第34話 今市白河からの撤退

 薩長軍が同盟軍の掃討を終えて、白河城に入ったのは五月一日の午後二時だった。敵兵二千五百という大軍を、わずか七百の兵で破ったことになる。しかも、薩長軍の死者は、わずかに十二人という大勝利である。

 参謀の伊地知正治は、東西の迂回軍を指揮した川村与十郎、野津七左衛門と伴に、勝利の美酒に酔いしれた。

 白河城内では、同盟軍が慌てて逃げ去った様子が、手に取るように分った。武器は旧式で役に立たないものばかりではあるが、大量の食糧が放置されていた。これで当分、兵糧に悩まされる心配はなさそうだ。

 ただ、問題がないわけではない。関東から援軍がいつ来るかである。敵の同盟軍が一敗地に塗れたとは言え、近々に軍を立て直したうえで、城の奪回を試みるに違いない。また、増援がない限りは、更に北上して制圧するという、肝心な目的を達することが出来ないのだ。

 今からあれこれ考えても仕方ない。伊地知は念のため、夜襲だけには気をつけるよう、交替での哨戒を指示し床に就いた。

 心地よい睡魔が身体全体を包んだ。今日だけはゆっくり寝むれそうだ、伊地知はそう思った。


 向寺に集結出来た敗残兵は、わずかに五百人余りに過ぎなかった。夜明け前には、二千五百人という大軍だったはずだ。むろん、思い思いの方角に逃げた者が大半であろう。それにしても、酷い負け方だ。西郷頼母は今更ながらに、自らの指揮が如何に甘かったかを恥じた。兵士の顔はいずれもが茫然自失の状態で、眼も虚ろだった。

 その頼母を出迎えたのは、仙台藩の大隊長・瀬上主膳だった。二人は交わす言葉もなく、ただ目で合図を送り合うだけだった。仙台藩も参謀の坂本や姉歯といった、戦いの猛者を相次いで失っており、その痛手は會津藩に次ぐ規模となっている。

 傷心の西郷の下にもたらされたのは、更なる悲報だった。軍事奉行の海老名衛門が敗戦の責任を取り、城下の龍興寺で自刃して果てたとのことである。

『腹を切る必要があるのは海老名衛門ではない。総督である儂であろう』

 頼母は今更ながら、命を長らえて生き恥を晒すことになった自らを、心の中で悔いた。しかし、生き残った兵士を目前にして、少なくとも今はその時ではない。先ずは速やかに撤収を図り、再起を期することこそが、自らに課せられた役目ではないのか。頼母は思い直し前を向いた。

 目の前には会津へと続く街道が延々と続いている。それが何故か、今は疎ましく感じる頼母だった。


 この後、頼母率いる同盟軍は白河城奪回を期して、七月十四日の最後の攻撃を含め、六度にわたり総攻撃を仕掛けたが、いずれも薩長軍の固い防御の前に屈するしかなかった。

 仙台藩・細谷十太夫が、侠客を中心に結成した衝撃隊のゲリラ戦も、大いに薩長軍を震撼させたが、大勢に影響を及ぼすまでには至っていない。

 六月中旬になると、同盟軍に更なる追い討ちをかける報せが入った。薩長の大軍が白河城に入城したというのだ。これによって事実上、白河城奪回の夢は完全に断たれたと言ってよかった。

 五月十五日に行われた、上野山・彰義隊殲滅作戦が功を奏したことで、関東における反乱の火種が消失し、奥州方面に割ける兵力が格段に増大したことにより送り込まれた軍勢である。

 六月二十四日には、棚倉城が陥落し、頼母は遂に指揮官失格の烙印を押され、容保より白河口総督を罷免される。

 頼母を始めとする同盟軍は、予め薩長軍の棚倉城攻撃を察知していたにも関わらず、救援軍を派兵しないという、またもや判断の誤りを犯していた。白河城内の兵力が手薄となったことを、むしろ好機と判断した頼母は、非情にも棚倉城を見捨てて総攻撃を仕掛けたのだ。その結果が大失敗である。

 頼母が指揮した同盟軍は総攻撃の失敗と棚倉城陥落という、二重の失態を繰り返してしまっていた。これには、さすがの容保も、頼母に対する責任追及を避けることは出来なかった。

 その後、頼母を待っていたのは、背炙山せあぶりやま守備という閑職である。五月一日の大敗で総督として不向きなことは明白だったにも関わらず、何故その段階で、頼母に責任を取らせなかったか。容保の温情が招いた最大の失策に違いない。


 一方、白河口攻防戦と同じ時期に、日光口の大鳥圭介は今市攻略のため、会津藩・山川大蔵と共に、一大決戦を仕掛けようとしていた。

 今市宿は日光街道と會津西街道の結節点という位置にあり、日光の食糧庫としても重要拠点と位置づけられている。今市を防衛拠点に、何としても会津への侵攻を食い止めようと、大鳥や山川は画策していた。

 大鳥圭介と山川大蔵が、初めて顔を合わせたのは、前月の閏四月二十日のことである。日光口の守備を目的として、朱雀・青竜の精鋭を率いて南下してきた山川軍の増援を受けた大鳥軍は、大いに盛り上がった。

 山川は未だ二十四歳という若さながら、フランスからプロシアを経てロシアを外遊した経験のある、會津藩には貴重な開明的発想の持ち主であった。

 早速二人は軍議を開き、翌日第一回目の今市攻略を決行したが、それは散々な結果に終わっていた。大鳥軍と山川軍が、それぞれ東西から今市の街中を挟撃するという作戦だったが、これに齟齬が生じてしまったためである。

 この東西からの挟撃は同時に行ってこそ、効果を発揮するものである。それにも関わらず、大鳥はこの攻撃開始時間を指定しないままで、それぞれに行軍させてしまったのだ。大鳥は指揮官として絶対にやってはいけない凡ミスを、犯してしまっていた。

 午前五時頃に攻撃を開始した山川軍に、なんと反対側の大鳥軍が間に合っていないのだ。今市を守備する土佐藩兵からの攻撃は、自ずと山川軍に攻撃が集中するから、旧式銃の所持が大半の山川軍は苦戦を強いられる。山川軍が後退した後で大鳥軍が攻撃したとしても、集中砲火を浴びるだけで、後の祭りである。こうして、起死回生の策も水泡に帰する羽目になってしまっていた。もうこれ以上の失敗は許されなかった。

 大鳥の失策によって事なきを得たものの、今市を防御する土佐軍の中には、この日の攻撃を直ちに教訓として活かした、有能な指揮官がいた。それが板垣退助である。

 この日の戦いは、たまたま板垣が壬生に出張していた時に仕掛けられたものである。戻って話を聞いた板垣は、今市の防衛を強化する必要性を痛感した。そこで、今市周辺の至る所に、突貫で堡塁や土嚢を積み上げた胸壁を構築し、迎撃態勢を整えていたのだ。

 五月六日、夜明けとともに會津・旧幕軍は、第二回目の今市攻撃を開始した。主力は左翼・右翼・中央の三隊であり、東からの正面攻撃である。更に北北東に位置する茶臼山にも軍勢を割き、牽制と攻撃を加えるという鉄壁な戦法である。

 当初は會津・旧幕軍が戦況を優位に展開する。しかし、土佐軍も堡塁から応戦し、一進一退の攻防が続いた。板垣の迎撃態勢構築がなければ、土佐軍は大敗を期していたかもしれない。

 板垣退助は焦りを感じていた。宇都宮から派遣される予定の援軍も、正午を回っても来ない。このままでは、防衛線が突破され、今市の街中に會津・旧幕軍が侵攻してしまう。援軍は僅かに彦根藩の二小隊が到着したのみで、焼け石に水と言っても良かった。

 ここで板垣は、予定していた作戦を変更して大勝負に出る。西の守りを彦根藩兵に任せ、一軍を密かに南から山地を潜り抜けて迂回させ、敵の背後から攻囲するように攻撃させたのだ。

 この策が見事成功したことで勝負はあった。會津・旧幕軍は挟撃を受けたうえに、ようやく宇都宮から到着した援軍の攻撃も加わっては、もうどうにもならない。會津兵と旧幕軍は算を乱し、北に向かって潰走するしかなかった。

 この戦いによって、今市攻防戦は収束した。

 それでも、敗れた山川軍は、その後も会津西街道の藤原まで撤退後、その地に留まり、薩長土佐軍の北上を見事に退け続けた。山川はその後も田島を拠点として、薩長軍に突破を許すことなく、日光口を守り続けている。撤退するのは、母成峠の敗報を受けた八月二十二日のことである。

 山川大蔵は、その手腕で実に三ケ月以上にわたり、日光口を敵の侵入から防いだことになる。


(第三十五話『見果てぬ夢』に続く)

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