第38話 北越戦争の終結
「よいか、これからこの八町沖を渡り終えるまで、一切の私語を禁ずる。深い所は胸までつかるぞ、気をつけろ。深みに
継之助は六百九十名の長岡藩兵を前に大声で命じた。
七月二十四日午後十時を回った頃である。見附の本営を出た長岡勢は、漆山に集結していた。目前には、大湿地帯の八町沖が広がっている。
継之助は長く続いた苦闘を一挙に終わらせるため、遂に
見附まで進軍したまでは順調だったが、その後の一か月半に及ぶ苦戦の原因は、薩長軍の完璧なまでの防衛布陣にあった。しかしここで、継之助は敵の唯一の弱点である八町沖からの進軍を敢行して、そのまま城下に突入のうえ、長岡城を奪回する作戦を思いつく。八町沖からはさすがに攻めて来ないとみて、薩長軍はわずかな兵しか割いておらず、その裏をかくのだ。
全軍が八町沖の渡渉を終え富島に上陸したのは、翌日の払暁だった。誰一人として泥を被っていない者はいない。しかし、これからいよいよ城の奪還戦が始まるという思いが、全員の気持ちを大いに奮い立たせている。
その時、一発の銃声が鳴り響き一人の兵士が倒れた。道先案内人を務めた鬼頭熊次郎だった。わずか三十二石の家に生まれた熊次郎は、八町沖で魚釣りをして家計を助けている下級藩士である。まさに八町沖を知り尽くしている数少ない人間だった。
熊次郎は継之助の命で、八町沖の渡渉地図を完成させただけでなく、数日前から深みには土を埋め、板を渡すなど円滑な行軍に一役買った功労者でもあった。
「熊次郎、しっかりしろ」
継之助が駆けつけ声をかけたが、体が動くことすらない。即死だった。
わずかな敵兵は突如現れた大軍に慌てふためき、既に一目散に逃げてしまっている。
「逃げた奴らは我らの来襲を報せにいったはずだ。これから直ぐに長岡城奪還に向かう。侵入経路は予め打ち合わせた通りだ。隊毎速やかに向かえ。遭遇した敵は迷わず撃ち倒して構わぬ。よいな」
継之助は前日に全隊長を招集し、街中の戦闘隊、反攻に転じる薩長軍を迎撃する隊、城を取り囲みながら各城門から突入し制圧する隊を、予め決めて細かく通知済だった。
案の定、急襲の効果は絶大だった。城内外にいる数少ない薩長勢が、戦闘準備する間もなく、突如として長岡勢が攻めてきたのだから、堪らず逃げるしかない。薩長の本軍は城を出て北上し、野営しながら會津米沢の藩兵と対峙を続けているのだ。
さすがの山県狂介も、若き日の西園寺公望を助け、城を出て急ぎ逃げ落ち延びるという情けない有様だった。
こうして、継之助の立てた長岡城奪還のための電撃作戦は大成功を収めたが、実はここでもひとつの大きな誤算が生じていた。
それは、見附近くで陣を張る會津米沢軍が、薩長軍を撃破出来ずに苦戦を強いられていたことだった。予定では、會津米沢軍が薩長軍に攻勢をかけて駆逐することになっていたが、敵の猛攻でこれが遅々として進まないのである。
長岡城奪還と共に、敵軍を関原本営から追い落とすことが出来れば、城に立て籠りながら、有利に戦況を展開出来るのである。そうこうしているうちに、越後には長い冬が到来する。
この構想を実現するためにも、今日の戦いには、何が何でも勝って貰わなければならない。苛立った継之助は、休む間も惜しんで長岡城から戦況視察へと向かった。向かった先は、城下入り口の新町村である。
この時、最大にして最後の不幸が継之助を襲う。一発の銃声とともに、継之助は苦悶の顔を浮かべて倒れ込んだ。弾丸が継之助の左足膝下を貫いたのである。
継之助負傷の報せは、勝ちに沸いた長岡城内を、一挙に沈黙させてしまうという、手痛い逆効果を生んでしまっていた。
翌七月二十六日、會津米沢の藩兵が続々と長岡城に入城してきた。
結局、前日の戦闘では、薩長軍を関原本営から追い落とすという作戦は失敗に終わっている。総督たる河井継之助の負傷という大き過ぎる代償を払い、成果は長岡城のみを奪還したにとどまってしまった。おまけに、連日の戦闘で将兵の疲労は頂点に達している。
更に、同盟軍本営となった長岡城に、衝撃的な報せが舞い込んできた。
昨日、新潟が敵の手に墜ちたというのだ。柏崎に到着した薩長軍が海路新潟にわたり、守備していた米沢藩兵に猛攻を加えたらしい。総督である色部長門は敢え無く戦死し、米沢藩兵は敗走していた。他にも、會津藩参謀の田中茂手木と、庄内藩家老の石原倉右衛門が敵弾の餌食となっていたが、その先鋒を務めたのが何と、同盟しているはずの新発田藩だという。新発田藩が裏切ったことは確実だった。
新潟は同盟軍の補給基地としての最重要拠点でもある。會津藩にとっては、エドワード・スネルから購入した最新式の銃が、大量に新潟港に入る日でもあった。これらは全て、薩長の手に渡ることは確実だった。
また、新発田藩が裏切ったということは、米沢藩兵の退路が断たれたに等しく、また、会津に通ずる津川口が使えないことを意味する。会津へと繋がる道は険しい八十里越のみになってしまった。
新潟を掌握したことで勢いを得た薩長軍は、この機を逃すはずはなかった。またも霧を利用して、三方から長岡城を攻撃してきたのである。この時の砲撃の一発が、
八月六日、担架に乗せられて運ばれ八十里越をした継之助の姿は、只見村にあった。
継之助の着到を待っていたのは、旧幕軍医である松本良順である。継之助負傷の報せを耳にした前長岡藩主の牧野忠恭が危惧し、会津にいる良順に怪我の状態を診るよう頼んでくれたお陰だった。
この時、継之助は破傷風を発症していた。既に命がそう長くはないことを、自覚している。それでも、主君の気持ちが何よりも嬉しくもあり、その長岡藩を自分の手で壊滅させてしまったことを謝し涙した。
良順も継之助を一目見て、手の打ちようがないことを察した。後は一日も早く、会津に入ったうえで、藩主父子との別れを勧めることしかなかった。
八月十二日、只見村から塩沢村へと移動した継之助は、矢沢宗益宅に入った。更に会津に向かって歩を進めようとする家来たちを、継之助は止めた。既に意識が混濁し始めている中で、これ以上家来たちに苦労を掛けたくない、という継之助の最後の優しさだった。
継之助は静かに自らの死を受け入れ、その時を待った。
『無念がないと言えば嘘になる。あの時、銃弾が当たっていなければ、未だ城を守り切る策はあった。そのうち、雪の季節がやってくる。敵は難儀するだろう。その時、会津と庄内の救済を条件に、もう一度和平の話を薩長に持ち込みたかった。しかし、今となってはそれも儚い夢と化してしまった。殿にはお詫びの申し上げようもない。長岡の城も街も、全て自分の手で灰塵に帰してしまったようなものだ。結局、田畑も荒らしてしまい、民にも迷惑を掛けてしまった。あとは地獄での裁きを受けるしかあるまい』
八月十六日、その時が来たと悟った継之助は、従僕の松蔵を呼び、庭の片隅で火葬の準備を始めさせた。最期に出来ることは、敵に自分の首級を渡さないことだけだった。
ぱちぱちと音を立てて燃え盛る炎に照らされて、涙を流す松蔵の姿が映し出された。もう一度声をかけようと思ったが、声にならない。やがて、目の前が真っ暗となり、何も見えなくなった。継之助の命の炎が静かに燃え尽きた瞬間だった。
(第三十九話『裏切りの連鎖と二本松の悲劇』に続く)
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