第31話 『龍神谷の霞ヶ龍』
隣町は、茶葉が特産品だということくらいしか特徴のない、割と何もない町である。俺たちの住んでいる町が発展しているため、わざわざこの町に住もうと思う人が少ないのかもしれない。ちなみに、一応この町も紗雪の領地の一部であり、依然、軍神信仰の残っている町でもある。
隣町に着くなり、紗雪に頼まれていた茶葉を買った。これで、目的は達せられたので、もう帰っても良かったのだが、南雲が折角だから町を見て回りたいと言ったので、少しの間だけそれに付き合うことにした。
しかし、この町は、さっきも言ったように割と何もない町である。見て回る場所なんて、ほとんどない。だから、俺たちが町で一番大きい軍神の像が飾ってある広場に足を向けたのは自然の成り行きだったのかもしれない。
広場では、吟遊詩人の少女が、子供たちに物語の読み聞かせを行っていた。何となく興味を引かれて、俺たちも遠巻きに吟遊詩人の少女の紡ぐ物語に耳を傾けることにした。
題名は、『龍神谷の霞ヶ龍』。その題名を聞いて、胸の奥が少し痛んだ。
この辺りの地域に住んでいて知らない者はいないほど有名な物語だ。五年前に、実際に起こった事件を元にした物語で、多くの人がその事件を覚えている。
吟遊詩人の少女が口を開くと、それまで騒々しかった子供たちが一斉に口を閉じ、姿勢を正す。
こうして、吟遊詩人の紡ぐ物語は始まった。
『千年前の大災厄の再来。それに匹敵する災厄。龍が龍神谷から現れたとき、人々は皆同じ感想を胸に抱きました。その龍は、天を覆うばかりの大きさで、その威圧は全ての人の膝を折りました。風が乱れ、空は鳴く。海が荒れ、空は割れる。その咆哮は終わりを告げる詩。英雄は現れず、終わりを止める者はいない。誰もが絶望し、軍神に祈りを捧げるのみ。』
吟遊詩人の少女は、一度そこで言葉を切り、辺りを見渡す。ここまでの話を聞くと、確かにどうやってその龍を撃退したのかが気になる。皆、答えを知っているから、大して盛り上がらないが、一応はクライマックスのようだ。
『龍が全てを飲み込まんとした、その時、それまでで最も大きい咆哮を龍が発したと思えば、その姿が忽然と消えたのです。まるで、はじめからそこに何も居なかったかのように。風も海も空も元に戻り、後には、何に対して膝を折り、何に対して絶望していたのか分からない人だけが残りました。しかし、それも一瞬のこと、人々は歓喜に震え、隣人と抱き合いました。そして、皆、口を揃えて言いました。軍神が我々を救ってくださったのだと。』
吟遊詩人の少女が聞き慣れた最後の一節を言い終えると、拍手の音が辺りに満ちた。これで、物語は終わり。何ともあっけなく、消化不良の終わりだ。龍は英雄に倒されるのでもなく、人々の協力で打ち破られるでもない。ただ、理由も分からず忽然と姿を消しただけ。だからこそ、霞ヶ龍と呼ばれているのだ。
再び、胸の奥が少し痛み、頭の奥の方までもがズキリと痛む。頼んでもないのに、記憶を奥の方から掘り起こそうとしてくる。
この場所にいたら、思い出したくないことを思い出してしまうような気がして、俺は足早に広場から去った。
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