第35話 見果てぬ夢

 五月二十六日、常陸国・平潟港に一隻の軍艦が投錨した。軍艦の名は長鯨丸、榎本武揚が率いる艦隊のうちの一隻である。

 艦内には一人の貴人が乗船していた。先帝・孝明天皇の義弟に当たる、輪王寺宮公現法親王である。

 つい先日まで、彰義隊と共に上野・寛永寺に立て籠っていたその人であった。

 輪王寺宮は、南北朝時代の護良親王もりながしんのうの如き、武闘派などでは決してない。薩長の征東を止めさせ、旧幕府を救済しようと、積極的に和睦救済のために努力された御方である。

 輪王寺宮の心底には、薩長と一部の公家が恣意的に起こした、クーデターと戦で立ち上げた新政府に対して、少なからず疑問を持っていた。もちろん、薩長の会津・桑名・庄内に対する仕打ちは私怨でしかない、とさえ断じている。

 寛永寺への立て籠りも、その義憤の表れであり、彰義隊が壊滅的打撃を被り大敗した今となっては、輪王寺宮の心にあるのは唯一つ。それは会津藩の救済だった。

 平潟港に降り立った輪王寺宮を出迎えたのは、會津藩士・小野権之丞である。

 小野権之丞は百三十石と決して上士と言える家柄ではない。それでも、京都守護職時代に公用方として活躍したことから、宮に随行してきた覚王院義観と知己があり、奉迎の役に任じられていた。

 宮が会津・鶴ヶ城に入ったのは六月六日のことである。その間、数多くの諸侯から奉迎を受けることになった。磐城泉藩主・本多忠紀や湯長谷ゆながや藩主・内藤政養まさやすを皮切りとして、元老中で備中松山藩主・板倉勝静に前磐城平藩主・安藤信正、唐津藩世子・小笠原長行など錚々たる顔ぶれが、宮の御前に日替わりで揃ったことになる。

 宮の会津滞在は十三日間とわずかであったが極めて濃密な期間だった。

 先ず、容保との話し合いでは、以下の二大方針を掲げることとした。

 第一に、大義を掲げて君側の奸たる薩長を排除し、会津・庄内の冤罪えんざいを晴らすこと。

 第二に、征東大総督たる有栖川宮を通し、諸藩に対して協力を要請すること。

 この方針は、直ちに同盟各藩に布告された。六月十六日の列藩会議では、輪王寺宮に対し、白石城に動座頂いたうえで、式に盟主就任を要請することになった。

 輪王寺宮が白石城に入ったのは七月十二日である。

 この日以降、列藩会議が連日にわたり開かれ、軍事・治政・財政をどうするかの論議が交わされることになる。この会議が目指すのは、輪王寺宮政府の構想だった。

 つまり、この時の列藩同盟は、輪王寺宮を盟主として、京の新政府に対抗する地方独立政権樹立を目指していたのだ。

 当座は無傷として残っている榎本艦隊や旧幕軍で、薩長軍を牽制しつつ、米仏露といった諸国を味方につけて武器を獲得する。また、西南諸藩の同志と結託して、内部攪乱を企てるなど、明らかに薩長政権への挑戦的意味合いを包含するものでもあった。

 しかし、この途方もない構想も、見事に先手を打った薩長軍によって、結局は儚い夢物語と化してしまう。各地における連戦連敗によって、徐々に奥羽越列藩同盟の結束に亀裂が生じ始めていることを、輪王寺宮が知る由もない。

 列藩会議が開催され、輪王寺宮の盟主就任要請を決定し、白石城内が歓声に包まれる六月十六日、薩長軍は既に奥州鎮撫を目的とする千五百の精鋭部隊を、平潟に上陸させていた。この時既に、列藩同盟崩壊の幕は、静かに上がり始めていたのだ。


(第三十六話『小千谷談判』に続く)

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