第31話 奥羽越列藩同盟

 世良修蔵誅伐の報は、直ちに奥州諸藩に広められ、「悪逆非道の奸賊に天誅が下った」と大いに沸くこととなった。

 世良修蔵を自らの手で葬った仙台藩は、もう後戻り出来ない。残された唯一の途は、米沢藩らと協力し、会津と命運を共にすることである。

 仙台藩は盟約を結んでいた米沢藩と共に、會津討伐の解兵届を提出し、総督である九条道孝を軟禁したうえで、直ちに奥羽諸藩に連合を呼びかけた。

 仙台・米沢両藩の呼びかけに賛同した諸藩の重臣が、白石城内で一堂に会したのは、閏四月二十二日のことである。むろん、この中には会津藩士の姿もあった。

 先ず、仙台藩の但木土佐が、諸藩の代表者に向けて口を開いた。

「既に諸氏がご承知の通り、下参謀とは名ばかりの逆賊・長州藩士世良修蔵を、去る閏四月二十日早朝、我が藩士が誅殺することと相成り申した。これは会津・庄内両藩の救済という我らの嘆願を、無下に却下しただけではなく、これまでの傍若無人な振る舞いに対して、やむを得ず天に代わって下した鉄拳と心得て頂きたい。もとより我らは、総督府に対し奉り刃を向ける意図は毛頭なく、あくまでも総督府の中に潜む薩長の参謀と兵から、われら陸奥・出羽の地を守るために、やむなく決起することにした次第。どうか諸藩諸氏も、この趣旨にご賛同のうえ、今後の行動にも同調いただくようお願いいたす」

 この経緯説明と同意を求める発言を補足したのは、米沢藩の宮島誠一郎だった。

「むろん、但木殿のお言葉通り、我らは和戦両様の構えで参るつもりです。我らの願いは会津と庄内両藩の救済嘆願です。私情でしか動かぬ薩長軍さえ撤退して貰い、公平な立場で交渉頂ける方々を派遣して貰えれば、自ずと兵は退くつもりでおります。このことは、不肖この宮島に、に心当たりがありますので、お任せ頂きたい。我々諸藩の名前で、太政官に嘆願書を提出するつもりです」

 宮島が言う「伝手」とは勝海舟のことである。事実、宮島は後日、有言実行で太政官への嘆願を成し遂げるが、この時既に八月を回り、会津と庄内両藩の救済という本来の目的を果たすには至らなかった。

「如何でありましょう。此度、世良修蔵の誅殺に喝采頂いた皆さまのご同意を、この場で頂けないでしょうか。仔細は、我が仙台藩と米沢藩、それに会津藩の方を交えて決定し、あらためて皆様方にお諮りいたす所存にて、宜しくお願い申し上げる」

 こう発言したのは、仙台藩の玉虫左太夫である。

 ここまで言われて、反対する藩はいなかった。

 この席上で、奥羽諸藩は福島に軍事局を置き、正式に薩長軍と対峙することを決め、戦略の策定を進めることにした。元々は会津と庄内を救済する目的で推進してきた和平交渉同盟が、攻守軍事同盟へと変貌した瞬間だった。

 この軍事局の執政には、仙台藩の坂英力が就任し、参政兼参謀には真田喜平太を迎えることになった。真田は去る七ケ宿会談で、梶原平馬に対し必ず嘆願を受け入れさせてみせる、と豪語したその人である。

 この軍事同盟には、五月になると長岡を中心とする越後六藩が加わり、全体では三十三藩から成る、奥羽越列藩同盟へと発展していく。

 しかし、一口に三十三藩と言っても、仙台のような六十二万石の大藩もあれば、盛岡新田藩のような僅かに一万一千石の小藩まで様々であり、北は北海道の松前藩まで含んでの同盟である。それぞれの同盟に対する意識や取組姿勢には、当初から明らかに温度差が生じていた。

 つまり、その内実は、仙台や米沢の強い働きかけに逆らえず与する藩や、支藩である以上は仕方なく本藩に従い加盟する藩もいて、同盟の土台としては、決して盤石とは言えないものであった。

 また、進んで同盟に参画を表明した藩内にも、薩長政権への恭順を当初から主張する者が、少なからずいたのも事実だった。薩長に戦を挑んでも、勝てる保障はどこにもない。この際、正しいかどうかは二の次であり、錦旗と幼帝を頂き、官軍として勢いのある薩長に味方しよう、という「寄らば大樹の陰」「事なかれ主義」の考えが強く支配していたとしても、何ら不思議ではない情勢だった。残念ながら、この各藩の微妙な考え方の差に、当初から同盟の脆さが内包されていたのだ。

 やがて、この脆さが現実のものとして露呈するのだが、かつてない程の大規模な同盟の締結自体に喜ぶ、会津・庄内・仙台・米沢の藩内には、それを危惧や予期する者は誰一人としていなかった。いや、何人かは気がついていても、危急存亡のこの時に、小事に構ってなどいられないと目を背けた、というのが正しい表現かもしれない。

 この時既に、宇都宮城は敵軍が拠点として固めており、続々と軍が集結してきていた。その薩長軍が北上してくるのは時間の問題でとなっていた。

 同盟軍における喫緊の課題は、白河や越後、そして庄内の入口を固め、敵の侵入を阻止することだった。

 先ず、奥羽の玄関口である白河は、仙台と會津、それに二本松・棚倉の藩兵が当たることになった。次に越後口は、長岡と會津に米沢、庄内の藩兵が加わることになり、庄内口は庄内と米沢の藩兵に任せることとした。他の諸藩は可能な限りでの増援と、主に後方支援や軍事物資の協力に回ることになる。

 ここから分かるように、戦闘の主たる担い手は會津・庄内・仙台・米沢といった当初から同盟締結に奔走した藩に、白河口の棚倉藩と二本松藩、それに長岡藩が加わっただけの規模だったことは否めない事実である。しかし、自藩を守るだけで精一杯の小藩に、無い袖を触れと言っても、最初から無理なことでもあった。

 味方として多少なりとも支援してくれるだけでも有難いというのが、基軸となった藩の本音だったかもしれない。

 更に會津藩はこの同盟を発展させ、薩長政権に対抗する独立国構想を標榜し、諸外国との折衝・薩長政権に反発する旧幕臣の結集・全国諸藩の支援要請の、中核を担おうと買って出た。

 鳥羽伏見の屈辱から五か月、ようやく汚名を晴らす時が到来したと、容保以下会津の誰もが同盟の成就を歓迎し、歓喜したことであろう。しかし、この歓喜も束の間の出来事で終わってしまうとは、この時予想する者はいなかった。


(第三十二話『白河口大戦前夜』に続く)

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