第43話 西郷家の受難
白虎隊の自刃より、時間は少しだけ遡る。
二十三日朝、戸の口原で敗れた會津藩兵が続々と雪崩れ込むように、滝沢村を通り過ぎて城下へと退却していく。
容保は滝沢本陣・横山邸にあって、馬上から彼らの奮闘を労い続けた。いつ敵が攻めて来てもおかしくない刻限になっても、容保は粘った。今自分に出来ることは、一人でも多くの藩兵に声をかけ、激励することだった。
その姿に驚いたのが、
「御老公、既にこの滝沢も危のうございます。直ぐに城にお戻りください」
「しかし、まだ引き上げて来る藩士がいるではないか。それを見過ごして、おめおめと帰城することなど、予には出来ぬ」
こうなると頑固な容保だった。官兵衛は心配そうに見つめる容保の馬役・野村源次郎に目で合図を送った。
「御免」
その合図の意味を理解した野村は一言発し、馬の尻を小刀で打った。驚いた馬がどんどん遠ざかるのを見て安堵した官兵衛は、容保の警護に当たっていた士中白虎一番中隊全員に対して、速やかな帰城を命じた。
「ここは危ない。お前たちも直ちに退却し、城の守りを固め、殿や御老公をお守りせよ」
官兵衛の言葉に偽りはなかった。薩長軍が滝沢村に進軍してきたのは、これよりわずかに一時間足らず後でしかなかった。
この時、果敢にも決死の覚悟で、薩長軍に立ち向かっていった一団があった。国産奉行である河原善左衛門とその一族三十人余である。
善左衛門は、敵が滝沢村を突破すれば、いよいよ城下侵入も時間の問題と判断し、少しでも避難の時間を稼ごうと、村の八幡神社前に立ち塞がったのだ。
しかし、武器は刀と弓矢、そして槍のみであり、敵の銃劇に敵うはずもない。忽ち、長男の勝太郎や弟の岩次郎と共に、全身に銃弾を浴びて斃れるしかなかった。
一方、佐川官兵衛の機転で滝沢村を離れた容保は、そのまま馬を走らせ滝沢村から鶴ヶ城に戻る途中、米沢街道との分岐点にある
「敵はすぐそこまで迫っている。ここにいては全員玉砕も免れぬ。これまでよく尽くしてくれた。礼を言う。皆は米沢・仙台に拠って再起を図るのだ」
容保の弟に対する精一杯の思いやりだった。しかし、弟・定敬は首を横に振り拒んだ。
「嫌でございます。かくなる上は、兄弟ともに籠城のうえ、薩長軍に一矢報いましょう」
「駄目だ。予は前・会津藩の主として、最後まで戦いを全うしなければならないが、皆は違う。それに、卿をここで死なせるわけにはいかぬ。さらばじゃ」
こう言うと、すぐさま容保は馬首を返し、これ以上の問答は無用とばかりに、駆け去ってしまった。この兄・容保の優しさが、定敬には痛いほど理解出来た。
「如何なさるので。城に参りましょうか」
立見艦三郎の問いかけに、定敬は首を横に振った。
「いや、兄の言うことに従う。米沢に参ろう」
定敬は兄が駆け去った南の方に目を向けながら、立見に伝えていた。
会津の城下に半鐘が鳴り響いたのは、八月二十三日午後二時より少し前のことだった。薩長軍来襲の報せである。それまでに戦況悪化を知らされていない婦女子や民にとっては、まさに不意打ちであり、城下は混乱の極みとなった。
残念ながらこの時においても、藩・重臣の危機管理能力の欠如が、露呈してしまっている。梶原平馬が戦況に気を取られて頭が回らないとすれば、当然の役回りとして他の老臣が手配して、予め疎開の準備を指令すべきであるにも関わらず、それさえも怠ってしまっていた。
会津藩では、国境線を突破された時の対応はおろか、籠城戦になった場合の想定も全くなされていなかったのだ。平馬を筆頭として、少なくとも藩の重臣たちは、既に、士魂という意気込みや精神論はおろか、家訓という抽象的な道徳的観念などで、近代戦を凌ぐことは到底不可能であることくらい、痛いほど分っていたはずだ。
それにも関わらず、藩の重臣たちは、右往左往するばかりで「万が一の場合」の想定に頭が回らず、その結果として城下の怪我人や老人、そして婦女子や民までも、追い詰めてしまう羽目になってしまったのだ。
もちろん、会津藩の滅亡が現実のものとなってしまった絶望感が、多くの人たちを自裁への道に駆り立てたのかもしれない。
しかしながら、半鐘をもっと早く鳴らして避難を呼びかけていたら、この犠牲者はここまで多くはなかったはず、とつくづく悔やまれてならない。八月二十三日だけで、なんと二百三十人もの城下の怪我人・老人・婦女子が、自らの手で命を散らしてしまっているのである。
この時、城下に残されていた藩士の一族である老人や婦女子の対応は、実に様々であった。その対応は大きく分けて、三つに分類される。入城して最後まで戦うことを決めた者、自ら自刃の道を選んだ者、混乱のために入城が叶わず諦めて自刃した者、である。
自刃を選んだ者たちの考えは、あまりにも健気で、壮絶であった。
城に入れば、それだけ食い扶持がなくなるし、迷惑は掛けたくない。屋敷に残っていれば敵に恥辱を受けてしまう恐れがある。それならば家名を汚さぬよう潔く自裁して果てよう、という何とも悲壮感に満ちた決心でしかなかった。
その代表例が西郷邸における二十一人もの集団自決である。
西郷頼母の妻・千恵子は飯沼家の出で、飯沼時衛の妹、白虎隊・飯沼貞吉の叔母に当たる。前日、夫と長子の吉十郎を送り出した段階で、千恵子は既に覚悟を決めていた。母成峠が突破された以上、敵が城下に押し寄せるのは時間の問題だと分かっている。
夫・頼母は主君の逆鱗に触れ追放されたのであって、これからの行動の実は逃亡であることを明かされており、その時既に、夫と息子とは今生の別れだと思っていた。
『夫の不始末を知りながら、どの顔をして入城出来ようか』
会津藩の名門であり代々家老職にある西郷家の屋敷は、城と目と鼻の先にあり、城内に入ること自体は、いとも簡単である。
しかし、千恵子は近隣の入城を促す声にも耳を貸すことなく、半鐘が繰り返し聞こえる中、一族全員にその決意を告げていた。
「もう敵はすぐそこまで迫ってきております。我ら西郷家の残された者は、お城に入ることはいたしません。私たちが入城しても、御家の役に立つほどの働きも出来ずに、いたずらに大事な食糧を浪費するだけです。もし、生きてここに留まれば、乱暴されたうえに恥辱を受けることは必定です。もしも、そのような辱しめを受ければ、ご先祖様に対して申し開きようがありません。ここは西郷家の名を汚さぬためにも、全員で黄泉の国に旅立とうと決めました」
この千恵子の決定に、誰一人として異論を挟む者はいなかった。
全員が白装束に着替え、屏風を逆さまに立てて、次々と喉を突いていく。不憫なのは頼母と千恵子の間に生まれた五人の娘だった。長女・
何も分からない季子は、無邪気に母・千恵子に訊ねた。
「
「これからみんな一緒に、遠いところに行くことになりました。季子も母さまと一緒に参りましょうね」
「そこは楽しいところですか」
「母さまも行ったことがないのです。でも、きっと楽しい所ですよ」
こう言いながら、千恵子は次々と田鶴子、常盤子、季子という愛おしい三人の子供たちを手にかけて、すぐさま自分も喉を突いて後を追って逝った。
長女の細布子と次女の瀑子は、向かい合い、手を取り合いながら一緒に参ろうと、互いの胸を刺した。しかし、この時、思わぬ災難が細布子を襲う。瀑子は、現代でいうところの小学六年生でしかない。細布子の胸を貫いて絶命させる程の力がなく、ただ一人死にきれずに苦しむことになってしまったのだ。
その修羅場に姿を現したのが、先鋒隊として城下に突入してきた薩摩藩士・川島信行である。
その門構えからも、何やら立派な上士の屋敷らしいことは察しがついた。もしも、中に敵が隠れていたならば、不意打ちを食らう危険がある。意を決した川島は、屋敷内を検めに入ることにした。注意深く玄関から書院を通り、奥の部屋に辿り着くと、なんとそこは既に血の海と化しているではないか。
数多くの老若男女が折り重なるように斃れている中に、年の頃なら十五六といったところであろうか、一人の娘が死に切れずに苦しんでいる姿を川島は発見した。
「敵、それても味方」
その娘の必死に捻り出した、か細い声を何とか聞き取った川島は、思いがけない言葉で応えていた。
「安心しろ。味方だ」
不憫な娘を思っての咄嗟の判断だった。
すると、その娘は血に塗れた小刀を、自分の目の前に差し出すではないか。介錯を頼まれたことを確信した川島は、その娘にとどめを刺し、その身体を静かに横たえた。その娘の顔から、ようやく苦悶の表情が消えていくのが分った。
『何故、このように
川島は心の中でそう叫び、息を引き取った娘の遺体に手を合わせ、冥福を祈った。
こうして、西郷家では頼母の母・律子五十八歳や妹二人を含む、親戚合計二十一人が自ら命を絶つという、戊辰戦争の中で最も象徴的な悲劇を生んでしまった。
(第四十四話『會津女士の矜持』に続く)
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