第50話 「御家再興」という名の制裁

 明治二年六月三日に生まれたばかりの容保の実子・慶三郎(後の容大かたはる)に、家名相続が許されたのは、同年十一月四日のことである。同時に命じられたのは、本州最果ての地である陸奥国・斗南となみ藩三万石への減封移転だった。

 二十三万石から僅か三万石への減封とは言え、御家再興に胸を膨らませて斗南へと渡っていった藩士とその家族は、実に一万五千人余に及んだという。しかし、抱いていたその夢は、一瞬のうちに打ち砕かれることになった。

 明治三年五月、新潟の港から船で大湊の地に降り立った、藩士と家族を待ち受けていたのは、不毛の寒土でしかない。

 その地は三万石とは名ばかりで、実質の石高は七千石程度だったというから、詐欺も同然の仕打ちと言える。わずか七千石の石高しかない土地で、一万五千人の人々が暮らすことなど、到底適うはずもない。これが実は、薩長を中心とする新政府による、「御家再興」とは名ばかりの第二の制裁の場だったのだ。

 支給される米などはごく僅かなもので、稗粥をすすり山菜を採取し、時には犬の肉を喰らって、飢えを凌ぐ日々だったという。

 更に厳しく長い冬が、容赦なく人々を襲う。雪には慣れているはずの会津人でさえ、強く冷たい北の海風に晒されては、ひと堪りもなかった。

 あてがわれた家も、まともな家屋などは一軒もない。まさに隙間風が吹きつける茅屋ぼうおくでしかないのだ。火を焚き、身を縮めて肩を寄せ合い、歯を食いしばりながら、寒さを凌ぐ日々が長く続いた。 

 このような苛烈な極寒の環境にあって、身体の弱った病人、抵抗力のない老人や子供が、次々と亡くなっていった。そのような弱者をなす術もなく見ている他ない辛さは、想像を絶するものだったに違いない。この時ほど、彼らが新政府という名の薩長を恨んだことは、なかったであろう。

 この斗南藩の権大参事(現代の副知事・知事は幼児の慶三郎)を任されたのが、わずか二十五歳の山川大蔵である。その苦労は筆舌に尽くし難いものであり、自身も妹の咲子(捨松)を函館に里子に出すほどの困窮ぶりだった。

 しかし、この塗炭の苦しみの生活も、一年数か月で終わりを告げることになる。明治四年の廃藩置県に伴い、九月には斗南が弘前に統合されることになったのだ。

 この廃藩置県により、多くの会津藩士とその家族は、失意のまま、次々と斗南の地を離れていくことになる。

 この後、山川大蔵は浩と名を変えて青森県に出仕するが、明治六年に陸軍へと転身することになった。会津戦争の折の戦いぶりに感銘を受けていた、土佐の谷干城たてきが彼を将校に推挙したからだった。

 翌明治七年には、佐川官兵衛や藤田五郎と変名した新選組の斎藤一(山口次郎)が、上京して旧藩士三百人と共に、警視庁に奉職している。

 彼ら三人に共通しているのは、明治十年の西南戦争に従軍していることだ。まさに戊辰戦争の恨みを晴らすのは、この時とばかりに勇んだに違いない。

 佐川官兵衛は一等大警部として従軍したが、三月十八日の阿蘇郡二重峠において薩摩軍と激突中に、三発の銃弾を身体に受け壮絶な戦死を遂げている。

 佐川官兵衛も九年前の鶴ヶ城開城の折に、梶原平馬と同様に、容保の身代わりとなるつもりで、死を覚悟していた一人だった。

 しかし、それも萱野権兵衛が一人その責めを負ったことで、またもや生き長らえてしまったために、死に場所を求めていたのかもしれない。その死に場所がみつかったうえに、戦う敵が薩摩の西郷隆盛とあっては、願ってもない相手だと思ったことだろう。

 一方の山川は、軍の参謀として従軍していたが、熊本城に恩人の谷干城が籠城しており、落城の危機にあると知るや、軍令を無視した行動を取っていた。自ら選抜隊を率いて戦火を潜り抜け城内に突入し、みごと救出部隊第一号となる華々しい戦果を挙げているのだ。

 もっとも、山川はこの時に軍令違反として譴責を受けている。

 その時の上官が長州藩出身で、第二旅団長の山田顕義であった。戦後も長州閥に嫌われた山川は、軍人としては少将で終わったが、文部大臣・森有礼の推薦で、東京高等師範学校(現・筑波大学)や女子高等師範学校(現・お茶の水大学)の校長を兼務し、貴族院議員にも勅選されるという華々しい人生を送ることになった。

 佐川や山川とは対照的に、歴史の表舞台から見事なまでに綺麗に、消え去ったのが梶原平馬である。敗戦の後に、容保と共に鳥取藩に幽閉の身となった平馬だったが、罰を赦された後は、萱野権兵衛との約束に従い、山川大蔵と共に家名相続に奔走した。

 斗南藩移封が決まった後も、藩士移住に当たっての資金調達にも尽力したが、その後の藩の要職に就くことは固辞し、あくまでも一藩士として上市川村で過ごしている。

 廃藩置県の後は梶原景雄と変名し、一時青森県庁庶務課長に就任するも、間もなく退職し、妻の貞と伴に東京、函館、根室へと移住した末に四十七歳で、その生涯を静かに閉じていた。

 二十年程前に、梶原平馬の墓が根室市にあることを知った筆者が、一度、その市営墓地を訪れて、合掌したことがある。会津藩筆頭家老として腕を振るった人物の墓としては、あまりにも慎ましく質素に感じたことを記憶している。彼の後半生は、敗戦の責任を一身に背負い、悔悟と懺悔の日々だったのではないだろうか。その生き様が、墓石にまで表れているようで、根室の街の空に広がる曇り空と併せて、何とも言えない寂寥感にさいなまれたことが、今も鮮明に甦ってくる。

 本書の結びの前に、やはり松平容保の晩年に触れなければならない。

 明治九年(1876年)十一月一日、従五位に叙位され、この時が容保にとって、真の名誉回復の時であった。その後、日光東照宮宮司、上野東照宮祀官、二荒山神社宮司などを兼務し、最終的には正三位に昇叙し、明治二十六年十二月五日、五十九年の人生を全うした。

 実兄である旧尾張藩主の徳川慶勝から、尾張徳川家相続の話を持ち掛けられた時も、戊辰の役で苦しませた会津藩の人々を差し置いて、自分だけが他家を継ぐなど到底できない、と断っている。時代が移り変わっても、容保の誠実さを端的に表す話だ。

 明治十三年、日光東照宮の宮司として就任した時には、意外な人物との再会を果たしてもいた。

 それは戊辰戦争の真只中、容保の激昂を買って事実上追放された西郷頼母との再会だった。頼母は追放された後に箱館にわたり、子の吉十郎と共に最後まで戦うことを選択していた。その頼母が東照宮の禰宜として奉職してきたのだ。

 立場は違えども、再び主従の関係となった二人の心情はどうだったのか。それは二人だけにしか分からないことであり、その機微に立ち入るような邪推は遠慮したい。ただ、変革と戦乱の渦に巻き込まれ、翻弄され続けた中で、擦れ違い離れ離れになってしまった二人の心が、歳月の経過と共に、わだかまりが解けた再会だったことを願わずにはいられない。

 

(第五十一話=最終話『結び』に続く)

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