第27話 宇都宮城の攻防

 會津藩が藩境の防衛網を構築しつつ、仙台・米沢両藩を介した和平交渉を模索している時、北関東では既に旧幕軍と薩長軍の攻防戦が激化していた。

 江戸城の無血開城が行われた慶応四年四月十一日の深更、大鳥圭介は密かに江戸を脱出した。向かった先は下総しもうさの市川宿である。

 この地には、同志の伝習隊員や、鳥羽伏見の戦いから逃れてきた桑名藩兵、それに新選組の猛者もさたちが合流することになっている。

 桑名藩兵は、立見鑑三郎が率いて来ていた。いずれの藩兵も薩長の軍門に下ることを、断じて拒んだ面々である。

 新選組は流山で近藤勇と別れた後を、副長・土方歳三が率いてきていた。この中には山口次郎と変名する斎藤一も加わっている。

 総勢二千名となった旧幕軍であるが、十二日の評議では総督を大鳥圭介、副将には土方歳三を選び、二手に分かれて北上を開始した。

 大鳥の伝習隊を中心とする本軍は、古河から小山へと軍を進めたところ、彦根藩兵を中心とする大軍監・香川敬三率いる薩長軍と遭遇戦となり、これを難なく撃破した。   

 因みに彦根藩と言えば、井伊直弼を元藩主とする歴とした、家康が浜松を居城としていた頃からの譜代大名である。これが薩長の手先にまで落ちぶれているのだから、双方複雑な思いだったことは想像に難くない。

 一方の別動隊を率いる土方も、下妻から下館を経由して真岡近くまで進軍し、十八日には宇都宮城を伺うところまで迫っていた。土方は宇都宮城争奪を決意し、十九日未明より動き始める。

 敵の主力が待ち構える街道を避けた土方は、間道を辿って砂田へと軍を進め、午前四時頃に、彦根藩の小隊を捕捉すると、いとも簡単にこれを撃破し軍を進めた。

 更に土方率いる別動隊は梁瀬に到着すると、軍を二手に分けることを選択する。伝習隊には城を迂回させて明神山から攻撃させ、更に近くの二荒山神社からは城に向けて砲撃を加えるよう伝えた。一方の土方自身は、桑名藩兵と新選組隊士を引き連れて、豪農の家に放火しながら進軍し、梁瀬橋を渡り更に寺町にも放火した。

 この時、土方は軍の指揮を一時、桑名藩の立見鑑三郎に任せて、単騎英巖寺に向かった。この寺の庫裏には、元老中の板倉勝静が軟禁されていることを知っていたからである。

 板垣勝静も、間違いなく徳川慶喜の犠牲者の一人であった。慶喜と幕府のために尽くしていながら、恭順の意思も最後まで聞かされず、突然罷免されたのでは、人間不信に陥ってもおかしくない仕打ちである。

 無事、板倉を救出した土方は、中河原門と下河原門を攻める桑名隊と合流し、再び攻城戦の指揮に戻ったが、双方の銃弾が飛び交い、なかなか城兵の抵抗が激しく、活路を見出せないでいた。

 土方は更に三の丸藩士邸にも火をつけ、城内の混乱を煽ったが、それでも突破口を見つけることが出来ない。

 戦況が動いたのは、午後二時を回った頃である。二荒山神社の砲兵が発射した砲弾が、二の丸御殿に着弾し、大きく燃え広がったのである。

 土方はこれを好機到来とみた。燃え盛る炎と煙を味方に新選組隊士と共に抜刀し、桑名兵の銃撃を掩護にして、城門へと攻め寄せたのである。これに驚いた城兵は大混乱に陥り、遂に城門が破られてしまう。

 この時、城内にいた東山道総督府参謀を務めていた有馬藤太は、大軍監・香川敬三に進言した。

「このままでは犠牲者が増えるばかりです。今、城を死守することに拘るべきではありません」

「しかし、城を捨ててどうしろと言うのか」

 香川は狼狽しながら有馬に問うた。

 香川は二日前に、小山で大鳥率いる本隊に散々に打ちのめされたばかりである。今度は逃れてきた宇都宮城で、土方率いる別動隊に落城の危機に追いやられているとあっては、立場がないのだ。もともと、香川は勤王の水戸脱藩浪士の一人ながら、岩倉具視との関係から、こうして大軍監にのし上がっているだけの人物に過ぎない。

「古河方面には、薩摩と土佐の援軍が向かっている、という報せが届いております。その援軍は精鋭です。一旦は、それらと合流し、城の奪回を図りましょう」

 事実、総督府では、香川率いる彦根藩軍が、小山において大鳥率いる旧伝習隊に大敗を喫したことを、重く受け止め援軍を派遣していた。

「止むを得まい。直ちに脱出しよう」

 有馬の助言を受け入れた香川が、城を脱出したのを見届けた城兵としては、城の防衛に拘る必要は無くなった。ましてや、城の各方面で火の手が上がっており、手を付けようがなくなっている。彼らは次々に城を放棄し舘林へと逃れていった。

 こうして、土方率いる別動隊は、一日の攻防で宇都宮城を落城させたが、方々での放火と砲弾による引火で、城下諸共火の海とあっては、城内に止まることが出来ない。その日は郊外の蓼沼に宿営することになった。

 土方軍が再び宇都宮城下に姿を現したのは、ようやく鎮火の目途が立った翌二十日のことである。街中に焦げた匂いが充満する中を入城し、一刻遅れで大鳥率いる本隊も合流した。

 前日、東の空高く黒煙が舞い上がるのを見た大鳥は、宇都宮城で攻防戦が行われていることを察知したが、戦況は分からない。その夜、土方からの伝令で城の落城を知り、駆けつけることになったのだ。

 入城した大鳥と土方らは、焼け残った家老屋敷を本営とし、城内の焼け残った城内を探索したところ、米蔵に三千俵もの米俵と、本丸倉庫に金三万両を発見していた。

 言う間でもなく、大勢の軍を率いるために必要なのは、第一に兵糧、そして次が軍資金である。土方と大鳥が喜ばないはずはない。一方、土方は特に昨日の戦闘で放火を命じた負い目がある。大鳥と相談のうえ、土方は焼け出された民に対し、米俵の多くを分け与えることにし、また将兵に対しては庶民への乱暴狼藉を固く禁じた。

 しかし、連戦連勝の旧幕軍が日の出の勢いで、薩長軍を追い詰めることが出来たのもここまでだった。

 翌日、更に壬生城攻略を期して宇都宮から発した旧幕軍は、先ず、敵の安塚に構えた陣営に攻撃を加えるが、連日の戦いによる疲労と折からの豪雨によって、決定打を与えるには至らなかった。そこに壬生城から討って出た鳥取藩兵の挟撃に遭ってしまったから、堪らない。旧幕兵は宇都宮城に向けての撤退を余儀なくされてしまった。

 この勝利を好機とみた薩長軍は二十三日を、宇都宮城奪回の日と定め、早朝から宇都宮に向けて進軍を開始した。

 戦闘が開始されたのは午前九時である。城を守る旧幕軍も籠城しているわけではない。要所・要所に兵を配置し、薩長軍を迎え撃ったために、戦況は一進一退を繰り返し、趨勢が定まらないまま午後三時を迎えた。

 この時、戦況を一変させたのは、結城から援軍として回った伊地知正治率いる軍勢である。伊地知は敵が手薄とみた城南から攻め寄せ、旧幕軍を城内へと追い詰めた。更に旧幕軍を不幸が襲う。

 松が峰門口を守備していた土方歳三が、敵の銃弾を受けて、足の指を負傷してしまい、戦線離脱を余儀なくされてしまったのだ。副将でありながら、大将以上の影響力と指導力を発揮する土方が不在となった今、旧幕軍の士気低下は避けようもない。

 ここで、総督・大鳥圭介は城の防衛よりも、兵士と武器弾薬の消耗を考え、城を捨てて軍を立て直すことに方針を転換する。

 大鳥が、負傷した土方を駕籠に乗せて、向かった先は日光山だった。日光山は言うまでもなく、家康を祀った東照宮を抱える徳川の聖地である。

 大鳥は山内の御坊や院などに分宿させ、山を根城に籠城戦を企てようとした。

 これに異を唱えたのは、土方によって救出された元老中の板倉勝静であり、多くの院僧である。兵士の宿所として利用されるのは一向にかまわない。しかし、日光山自体が御神体というべき聖なる場所であり、この地を戦いの血で汚し、華麗荘厳なる建築物を焼失破壊されることは、院僧にとって身を割かれる思いだったに違いない。

 同じように、日光攻撃の総司令官である土佐の板垣退助にも、院僧からの願いが届いている。板垣は大鳥率いる旧幕軍の動向を見守りつつも、あくまで山内での交戦は慎むことを、早々に約していた。

 大鳥が日光山での籠城を断念し脱出を指示したのは、四月二十九日のことだった。前日には、土方ら負傷者と新選組を馬や駕籠に乗せて、会津に向けて出立させている。

 大鳥が次に兵を向けた場所は、敵が守備する要所今市だった。


(第二十八話『七ケ宿会談』に続く)

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