」
モーリスの言葉を容赦なく遮る。
「教会の仕事がある? それを調整するのがあなたの仕事ではありませんか、モーリス大司教? あなたは聖女の行いを止めると言うのですか?」
「ぐっ……!?」
モーリス大司教が奥歯を噛み締める。それは確かに、完璧なる正論だったから。
実際のところは、
(ふへへへへ、聖女の力で酒をゲットじゃー!)
そんな感じだったけど。
「クレア、手を離してあげて」
「……わかりました」
エルミーゼは自由になったソフィアの手を取る。
「あなたの願いは聞き届けられました。必ずや私が果たしてみせましょう」
「せ、聖女様……あり、ありがとうございます……!」
涙を流しながら、ソフィアがエルミーゼの手に額を押し当てる。
ラクロイド伯爵領の民衆たちもまた感動していた。自分たちの領主の言い分とは真逆だったが、彼らにすれば『聖女が弱者を救った』と言う形だったから。そんな物語に民衆は弱い。彼らの多くは、喜んでこの日のエルミーゼの姿を素晴らしい聖女だったかと吹聴する。
本人の頭は、ロイヤル・ワインのことで一杯だったけれど。
完璧な計算をしていたエルミーゼだったが、一点だけ見落としがあった。前世の25年分の人生を体験していたから、無理もないことだが。
今世のエルミーゼは、まだ未成年だった。
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