第47話 鶴ヶ城四面楚歌

 二十九日の長命寺決戦で大敗して以降、小田山からの砲撃は日々強まる一方である。五層の大天守閣にも、被弾する日々が続き、容保・喜徳父子も、居住を黒金門へと移動するしかなかった。

 黒金門は天守閣より南に位置し、扉から柱までもが全て鉄で覆われている頑丈な門である。しかも小田山からは死角に当たる場所に位置していることから、城内では比較的安全な場所でもあった。

 しかし、それ以外の城内は凄惨を極めた。毎日の被弾によって、城の至る所が穴だらけで崩れ落ちている箇所も数え切れない。榴弾の破裂で命を落とす者も、一人や二人ではなかった。その犠牲者の一人が山川大蔵の妻であるトセである。

 最初は被弾するたびに、甲高い絶望的な叫び声が方々で上がっていたが、慣れとは恐ろしいものである。血痕が生々しく残り、肉塊が飛散するその中をものともせずに、城内の婦女子は死を覚悟しながら、看護や手当そして炊き出しにと、まさに大車輪の活躍だった。

 それでも、負傷者は毎日増え続ける一方で、薬はおろか包帯にする白布すら欠乏する窮状は、日に日に深刻となっていく。

 その惨状を見かねた照姫が、奥女中に指示することしばしばであった。

「私の着物を出来る限り沢山、持って参るのです」

「はい、それをどうなさるのですか」

 最初に言われた奥女中は、その意図を測りかねている。

「我が藩のために傷ついた人たちを、見て見ぬふりは出来ません。着物を解いて包帯代わりにして貰うのです。また、夜具が不足していれば、夜具代わりにもなるでしょう。とにかく、沢山お持ちなさい」

「しかしながら、照姫様の貴重なお召し物を、包帯や夜具にするなど、勿体なきことでございます」

「何が勿体ないというのです。我が藩の名誉のために戦い、負傷した人たちの命に比べれば、私の着物などどうでもよいではありませんか。とにかく、言う通りにしなさい」

 万事この調子だったから、城外の戦況悪化とは対照的に、城内の婦女子の士気は益々高まる一方であったという。

 しかし、こうしている間にも、着実に鶴ヶ城の包囲網は狭められていく。米沢藩の降伏によって、薩長軍としては、北から背後を襲われる脅威が消失したうえに、九月五日には、日光口から進んできた薩摩藩の中村半次郎(桐野利秋)が城南に陣取ったことで、包囲網はほぼ完成していた。

 この年の九月は四月の閏月もあったために、陽暦では十一月に当たる。朝夕の寒さが堪える時期となっているうえに、食料も徐々に底を突きつつある中、九月十六日に二つの絶望的な報せが、ほぼ同時に舞い込んできた。

 つい二日前には、敵の総攻撃によって、数千発の砲弾が鶴ヶ城にむけて撃ち込まれており、既に犠牲者と怪我人の数は数えきれない程に膨らんでいる中での報せである。

 その報せの一つ目は、昨日仙台藩も遂に降伏したということであり、もう一つは越後口総督であった一瀬要人かなめが、徳久村の戦いで敵の銃弾を受けて瀕死の状態にある、とのことだった。一瀬は越後から撤退後、入城する機会を逸したために、糧道確保のために城南で一軍を率いて戦っていたが、この指揮官の離脱は、鶴ヶ城の完全孤立が進むことを意味していた。

 この二つの報せは、梶原平馬と山川大蔵の戦闘意欲を完膚なきまでへし折るほど、決定的な痛撃であった。こうなった以上は、速やかに降伏し、これ以上無駄な犠牲を増やさないことしかない。

 二人は容保・喜徳父子に対し、もはや降伏の途しかないことを訴えた。

 二人の話を黙して聴いていた容保だったが、話が止むと目を瞑り、そのまま上を見上げた。眉間には皺が寄り、必死に涙を堪えているのだ、ということが分った。

 その無念さは誰よりも強いはずだった。

『全てを投げ打って朝廷と幕府に尽くしてきた自分や藩士たちが、何故に朝敵の汚名を着せられて、このような思いをさせられなければならないのか。大事な家臣や家族まで犠牲して戦ってきた結果が、このような屈辱でしかないのか。この世には、正義に味方する神はいないのか』

 容保の心の慟哭どうこくが止むことはなかった。それでも現実から目を逸らさず、前に進まなければならない。それが如何なるいばらの道であったとしても、である。

 容保は目を見開いて、坐して答えを待つ平馬と大蔵という二人の家老に、一言端的に告げた。

「わかった。進めよ」

「ははっ、では直ちに、手代木直右衛門殿と秋月梯次郎殿に米沢に向かって頂きます」

 米沢藩は降伏の後も、引き続き水面下で会津藩救済の途を探ってくれていた。不本意ながら薩長の軍門に降ったことを詫びつつも、もし會津藩が降伏する場合は、薩長との仲介の労を惜しまぬ旨の書状を、秘かに平馬宛に届けていたのだ。

 手代木と秋月は、昼夜を惜しんで会津と米沢を往復し、その足で訪れたのが土佐藩参謀・板垣退助の陣中だった。

 米沢藩では、板垣への紹介状を差し出してくれていた。

 板垣退助はこれまで常に先鋒として、會津藩、そして同盟軍との戦いを全うしてきた者の最たる司令官ながら、その心中は會津藩に対して同情を寄せる一人でもある。

『この不毛な争いを、ようやく終えることが出来る』

 板垣に否という返事があるはずもなかった。

 九月二十日、容保は家臣を黒金門に集めて、直接決意を語った。

「ここまで、よくぞ戦ってくれた。皆の忠義にあらためて礼を言う。知っての通り、城は完全に攻囲されてしまっている。弾薬・食糧も尽きようとしている今日、もう手の打ちようがない。つい先日だが、米沢に次いで仙台も降伏したとの報せを受け、われらが勝利する道は完全に断たれた。これ以上、死傷者を増やし、皆を苦しませることは出来ぬ。無念極まりないが、予は降伏することにした。全ては予の不徳の致すところであり、皆には心から詫びを言う。予は如何なる処罰をも受け入れる覚悟だ」

 この容保の敗北宣言に涙しない者は一人としていない。皆の嗚咽と慟哭が一斉に響き渡った。

「御老公、我らはまだ戦えます。戦いましょう」

 その声の主は、新選組の山口次郎だった。既に山口の気持ちは、會津藩士そのものである。

「戦いましょう」

「そうだ、我らは最後の一人となっても戦う」

 方々から声が上がった。

「待ってくれ」

 この時、声を上げたのが山川大蔵だった。

「気持ちは御老公も、皆と同じだ。いや、その気持ちが一番強いのは御老公なのだ。しかし、勝利する見込みが途絶えた以上、我を通して、これ以上皆を不幸には出来ないという御老公のお気持ちをどうか察して欲しい」

 大蔵も涙ながらに訴えたが、そう簡単に収まるものではない。

「しかし、ここで降伏すれば、我らの戦いは無駄だったということになる。いや、我らが間違っていたというようなものではないか。これでは、戦って死んでいった者たちが浮かばれぬ」

「同感だ。我らの戦いは、薩長の如き君側の奸を排除する正義の戦いであったはず。会津城下で、それを知らぬ者はおらぬ。奴らは無辜の民を殺し、財を奪い、婦女を姦すという、卑劣極まりない輩ではないか。そのような輩に屈するならば死んだ方がましだ」

 全ての声は正論だった。誰も間違ってはいない。しかし、これを収めるのは自分しかいない。梶原平馬は立ち上がった。

「その通りだ。皆の言うことは正しい。そして、我らは誰一人として間違ったことはしていないという矜持がある。苦しく悲しい日々も乗り越え、今日まで戦ってきたのは、御老公の無念を晴らし、藩の名誉回復のためだ。しかし、我らは負けた、完敗だ。こうなった以上は、武士らしく潔く負けを認めようではないか。全ての責任は我ら藩の重臣にある。皆にはこれからも會津藩士として誇りを持って生きて欲しい。それが死んでいった者たちの一番の供養になるとは思わぬか。もう一度言う、一番無念で辛いのは御老公なのだ」

 もう、この平馬の言葉に異議を挟む者はいなかった。再び、黒金門内に嗚咽と慟哭の輪が広がった。


(第四十八話『會津魂の終焉』に続く)

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