第3話 生まれて初めての喜び

「お待ちしておりましたぞ」 


 モーリス大司教は40代半ばの男だ。体つきはでっぷりとしていて、横に広い。


「こちらにお座りください」


 応接用のソファに移動して、エルミーゼはモーリスの対面に座った。護衛であるクレアはエルミーゼの背後に立つ。


「実は、ラクロイド伯爵領より依頼がありまして――」


 つらつらと話が始まる。

 エルミーゼは心ここに在らずという感じで聞き流していた。仕方がない。そもそも前世の知識的に知っている話なのだから。2度も同じ話を聞くのは辛いものだ。加えて、この後に起こる『ちょっとしたハプニング』への期待感が強過ぎたのもある。

 シスターが紅茶を運んでやってきた。

 無言で頭を下げると、淹れたての温かい紅茶をモーリス大司教とエルミーゼの前に置く。


(キタキタキター!)


 エルミーゼは大興奮でその様子を眺めていた。

 残った前世の記憶通りであるのなら――

 シスターは紅茶の横に、小さな皿を置いた。ホワイトチョコクッキーが置いてある。


(うおおおおおおおお……!)


 エルミーゼは真っ白なクッキーを凝視した。実に美味しそうなお菓子から視線を外せない。


「待て」


 話を中断したモーリス大司教が、不機嫌そうな声をシスターに向ける。


「エルミーゼ様は菓子の類をお召し上がりにはならない。伝わっていなかったのか?」


「も、申し訳ございません! すぐにお下げします!」 


 大司教からの指摘を受けて、シスターが真っ青になる。新入りのようなので、知らなかったのだろう。そして、モーリス大司教は部下の失敗に手厳しいところがある。


 前世だと、エルミーゼは二人をとりなしただけだった。そして、下げられていくお菓子を静かに見送る。食べてみたいな、という感情を押し殺して。


 前世の頃はずっとそうだった。

 お菓子ひとつをとっても我慢だった。そういった俗物的なものに手を出さないことが、きっと聖女らしいのだろうと思っていたから。


 それこそが、完全無欠の聖女のあり方だと信じていたから。

 だけど、悪女を目指す今ならば、そんなものは気にしない。


 シスターが震える声でモーリス大司教に反論した。


「あ、あの……お、お召し上がりのようですが……?」


「はあ?」


 視線をエルミーゼに向けたモーリスが悲鳴のような声を上げた。


「な、なな!? エルミーゼ様!?」


「ふぁに?」


 エルミーゼは気の抜けた返事を返した。気が抜けているのではなく、口の中が何枚ものクッキーでいっぱいだったからだ。バリバリと噛み砕く。

 口の中が、甘い幸せでいっぱいになった。


(ほ、ほ、ほわあああああああああああ!)


 甘いお菓子は人生で初めてだった。


(こんなに美味しいものなの!? どれだけ人生、損していたの!?)


 痩せ我慢せずに食べていれば良かった。これを食べずに死んだら人生の損。火に炙られた甲斐があるってもんよ! うっかり火に炙られたことまで許しそうになった。

 モーリスが、新種のモンスターを見たかのような目で口を開く。


「……そ、そんな……菓子は口にされないと思っていたのですが……?」


 ごくり、と飲み込んでからエルミーゼは答えた。


「色々と思うところがあって」


 にこりとほほ笑んでエルミーゼは応じた。


(クレアも笑顔1発で誤魔化せたから、今回もこれでいけるんじゃ?)


 そんな適当なことを思う。


「……まあ、構いませんが――」


 誤魔化せた。

 腑に落ちない様子ながら、モーリスは元の話題に話を戻した。

 聞き流しながら、エルミーゼはこんなことを思っていた。


(我慢しないって、最高!)


 今日は朝から己の欲望を解放してみた。その生き方の気持ちよさといったら!


 え、今までの我慢ってなんなんですかね!?

 カッコつけていた前の人生、90%くらい損してませんかね!?


 これはもう、絶対の正解である。気づいた私、絶対の天才。今後はこの生き方でやり通そう。今回の人生は最大限に満喫させてもらおう! そんなことを考えた。


 どうせ、どれだけ品行方正に生きたとしても火炙りになるしかないのなら――

 好き放題に生きて火炙りになったほうがマシだ!


 お菓子くらい、好きに食べさせろ!


(よし、それで行こう!)


 そんなふうにこれからの人生の方針を決めた。

 本当の意味で、聖女が悪女に降りた瞬間だった。聖女はクッキーの前に屈した。


(そして、それを極め尽くして完全無欠の悪女になってみせる――楽しみね)


 エルミーゼの口元に笑みが浮かんだ。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 モーリス大司教からの依頼を受けてエルミーゼはラクロイド伯爵領へと向かった。

 瘴気払いを行うためだ。

 世界には、瘴気と呼ばれるものが存在する。空間的な穢れ、あるいは澱み、という感じのもので――放置しておくと人間を含めた動植物に悪い影響を与える。

 それが作物の場合、不作につながる。

 そんなわけで、豊作祈願という名の瘴気払いは聖女のポピュラーな仕事のひとつだった。

 だけど、馬車に揺られながら、エルミーゼはこんなことを考えていた。


(……だけど、そんなしょっちゅーやる必要あるのかな……)


 ラクロイド伯爵領には半年に1回くらいの割合で瘴気を払いに行っている。そんな急激に溜まることもないので、エルミーゼの感覚的には2年に1回でも充分では? と思うのだけど。


(むっちゃ綺麗好きとか?)


 そうなのかもしれない。

 瘴気払いを含めて、聖女の仕事は全て教会の指示で動く。100%だ。そこにエルミーゼの意思が介入したことはない。


(……ま、いっか。教会が言っているんだから、そこに理由はあって、間違いはないんだから)


 前世でのエルミーゼは教会のロボットであり、その感覚は今も変わっていない。エルミーゼの頭に教会を疑う選択肢は存在していなかった。

 伯爵領に到着した。

 伯爵家で挨拶を交わした後、エルミーゼ一行は瘴気の浄化へと向かった。


「――ここですな」


 馬車を止めて、モーリス大司教が口を開く。


「わかりました」


 応じて、エルミーゼはクレアを連れて外に出た。

 そこに広がるのは、夏の日差しを受けた田園風景だった。青空の下、どこまでも美しい緑色が広がっている。


「おお、聖女様が来たぞー!」


「今年もよろしくお願いします!」


 周りには農耕者たちが集まっていて、エルミーゼの姿を見るなり、歓声を上げた。興奮する人たちが距離を詰めてこないように、伯爵家からついてきた護衛兵が彼らを押し留めている。

 エルミーゼは極上の笑顔を浮かべて、彼らに手を振った。


「お任せください」


 その姿を見るなり、彼らが再び歓声を上げる。


(……うーん。よかった!)


 エルミーゼは内心でほっとしていた。

 正直なところ、自分の心の動きが怖かった。目を閉ざせば思い出せるのだ。炎で焼かれる痛みも、エルミーゼを罵倒する民の声も。


 そんな地獄を知った自分は――

 再び、彼らを心から愛して献身することができるのだろうか?


 結果、思ったほどわだかまりはなかった。もちろん、前世ほどの素直さもなかったけれど。


 ――彼らは困っていて、自分なら救うことができる。そのための務めを果たすべきだ。

 そう自然と、心の中で思えた。


(悪女を目指しはするんだけれど――)


 目の前で苦しんでいる人間を見殺しにしたいとは思わない。思えない。ひょっとすると、彼らの何人かは未来のエルミーゼを恨むかもしれないけれど。

 それはそれ。これはこれ。


(聖女としての務めは果たさないとね?)


 自分を気持ちを殺さない範囲で。

 今の自分が、聖女の仕事を疎んじなくて本当に良かったとエルミーゼは思う。なぜなら、この仕事が好きだから。誇りに思っていたから。

 だからこそ、前世では己の全てを捨てて献身できたのだ。人々を幸せにして、人々を笑顔にする――そこに喜びを感じる善性まで捨て去ることはできない。


(良かった良かった)


 そんなことを考えているうちに、瘴気払いの準備が整った。

 モーリス大司祭が音頭をとって組み上げた、簡易祭壇が出来上がっている。


「エルミーゼ様。よろしくお願いいたします」


「わかりました」


 エルミーゼが祭壇の前に立つ。

 自分の行いが誰かを幸せにできる。それは素晴らしいことだ。未来を考えると少し憂鬱だけど、そこは考えずに、己の使命を果たそう。

 どうか、誰かの幸せに届きますように。


「はじめます」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る