第39話 裏切りの連鎖と二本松の悲劇

 新潟港が薩長軍によって奪われたのは、新発田藩の裏切りによるところが大きいことは既に触れた通りである。しかし、列藩同盟の中には、それよりも一足早く裏切った藩があった。

 それが秋田藩であり、本庄、天童藩、それに三春藩五万石である。

 七月十六日、この日は會津・仙台の両藩に二本松と棚倉、それに三春の藩兵が加わり、棚倉城奪還のために浅川村から進撃を開始した日である。事件が起きたのは、浅川の渡しにおいてであった。

 味方であるはずの三春藩が、突如として他の四藩兵に銃口を向けて、発砲してきたのだ。突然の出来事に他の四藩は、戸惑いながらも後退し弾丸を回避するしかない。無論、こうなると棚倉城攻めどころではない。各藩兵に死傷者を出しながら、悔しさを押し殺して後退せざるを得ないという、散々な結果になってしまった。

 十日後、三春藩は日光口から転戦してきた土佐藩の板垣退助を城下に迎えて、正式に降伏し會津攻めの先鋒を買って出た。これが今も語り継がれる「三春の裏切り」である。

 戦況が芳しくない同盟軍の中で、離脱するのは同盟の成り立ちから言って、仕方のないことかもしれない。しかしながら、途中まで行軍を共にしながら、味方と思っている軍に対して、突如として銃口を向けて発砲するという手口には、どうしても納得出来ない。思い浮かぶのは『卑怯』の二文字だけである。

 三春藩は、そこまで行わなければならない程、果たして薩長軍にこびへつらう必要があったのか。確かに、三春藩は戊辰戦争終結後に行われた同盟列藩の減封から免れ、五万石を維持している。郷土の地を戦火から守り抜いた、ある意味では大変賢明な判断なのかもしれない。

 しかし、降伏することと、つい先ほどまで味方だった軍を騙して銃口を向けることを、同じ尺度で計り論じることは出来ない。廃藩置県が実施される前のわずかな歳月の石高維持と引き換えに、現代にいたる後世にまでも、「裏切り」の汚名を残してしまったことは大きな代償を払ってしまったように思えてならない。

 この三春藩の裏切りによって、突然の大きな危機に直面することになったのが、隣の二本松藩だった。

 しかし、二本松藩の判断は、三春藩とは実に対照的であり、その結果はあまりにも壮絶で、筆舌に尽くし難いものである。

 二本松藩の運命は、七月二十七日夜の重臣会議において最終的に決定がなされた。既に三春藩が薩長の軍門に降ったことは周知の事実であり、早ければ明日にでも、二本松に進軍して来る、と思われていた時である。藩主である丹羽長国は病床にあり、全てはこの会議における決定に、藩の命運が託されていた。

「三春が敵に回った以上は、もう勝ち目はない。我らも敵に降ろうではないか」

 ある者はこう主張し、またある者は次のように言った。

「しかし、敵に降ったら、今は良いかもしれないが、裏切り者の烙印らくいんを押され、いずれ奥州の他藩に攻め滅ぼされるのではないか」

 藩の命運がかかっているだけに、喧々諤々けんけんがくがくの大論争になった。この論争に終止符を打ったのが、丹羽一学・四十六歳、初老の家老だった。

「皆は三春藩のことをどう思っているのか。人としてあるまじき手段に出た、と先ほどまで怒り恨んでいたのではなかったのか。もし、我らも同盟する他藩を裏切り、三春と同じ道を歩めば、後の人は何というであろうか。少なくとも、二本松に生まれ育つ者は皆、一生肩身の狭い思いをして生きていくことになるとは思わぬか。同盟に残っても滅亡、私利私欲で幕府を倒した薩長に降ってもまた滅亡、というのであれば、我らは同盟の信義を貫き、潔く散ろうとは思う。今こそ、薩長如き奸賊に対して一泡吹かし、二本松武士の心意気を天下に示そうではないか」

 この一言に同意者が相次ぎ、藩論は一挙に徹底抗戦へと舵を切ることになった。

 とは言え、藩の主力部隊は各地を転戦しており、兵力不足は戦う以前からはっきりしている。城下に残っているのは、老兵や農兵、少年兵が中心であり、しかも銃器は旧式の大砲と火縄銃が殆どという有様である。最初から負けることを覚悟した辛い決断に違いなかった。

 家臣団はこの決定を、藩主・丹羽長国に報告するために病床を訪ねた。

「殿、つきましては、米沢にお移り頂くことになりました」

 家老である丹羽一学の言葉に、藩主・長国はあらがった。

「それはならぬ。家臣一同が二本松を守り戦い貫こうという時に、藩主である予一人が他藩に逃れたとあっては示しがつかぬ。皆が死ぬ時は、予も死ぬ時である」

「殿のお気持は重々承知のうえで、申し上げております。殿に生き延びて頂いてこその我が藩でございます。我らが皆玉砕したとしても、殿お一人がご存命でさえあれば、二本松藩はこれからも生き続けることが出来ます。これは我らの残された一族のためでもあるのです」

 一学がこう説得しても、長国は首を楯に振る様子はない。

「予はこの通り、病床に臥せており、そう長くはなかろう。それならば、皆とともに城を枕に、討ち死にさせてはくれぬか」

「殿、そのお気持ちだけで、我らはもう充分でございます。そのお気持ちを胸に、恥ずかしくない戦いを、敵に挑むつもりです。ですから、どうか、どうか我らの願いをお聞き届けくださいませ。切に、切にお願い申し上げます」

 一学以下、家臣団で涙を浮かべていない者はいない。さすがの長国も、必死の説得に折れざるを得なかった。

 翌七月二十八日、二本松から北へと向かう一団があった。藩主・丹羽長国が米沢へと向かう一行だった。

 この日、進軍して来ると思われた、板垣退助率いる敵の先鋒が、二本松に姿を現すことはなかった。板垣は三春と同様に降伏してくることを期待して、一日の猶予期間を設けたのである。

 二本松藩では、この一日の猶予で、大きく運命を変えた人々がいた。

 先ず、各地を転戦していた、遊撃隊長・大谷志摩をはじめとする主力の一部が、帰還してきたことだった。彼らは疲労困憊の極みにありながら、限られた時間の中で、何とか防衛網の構築を図ろうと、寝る間も惜しんで奮闘し続けた。

 また、この時二本松藩は、少年兵の「入り年」という制度を活用して、十三歳から十七歳までの少年兵六十二名も、軍編成に組み入れている。

「入り年」とは非常時に限っては、二歳まで年齢をさば読んでも黙認する、という二本松藩独自の制度である。その結果として、藩が兵籍を十五歳から許可したために、数え年で十三歳という少年までもが、戦闘に駆り出され、ここに悲劇が生まれる基を、藩自らが創出してしまっていた。

 翌二十九日、朝霧の中を進み、薩長軍は二本松攻撃を開始した。小浜口と本宮口の二方向から進軍して、二本松城を攻略しようという作戦である。

 迎え撃つは、連戦で疲れ果てた兵に、老兵、農兵、少年兵を加えた僅かな二本松兵である。破竹の勢いで進軍して来る薩長軍に敵うはずもなく、次から次へと城下防衛の重要地点を突破されてしまう。

 その中で城郭の手前の大壇山に陣取り、薩長軍めがけて必死に抵抗したのが、木村銃太郎率いる少年隊二十五人だった。

 木村は西洋砲術の指南役であり、少年兵の多くがその門下生である。彼らは大壇山の頂上に古畳で胸壁を築き、大砲や銃を撃ち下ろし、二時間余り激戦を展開した。

 しかし、その戦闘も陣頭指揮を取っていた木村銃太郎が、迫りくる薩長軍の銃弾に撃ち抜かれたことで、状況は一変してしまう。

「俺はもう駄目だ。城には戻れぬ。ここで首を斬れ」

 木村が命じたのは、副隊長の二階堂衛守えもりに対してである。

 二階堂に迷いはなかった。二人はどちらかが斃れた場合のことを、最初から決めておりそれを実行するに過ぎない、と割り切っていた。

「ごめん」

 二階堂の一言と同時に大刀が振り下ろされ、血飛沫とともに木村の首が転がった。同時に少年隊士全員が、声を上げて泣き出した。隊士といっても、その実は未だ幼い子供が大半なのだ。背が小さいため、佐々木小次郎のように刀を背中から斜めに背負っている者もいる。その刀も自分一人では抜けず、他の者から抜いて貰わないと戦えない幼い少年なのである。

「泣くな。これより隊長の身体を埋めた後に、速やかに退却する」

 二階堂は、これ以上長居すれば、全員を危険に晒してしまうことが分かっている。泣き止まぬ少年兵に声をかけ撤収を促した。

 その場には他に、少年隊退却の時の殿軍役しんがりやくとして、青山助之丞と山岡栄治という二人の藩士が詰めていた。

 青山と山岡は迷わず、二階堂と少年隊士に向かって叫んだ。

「よくぞここまで勇敢に戦ってくれた。もう充分だ。ここは俺たち二人が、斬り込みをかけて時間を稼ぐ。その間にお前たちは隊長の首を持って、城に向かって駆けるがよい」

「しかし、それではお二人が」

 少年隊士の一人が口にした言葉だった。

「心配するな。俺たちは多少だが、剣の腕には自信がある。お前たちが逃げるくらいの時間は稼げるさ」

「いいえ、お二人のお命が」

「俺たちはもう充分に生きた。これからはお前たちの時代だ。お前たちには何としてでも生き長らえて欲しい。頼んだぞ」

 二人はそう言うと、振り返ることなく、坂下の薩長軍めがけて、山の木々の間を駆け下りていった。

 この後、二人は坂の途中の茶屋の陰に隠れて、登って来た薩長兵九人を斬り倒し、一時は全軍が退却するほどの大立ち回りを演じたうえで、敵の銃弾に斃れている。

 青山・山岡両人の奮戦で、無事に大壇口を退却した少年隊だったが、この後、彼らを悲劇が襲うことになる。それは城に戻る途中の大隣寺近くを、通り過ぎようとした時に起こってしまった。

 少年隊一行は、突如として前方に現れた薩長軍から、激しい銃撃に見舞われてしまうのである。この時、既に小浜口を破った薩長兵は、城下にまで侵入したうえで、二本松城に向かって、猛攻を仕掛けている最中であった。

 そのような事態に陥っていることも知らない少年隊一行が、戸惑うのも無理はなかった。戦闘準備をする間もなく、先頭を歩いていた副隊長の二階堂衛守と、わずか十三歳の岡山篤次郎が、敵の銃弾による最初の犠牲者になった。その後も反撃する暇すら与えられず、敵の容赦ない銃弾攻撃によって、次々に折り重なるように斃れていく少年隊たち。その姿を想像しただけでも、身に詰まされるものがある。

 結局、木村率いる少年隊二十五人のうち、十四人が亡くなり、七人が負傷するという悲劇を生んだのが、二本松少年隊の攻防戦だった。

 この頃、城内でも敗戦の責任を取って、自刃する者が相次いでいた。家老の丹羽一学を筆頭に、丹羽新十郎、服部久左衛門、丹羽和左衛門、安部井又之丞といった面々である。 

 丹羽一学は自刃後に城に火をかけるよう指示していたために、瞬く間に燃え広がり城は紅蓮の炎に包まれ落城した。

 二本松の落城によって、会津への侵攻は、もう秒読みの状態となっていた。


(第四十話『潰走、母成峠』に続く)

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