第40話 潰走、母成峠

「急がねばなりませんな。これでは戦が終わらないまま、冬に突入してしまいますぞ」

 板垣退助は二本松城下の色づき始めた秋の木々に、目をやりながら話しかけた。その相手は伊地知正治である。

 既に八月も十九日を迎えて、秋も日一日と深さを増してきている。一昨日は仙台と米沢の助勢を得て二本松城奪還に動いた、藩兵の残党を駆逐したばかりである。前月の戦火で傷ついた城下の回復には、かなりの時間を要することであろう。

 伊地知は、幼い頃に大病を患い、そのせいで片目片足が不自由であり、床几に腰掛けたまま応えた。

「それには同感です。雪に降られてしまうと、我ら南国の者には不利。しかも寒さで手がかじかんでしまえば、銃の命中度にも影響を及ぼすことは必定」

 伊地知も同じ心配をしている。板垣は土佐藩、伊地知は薩摩藩であり、藩を代表する参謀として戦果を競い合う仲でもある。

 長州藩の大村益次郎が当初立案した、仙台と米沢を攻略した後で、會津を攻め落とすという余裕は既になくなっていることは、両者が一致した考えだった。

「こうなれば、本丸である会津攻めに絞る他ないと存ずるが如何でしょうか」

 板垣の発言に、伊地知は即答した。

「異論有りません。直ぐにでも会津討伐にかかりましょう」

「問題はどこから攻め上がるかです。ここは一旦、白河に引き返し、勢至堂口から猪苗代湖の西側を通り、会津に入るのが上策と心得ますが」

 こう述べた板垣案に対する伊地知の考えは、全く異なるものだった。

「それは如何なものでしょうか。勢至堂口は敵が最も厳重警戒している場所で、守りも固いはず。そのような所で苦戦を強いられれば、他のところから増援が来て、会津への侵攻がいつになるか計り知れませんぞ」

「なれば、伊地知殿の策を伺おう」

「本宮から石筵いしむしろ口を進み、手薄の母成ぼなり峠を突破するのが上策でしょう」

「しかし、母成峠は険路なうえに、下山後は猪苗代城からの激しい抵抗が予想されます。その間に日橋川にかかる十六橋を落とされてしまえば、会津への道は閉ざされた、も同然と心得ます。勢至堂口の防備が固いというのであれば、御霊櫃ごれいびつ峠から勢至堂口の裏手に回れば、猪苗代湖の西側に通じますぞ」

 それでも、伊地知は自分の策を曲げようとしない。

「ここ二本松から石筵口は最短で、多少の険路は皆覚悟のうえ。それに石筵口は戦国の世に、伊達政宗公が葦名氏を滅ぼした折に通過した、縁起のよい経路と心得る」

 こうなると両者の意地が交錯して、お互いに一歩たりとも譲る様子はない。

「ならば、軍を二手に分けて、それぞれの口から攻め上がっては如何であろうか」

 そのようなことは愚策でしかないのは、板垣自身が一番分かっているが、そうでも言わなければ進展しない勢いである。

 この二人の険悪になりかけた様子を心配し、仲裁役として分け入ったのが、長州藩の百村発蔵だった。

「板垣殿、ここは如何であろうか。年長の伊地知殿を立てて、その策に従うということで折れては頂けぬものか」

 伊地知は板垣の九歳年長であることは知っていた。百村自身、格別の策もない凡人である。ただ、やはりこうなると薩長なのだ。土佐藩である自分の策が通りにくいことは、これまでも身に染みて感じていることだった。

 仕方なく、板垣は伊地知の策に従うことにした。しかし、一言付け加えるのを忘れてはいなかった。

「此度は、お二人に従うことといたしましょう。しかし、もしこの策が失敗した場合は、お二人に責任を取って頂く。くれぐれもお忘れなきよう」

「もとより、それは承知のうえ」

 腹が据わった伊地知の態度とは裏腹に、百村の目が左右に落ち着かず動く様子を、板垣は見逃さなかった。

 持論を取り下げたとは言え、一旦決めた以上は、成功に向けて万難を排するしかない。板垣は画策した。それは、中山口から攻め入る、という噂を会津側に向けて流布喧伝させるという手口である。

 會津藩が、勢至堂口に次いで、多くの兵をつぎ込んで防備を固めているのが、中山口であることを、予め知ったうえでの陽動作戦だった。


「おいおい、何だ、この音は。敵の大砲の音だぜ」

 第三台場の土方歳三は、霧の向こうから聞こえる大砲の音と銃声に耳を澄ませた。新選組・土方は、去る宇都宮城攻防戦で負傷した足の指もようやく治癒し、斎藤一から変名した山口次郎とともに、母成峠の戦線に復帰したばかりである。

「大鳥さんの話では、敵が向かうのは中山峠のはずでしたが」

 さすがに山口次郎も同様を隠せない。

「大鳥さんのことだ。さては、薩長に偽の情報を掴まされたに違いない」

 土方は咄嗟に状況を悟った。

 八月二十一日午前九時のことである。

 大鳥圭介は今市での戦いに敗れたものの、山川大蔵との共同戦線で、会津西街道の田島から一歩も北上を許さず、この母成峠に転戦してきていた。

 前日も、中山口からの侵入を試みる薩長軍に対して先制攻撃を加えようと、旧伝習隊の一部を本宮近くまで派遣していた。ところが、進軍中の薩長軍と遭遇したために、會津軍との共闘で痛撃を加えようと試みるも、忽ち乱戦となり被害を最小限に食い止めながら、撤収してきたばかりだった。

 その敵軍がまさか中山峠を避けて、母成峠に矛先を向けて来るとは、思ってもみないことだった。

 大鳥の心意気はなかなかのものだが、学者肌でもあり、実戦では詰めが甘いところがある。その意味では、薩長軍の方が一枚も二枚も上手であった。

「斎藤、ここは間違いなく破られる。城と御老公(容保)が危ない。山を下りて磐梯山を迂回し、お前たちは城に戻れ。御老公に恩返し出来るのは、ここではない。今は手薄となっている城に戻ることが一番大事だ」

 土方だけは山口とは呼ばず、新選組時代の「斎藤」で呼び続けた。

「土方さんはどうするので」

「俺は途中で別れて北に向かう。こうなれば、米沢と庄内に援軍を頼みに行くしかない。新選組の土方が来た、と言えばむげには断れまい。殿には宜しくお伝えしてくれ」

 勘の鋭い山口は、土方の意図をすぐ理解した。米沢・庄内からの援軍が南下すれば、薩長軍が城を攻囲したとしても、城内と外から敵を挟撃出来る。

 土方は、一介の浪人集団でしかなかった自分たちを、京で取り立ててくれた主君・松平容保に対して、並々ならぬ恩義を感じている。容保から直々に下賜された名刀・和泉守兼定は、命の次に大事なものと言ってはばからない程である。盟友の近藤勇亡き今となっては、土方の忠義心が、會津藩士以上の想いで容保に注がれている、と言っても決して過言ではなかった。

 因みに土方歳三辞世の句と伝わる『たとい身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂はをまもらん』の「東の君」は誰かという論争がある。

 あくまでも、筆者の想像でしかないが、これは徳川慶喜や死んだ近藤勇ではなく、希望も含めて松平容保だったと信じる一人である。

 さて、このような経緯から、土方以下、新選組一行は第三台場の持ち場を離れて山を下ることにした。

「承知しました。では直ぐに引き上げましょう」

「待て、何処へ行く」

 途中で一人の會津藩士に誰何すいかされた。

「我ら新選組の十人程度がいなくても戦況に変わりあるまい。何より、この状況を城に報せる必要があろう」

 土方の一言に威圧されたその藩士は、すごすごと引き下がるしかなかった。

 新選組隊士が会津・鶴ヶ城への帰還を決めた頃、既に萩岡の第一台場は突破され、八幡前で激しい戦闘が繰り広げられていた。

 しかし、薩長軍の二千二百に対して、會津と旧幕軍を中心とする同盟軍は、わずかに八百と分が悪すぎる。おまけに薩長軍は二十の大砲を投入する等、銃火器の性能の差は、埋められるはずもなく、じりじりと後退を余儀なくされる一方であった。

 やがて、大砲の猛攻により第二台場も炎上し、ついに最後の砦は母成峠の第三台場となるが、ここで旧伝習隊率いる大鳥圭介が意地を見せる。

 大鳥は大砲五門を駆使して、下から攻撃して来る薩長軍を迎え撃ち、更に隊士の果敢な銃撃が効を奏して、峠の突破を拒み続けた。

「怯むな、撃て、撃て。この母成峠が破られれば、會津の滅亡は避けられぬ。絶対に突破されてはならぬ」

 大鳥の叱咤で旧伝習隊士と一部の會津藩兵は、執拗に攻撃を続けた。

 しかし、この抵抗もここまでだった。膠着状態を打破しようと、板垣退助率いる別動隊が第三台場を迂回し、背後から攻撃を仕掛けたのである。

 こうなると同盟軍は、もう堪えようがなかった。まさか背後を襲われるとは思いもしない大鳥である。残された途は、方々に散って逃げるだけだった。

 こうして、母成峠の戦いは、およそ七時間の奮戦も虚しく、薩長軍の大勝利で終焉を迎えた。薩長軍も早朝からの険路行軍と戦闘で、体力の限界が近づいている。翌早朝の進軍を決めてこの日は野営と決定した。


(第四十一話『十六橋突破』に続く)

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