第36話 小千谷談判

「総督、相手はちゃんと話を聴いてくれるでしょうか。土佐の岩村精一郎など、名前も聞いたことのない軍監ですよ」

 軍目付の二見虎三郎は、長岡藩軍事総督・河井継之助の後ろを追いながら話しかけた。

 事実、岩村精一郎は、幕末のどさくさに紛れて、出世した成り上がり者である。中岡慎太郎が率いた陸援隊の尻を追いかけて入隊した、という事実だけで、運よく軍監に抜擢されたに過ぎない人物であった。

「それが分かれば苦労はせぬ。とにかく、こちらの主張を分かって貰うまで繰り返し、説諭するしかあるまい」

「しかし、総督がおっしゃる中立などということが、果たして通用するでしょうか。敵対すると同じに捉えられませんか」

 継之助には、二見の言葉に聞き覚えがあった。江戸から帰国する船中で、会津藩家老の梶原平馬も、確かに同じことを言っていたはずだ。

 それは一番、継之助が分かっていることでもある。それでも中立と専守防衛の立場を貫くことしか、長岡藩が生きる道はないと信じていた。

 そのために、極めて盟友に近い存在である會津藩の佐川官兵衛率いる軍勢すらも、先日、藩の領外へと無理やり追いやったのだ。越後の会津領では、佐川官兵衛率いる軍勢と薩長軍との衝突が開始されており、既に緊張状態にある中でのことである。

 河井継之助は二見虎三郎を連れて、小千谷の慈眼寺へと歩を進めていた。五月二日のことである。白河口攻防戦で會津・仙台を中心とする同盟軍が、伊地知正治率いる薩長軍に大敗を喫した翌日のことであった。

 前日、薩長軍本営のある小千谷陣屋に、嘆願出頭を申し入れたところ、それが許され、指定された場所が慈眼寺だった。どうやら、本営の陣屋には、見られて拙いものが沢山置いてあるに違いない。

 そのような邪推をしながら、通された奥の一室には、三人が座っている。二見虎三郎は次室に控えさせた。

「長岡藩家老の河井継之助でございます」

 どうやら、真ん中に座っているのが、岩村精一郎という軍監らしい。尊大な振る舞いは自分の気弱さを押し隠すためか。どこか、見下したような態度も鼻につく。

 岩村の睨みつけるような目を受け流し、継之助は落ち着き払って、一通の書状を差し出した。

「我が主君、牧野忠訓ただくによりの嘆願書でございます。何卒ご披見の程、お願い申し上げます」

「今更、何が言いたい。申してみよ」

 岩村らしい男が嘆願書を手に取ることもなく、面倒臭そうに、継之助に向かって吐き捨てた。それはまさに、時代錯誤の小藩の一家老が、何を寝惚けたことを言うのか、という愚別的な態度そのものである。

 そのような態度にも臆することなく、継之助は持論を展開し始めた。

「さらば遠慮なく申し上げます。畏れながら朝命とあれば、是非を論ずることなく従うのが当然の理。我が藩も全く異論はございません。しかしながら、此度の朝命は果たして真なるや、と疑う者も多々おり、困り果てております」

 岩村の顔色が急に変わった。

「何を無礼なことを申すか」

 岩村の怒鳴り声にも動ぜず、継之助は続けた。

「申し訳ございません。あくまでそのように申す者がいる、と言った迄でございます。我が藩は徳川家譜代の小藩、しかも越後の田舎侍の集まり故に、世情に疎い者が沢山おります。旧幕府や会津・庄内藩を朝敵扱いしているのは、私怨を晴らすためであろう、などと豪語する者がいて、いやはや困り果てておる次第。中には幼帝を担ぎ上げ、権力を私しているではないか、などという不届き者もおります。いいえ、誤解されては困ります。これは決して我れ個人の考えではございません。あくまでこう言う者がいる、と正直に申しただけでございます」

「ええい、黙れ、黙れ。無礼であろう」

「いいえ、黙りません。ご無礼は承知のうえで、事実を申し上げております。どうか落ち着いてお聴き下され。このように、我が藩では朝命に従うべきとする者と、そうではない者が真二つに割れて、藩論が未だ定まらぬ状況なのです。このような状況では軍勢を差し出して、お味方することなど出来る状態ではございません。どうか我が藩のかような事情をお察し頂き、暫しのご猶予を賜りたいのでございます」

「ならば、その我ら官軍に従う者だけでも、参じれば許すとしよう」

 岩村の言葉は、継之助にとって想定内の返答だった。

「そうは参りませぬ。ご指示通りに動けば、藩内抗争となり、それだけは何としても避けよ、との主君の命でもございます」

「それは、そちらの都合というものだろう。我らには関係ないことだ」

「いいえ、もし我らが藩内抗争となれば、民の田畑が犠牲になります。そうなれば、民に困窮を強いるだけでなく、年貢の上納にも差支えが生じます。藩内での戦闘は如何なる命であっても、お断り申し上げる次第」

「もうよい。どちらに味方するのか、今はっきりしろ」

 岩村の堪忍袋の緒は既に切れていた。

「藩論が統一するまでは我らは中立の立場を貫き、どちらのお味方も、するつもりはございません。何卒ご猶予を賜りますよう」

 継之助の懇願にも岩村は応じるつもりはない。席を立ってこう告げた。

「貴様と議論するつもりはない。時間稼ぎをしようという魂胆など、見苦しいにも程がある。見え透いた嘘など聞く気もないし、ましてや、中立など断じて認めるつもりはない。嘆願なんぞ誰が取り次ぐものか。朝命を奉じて我が軍に参じないというのであれば、長岡藩を朝敵として成敗するのみ。さっさと帰って戦支度でもするがよい」

 慌てた継之助は、立ち去ろうとする岩村の袴の裾をつかまえて、最期の懇願に賭けた。

「もう少し話を聴いて頂きたい。未だ話の半分も申し上げてはおりません。何卒お取次ぎを、何卒、何卒」

 岩村は必死にすがる継之助の手を無下に払うと、それ以上何も言わず、奥へと引き下がり、二度とその場に姿を現すことはなかった。

 言いたいことの半分も伝えていない、というのは本当のことだ。継之助は長岡藩のことだけを考えているのではなかった。欧米列強の脅威に晒される今日、国内で不毛の争いをしている場合ではないのだ。

 今こそ、国内が一つにまとまり、新たな体制づくりに向かうべきにも関わらず、このような内紛を続けていては、やがて清国と同じように、欧米列強の植民地になりかねない。継之助は薩長軍と腹を割って話し合ったうえで、会津まで出向いて、お互いに矛を収めるよう、容保や重臣を説得する覚悟でもいた。しかし、それも今となっては虚しいだけの夢物語と化していた。

 暫くの後に、二見虎三郎が姿を現した。談判の結果は大声のやり取りで概ね把握している。継之助は坐して下を向いたまま動かない。虎三郎は継之助が語りかけてくれる迄の間ひたすら待つしかなかった。

「虎三郎、駄目だった」

「はい」

 虎三郎が掛ける言葉は見当たらない。

「止むを得まい」

 継之助が口にしたのは、この一言だけだった。

 立ち上がると、継之助はしっかり前を向き歩き出した。虎太郎は慌てて後を追いかけた。虎三郎の目には、その後ろ姿に迷いの影が消えているように映っていた。


(第三十七話『長岡軍の激闘』に続く)

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