一度だけ死んだ君

その辺に咲いてる花

一度だけの死

彼女が死んだ。付き合って三年だった。

交通事故だったらしい。だった“らしい”というのは、僕がその現場に居なかったからだ。


「脳への損傷が───」「ほぼ即死だったと思われ───」


医者の声が、乾燥した砂のようにぼろぼろと耳から溢れていく。


「すみません、少しだけ…

少しだけ、二人きりに、させてもらえないでしょうか。」


医者が一礼して出ていく。


足の力がスッと抜けて、膝から彼女の方へ崩れ落ちた。

恐る恐る頬に触れた。無機物を触っているかのような、冷たい感触だけが手のひらに残った。


手に残った冷たさと対立するように、目のあたりが火傷するかのように熱くなった。


止まらない涙を、止められない号哭を、僕にはどうすることもできなかった。


     ○


どのくらい、時間が経ったのだろう。

外はもう暗くなっているようだった。


ふらふらと外に出た。肌を刺すような冷たい空気も、ゆっくりと流れている頭上の雲も、横を通り過ぎる車にさえ苛立った。


ゆっくりとした足取りで家に帰る。

あそこは、彼女との思い出の場所だから。


家に着いて、そのままベッドに飛びこんだ。あぁ、彼女の匂いがする。まるで、抱きしめられているみたいに。でも、冷たい。

また落ち着いたら、遺品も整理しなきゃいけないのか。そんな考えが頭をよぎり、吐き気がした。


彼女は、もう戻ってこない。ベッドの冷たさが、それを証明していた。


昼間の、激しい号哭とはまた違う、静かな嗚咽が室内に響きわたった。どれくらい経った頃だろうか。そのまま、気絶するように眠りに落ちた。


     ○


眩しい朝日に無理やり脳を覚醒させられる。しまった。カーテンを閉めるのを忘れていた。

とりあえず何か食べようと思ったが、胃に粘土でも詰まっているかのように食欲がない。


その時、スマホが鳴った。彼女の母からだった。


ボタンを押し、話そうとした。


声が、出なかった。


何か話さなくてはいけない。今後のこととか、他にも色々。

しかし、どんなに頑張って声を喉から引っ張り出そうとしても、頑なに声は出なかった。


諦めて耳からスマホを離し、メッセージを送る。


『すみません。

声が出なくなってしまったようで。メールでのやり取りでも大丈夫でしょうか?』


『大丈夫よ。

基本的なことはこっちでやるからね。

あなたは今、自分のことで手一杯でしょう?心配しなくてもいいのよ。』


彼女の母は、彼女に似て優しい性格だった。本人を捻じ曲げてしまうくらいに。


実の娘が交通事故だ。胸が引き裂かれるくらいの痛みがあっただろうに、僕のことを気遣ってくれる。


『ありがとうございます。』


メッセージを送信して、そのままスマホの電源を落とす。


部屋にある机に視線が寄る。紙の束が無操作に置かれていた。


彼女が書いていた、物語だった。


バチッと記憶が弾ける。


『ねぇ、なんで小説なんか書いてるの?』


ペンを握りしめ、ずっと紙に向き合ってる君に、僕は疑問を投げかけた。


『死ぬのは、一度だけでいいから。』


その言葉を聞いたとき、僕は理解ができなかった。人って、二回以上死ぬことがあるのか?と。


『ふぅん。そっかぁ。』


気の抜けたような返事をして、僕は手元の本に視線を戻した。これ以上ないくらいに、穏やかな時間だった。


そうだ。彼女は死ぬのは一回だけでいいと言っていた。


慌ててスマホの電源を付けて、調べる。


ある言葉が目に留まった。


『人は、肉体的に一度死に、そして全ての人に忘れられたとき、二度目の死が訪れる。』


そういう、ことだったのか。


彼女が物語を書く理由。それは、誰かに忘れられたくなかったからで。物語を遺すことで、誰かの心の中に居たかったからで。


でも、ここに残された物語は、ここにしかないのだ。僕しか、知らないのだ。


鋭い何かで胸を刺されたような痛みが走った。この痛みはきっと、まだ一度しか死んでいない彼女が残したものだろう。


彼女を、ずっと生かしておきたい。なかったことになんて、させない。


暫く使ってなかったパソコンの電源をつける。


『小説 コンテスト』


一番有名な出版会社を選ぶ。ここで一番を取れるのは、作家にとって最大の名誉だというところ。


一文字一文字、丁寧にパソコンに落としていく。


彼女によって編まれた物語は、常に暖かいような、そんな気がした。


物語が移されていく。その工程を、とても愛おしいと思った。


気がついたら夜になっていて、パソコンの画面には一つの物語が終結していた。淡い月明かりが、雫によって反射していた。


彼女が編んだ物語は、真っ暗な世界を、希望一つで生き抜いていく物語だった。


主人公は馬鹿みたいに明るくて、無理矢理周りを変えてしまう力を持っていた。


表現を変えるつもりはなかった。この言葉の一つ一つが、君の遺した贈り物だと思ったから。


カチッ。コンテストに応募した。


目が悲鳴を上げていた。乾燥してはいなかった。


     ○


数週間後、彼女宛に封筒が届いた。


勝手に開けていいのかという考えが頭をよぎったが、彼女はもうここにはいないことを思い出して少しだけ息が苦しくなった。


この前応募した出版社からだった。


     ○


彼女の物語は、世間をどよめかせた。


物語を読んだ人達が口々に、こんな物語は見たことがない、素晴らしいと称賛した。


本は飛ぶように売れた。紙での本の売り上げが落ちていた中で、異様だと噂になっていた。


次々と重版が決まり、彼女は一躍有名人になった。もう、ここにはいないのに。


彼女の物語が広まっていく姿を見て、なんだか胸がずきずきした。彼女の物語が薄まるような気がした。


どうして広めてしまったんだ。こんなことをしたって、彼女は、帰ってこないのに!


ボロボロと涙が止まらなかった。自分が何故泣いているのかさえ、分からなかった。


胸が痛くて、痛くて、死んでしまうと感じた。


別にいいんじゃないか。彼女を想う人はたくさんいるし、僕が忘れてしまったって。


僕がいなくたって、世界は回るのだから。


足の力が抜けた。重力に従って、僕は床に崩れ落ちた。


泣き叫んだ。声が出るようになったことに視線は向かなかった。


ただ、ただ!


この気持ちをどこに向ければいいのか、まるで分からなくなってしまった。


彼女に会いたい。会って話したい。


そうだ。会いに行けばいいんだ。


僕達は七階に住んでいた。きっとこういうことだろう。


立ち上がった。立ちくらみで目の前が暗くなった。


ふらふらと窓辺に向かった。


紙の束が、無造作に、置かれていた。

彼女の字だった。


貪るように文字をたどった。僕に向けての、手紙のようだった。


書かれたのは、二年前。彼女が、小説を書き始めた時期だった。


涙で紙が滲んでいった。

ところどころ読めなくなってしまった。


『私が小説を書き始めて一週間が経ちました。

私が小説を書いていた理由。それは、

もしも、私が先に死んでしまったとき、あなたに忘れられたくなかったから。


私が先に死んでしまう、なんて絶対ではなかったけど、もしその可能性が一%でもあるなら。


私が居なくなってからあなたが死ぬまで、この物語を読んで私を思い出して欲しかったの。


ただのエゴだって分かってるし、あなたにとっては辛いことなのかもしれない。でも、私はわがままだから。許してね。


他の人に忘れられても構わない。でも、あなただけは、私のこと、少しでも覚えていて。』


忘れられるわけ、無かった。


彼女のことを忘れてまで、会いに行こうとした僕が馬鹿だった。大馬鹿だったんだ。


彼女はこんなにも、僕のことを想ってくれていたのに。


大好きだった。

どうしようもなく、大好きだった。


彼女の言葉は、いつまでも暖かく、心を染めていく。


きっと僕は、彼女が遺してくれた言葉一つで生きていくことが出来るんだ。それって、凄く、幸せなことじゃないか。


そうだろう?

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