第4話 世界は今、分岐した
瘴気払いの儀式はそれなりの時間をかけて行われる。
「人よ、光を愛し、光に愛されるものたちよ。あなたがたの喜びは――」
エルミーゼが聖書の一説を誦じている間、同行しているシスターたちが鳴り物を鳴らしたり、水を注いだ聖杯を移動させたりして進行していく。
(……本当はやらなくてもいいんだけど)
事実、この儀式には意味がない。
瘴気払いはエルミーゼは聖なる力の解放だけで終わるので、実は5秒もあれば終わってしまう。教会から持ち込んだ祭壇だって必要ない。
前世で、モーリス大司教に尋ねたところ、
「見守る人々を安心させるためです」
そう言われた。
「瘴気による被害は人々にとって心配の種です。それを、はい、終わりましたよ、もう大丈夫ですよ、と簡単に片付けられても、気分が晴れるものではありません。だから、仰々しい手続きが必要なのです。これだけやりましたから、大丈夫なんですよ、と。人というものは手間とかかった時間に価値を見出すものなのです」
そう言われればそういうものか、と思わないでもない。
民衆のためにするのだから、彼らの満足度が最大になる形なのは悪いことではない。
だが――
(瘴気の汚染が進んでいる現状で、そんな悠長なことをしていてもいいのかな……?)
火事場から逃げ出すとき、いくら入浴中でも、のんびりと服を着て出ていく人はいないだろう。大切なのは優先順位だ。
他にも気になることはある。
(……ううん……やっぱり、瘴気が薄い……)
聖女であるエルミーゼには瘴気を感じ取る力がある。
出発前から思っていた通り、田園地帯に立ち込める瘴気はとても薄い。これを払ったところで、何かしらポジティブな変化があるとも思えない。
(もう少し間をおいてもいいんじゃないなあ……もっと汚染のひどいところを抑えないと……)
瘴気は陣取りゲームのように、近接区域に感染していく。適切に除去していかないと、いつの間にか坂道を転がる雪玉のような速度で大きくなっていく。
実際、前世でエルミーゼが処刑された理由の遠因は瘴気の拡大を抑えきれなかったからだ。
エルミーゼは教会からの指示通りに浄化していたのだが、いつの間にやら瘴気は王国中に蔓延し、人々の生活に負の影響をもたらしていた。気づいたときには手遅れになっていたのだ。
(いけないいけない。ちゃんと集中しなきゃ)
考えていると、泥沼に入るし――どうしても前世の辛い記憶にも触れてしまう。
周りには、聖女エルミーゼの儀式を祈りながら見ている民衆たちがいる。彼らの瞳に込められた期待と希望の輝きに応えないわけにはいかない。
エルミーゼは両手を天高く掲げた。
「ここに聖なる光あり。悪しきもの、穢れしもの、澱みしもの――ただただ消えよ、ただ消えよ」
両手から生まれた光が大きな輝きを周囲に吐き出した。
光が収まった。
風景上、特に変わるところはない。だけど、エルミーゼにはわかっていた。
(うん、綺麗になった!)
間違いなく、瘴気は一掃されていた。
モーリス大司教が民衆たちに告げる。
「今、まさに聖女様によって瘴気は払われました! あなたたちが苦しむことはないでしょう!」
その瞬間、儀式を見守っていた民衆たちが歓声をあげた。
「おおおおお! 聖女様! ありがとうございます!」
「やったやった! 今年も大豊作だ!」
そんな感じで喜びを爆発させている。
素朴なまでに、素直に喜んでくれる彼らの姿を見てエルミーゼは嬉しくなった。自分の行いが誰かを喜ばせる――実に素晴らしいことだ。
(うんうん、いいことをしたな!)
自分の行いは、確かに誰かを幸せにした。それは完璧であり、間違いのない行為だ。
だけど、その行き着く先は――
エルミーゼは己の肌を焼く炎の痛みを思い出す。
(正しい行いをしたのに、どうしてあんなことになってしまうんだろう……?)
前世のエルミーゼは、今日この日を特に疑問もなく終えていた。ただただ胸に広がる心地よさに満足しながら。
だけど、今のエルミーゼは違う。
前世の失敗を知っている。だから、同じ結果にはならない。喜びだけで全てを終わらせることはない。疑問が、疑惑が心の奥底に溜まっていく。
今の所、前世と同じルートをたどっているが――
そこに至る細部は少しずつ変わっている。
シナリオは、変容を始めている。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
祭儀が終わった後、田園地帯の近くで豊作を祈願する祭りが開かれた。
当然、エルミーゼも参加することになった。
祭りの会場を見渡せる建物、そこに作られた貴賓席にいる。
そう、シナリオは変容を始めていた――
(……はあ、あの野菜の串焼きとか、わたあめとか食べてみたい……)
屋台で子供たちが食べているものを見て、エルミーゼがなんてことを考えているほどに。前世では欲望こそあったが、それを脳内であっても言語化することはなかったのに。
「心ここに在らずですね……どうなされましたか?」
爽やかな表情で、青い髪の若い男性が近づいてきた。
名前をルーク・ラクロイド、年は15歳。ラクロイド伯爵家の嫡男である。女性受けする、甘くて整った顔立ちが一目を引く。
うげえ、と内心でエルミーゼは思った。
なぜなら、前世で煮湯を飲ませてくれた人物の一人だからだ。調子がいいときは甘いマスクで調子のいいことばかり言っていたが、形勢が悪くなるとあっさり手のひらを返してくれた。その返しっぷりは素晴らしく、前世のエルミーゼに人間不信と絶望を与えてくれた一人である。
民衆という全体に対して前世の恨みつらみという感情はないが、個人レベルとなると別の話だ。
とはいえ、これはエルミーゼにしかわからない話だ。持ち出したところで気が触れたと思われるだけ。エルミーゼは寒気を覚えながらも、笑顔で応対した。
「あの野菜の串焼きとか綿飴を食べてみたいと思っていたんです」
食欲全開の言葉で。
前世では、元気そうな子供たちが楽しそうで、という女子力に満ちた言葉だったが。
ルークは少し面食らった様子だったが、0.5秒で表情を再構築した。
「ふふふ、意外と冗談を申されるのですね」
(冗談ではないんですけど!?)
などと思いつつも、口にはせずに、うふふふ、とエルミーゼも謎めいた笑みで対抗する。
ルークが柔らかな笑みのまま話題を転じた。
「そろそろお時間のようです。民衆にご挨拶をお願いいたします」
ここからの予定では、エルミーゼは建物から出て、ありがたい言葉を話すことになっている。
さっとルークが手を差し出した。
外までエスコートしますよ? という主張であるが、彼の権威を強めることでもある。聖女の手をとって現れる伯爵令息の姿は、さぞ民衆たちから尊敬を集めるだろう。
「そうですね、参りましょう」
会釈だけして、エルミーゼはさらりと手を無視した。
前世で、中身のえげつなさを知っているだけあって、手を取る気にはなれない。
(ふん!)
というやつである。
しかし、ルークは気後れすることなく、
「こちらです」
と言って先導する。きっと無視されたというよりは、気づかなかったのだろうと好意的に解釈したのだろう。なかなかの鋼メンタルである。
エルミーゼが建物から出てくると、すでにその旨を知っていた民衆たちが待ち受けていた。伯爵の兵士たちが輪を作って彼らを堰き止めている。
エルミーゼの姿を見て、民衆たちが再び喝采をあげた。
「聖女様だー!」
「今日はありがとうございます!」
「これからも私たちをお助けください!」
そんな彼らにエルミーゼは手を振る。そして、話を始めた。
「皆様と再会できた今日という日に感謝したいと思います。私の力はまだまだ微力なのに、皆さんは心の底から喜んでくださる。寛大なお心が、私にとっては大きな励みとなります――」
そんなことを話しながら、ふとエルミーゼは思い出した。
(ああ、そうだ。今日はいつもと違う展開だったんだ)
まさにそのとき。
「おい、待て! こら!」
兵士たちの緊迫した声が響く。
彼らの囲みを突破して、何者かがエルミーゼに向かって走ってきた。
騎士気取りのルークは動かない。動けない。これは前世通りの役立たずである。代わりに何者かを組み伏せたのは頼りになる聖騎士クレアだった。
「貴様、何者だ!?」
茶髪の、エルミーゼとよく似た年頃の女の子だった。彼女は必死の形相でエルミーゼを見た。
「お願いします、聖女様! お助けください! 私の話を聞いてください!」
「黙れ!」
クレアが少女の口を押さえる。
前世では、そのまま彼女は連行されて話は終わったけれども――
「待ちなさい、クレア」
世界は今、分岐した。
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