第26話 会津追討令
四月に入ると、平馬のもとに各方面から、様々な動向が伝わってきていた。
第一報は江戸からである。公用方の広沢富次郎が、和田倉門の獄舎に幽閉されてしまったというのだ。
「広沢は薩摩の参謀である海江田武治とは旧知の仲であることから、彼を通して西郷との面談を申し込んだだけではなかったか。それが何故、獄舎に」
梶原平馬は最初、自分の耳を疑ったが、やがて事情を察すると、憤怒の気持ちが込み上げてきた。
西郷隆盛は大総督府に表れた広沢富次郎を、問答無用で捕縛したのだ。手段を選ばない西郷が、会津藩の有為な人材を一人でも帰国させるわけにはいかない、と判断したことは疑いようがなかった。
平馬は広沢という自らの右腕となる男を、みすみす敵に差し出すことになってしまったことを悔んでいた。
『西郷という奴は、手段を選ばぬ非情な男であった』
平馬は、西郷の人間性を甘くみた自分を恥じ、藩主喜徳と容保に深く詫びた。
それから数日後、更に江戸から残念な報せが届いた。
それは新選組局長である近藤勇が捕縛されたという報せだった。新選組は甲陽鎮撫隊と改名し、甲州に進軍したが、勝沼で土佐藩の乾(板垣)退助率いる迅衝隊に敗退したらしい。その後、再起をかけて流山に移動したところで、攻囲されたため逃れることを諦め、土方の必死の制止を振り切って、大久保大和と名を偽り、自ら薩長軍に投降したというのだ。
その後、土方率いる新選組は、北関東方面に移動したという。近藤という氏素性が明らかになれば、長州から恨みを買っている以上、斬首は免れまい。近藤はそれを覚悟のうえで、他の隊士を守るため投降したに違いなかった。
仙台では、下参謀として着任した長州の世良修蔵が、傍若無人の振る舞いで、多くの仙台藩士から反感を買っているらしい。傲慢な態度で、我が世の春と言わんばかりに、城下を徘徊する様子に、歯噛みをして悔しがる者は数知れず、とのことだ。
麾下の薩長兵も同様である。飲食代の踏み倒しはもちろんのこと、気に食わなければ
その仙台で動きがあった。
四月七日、仙台藩主・伊達慶邦に対し、奥州鎮撫総督府の世良修蔵から、遂に会津追討令が発せられたのである。
もちろん、仙台藩には会津に刃を向ける気もなく、その理由もないことは分かっている。會津藩も同様である。
しかし、その仙台藩では既に会津国境に向けて進発を開始したらしい。
「我が藩も出兵し、先ずは様子を探る他あるまい」
容保が出した結論だった。
會津藩の野村監三郎と仙台藩の瀬上主膳が、国境の土湯峠で密かに接触し、双方戦闘の意思がないことを確認したのは、四月十九日である。翌日には仙台藩軍監の姉歯武之進が會津藩の隊長・一柳四郎左衛門を訪ねて、双方「空砲」を撃ち合うことで合意を取り付けていた。
戦地での動きと併せて、仙台藩は会津・鶴ヶ城に使者を派遣し協議を求めた。使者は若生文十郎と横田官平の二人である。会津藩の応接役は公用方の手代木直右衛門だった。
会談は先ず、横田による出兵の経緯説明から始まった。
「既にご承知のこととは存ずるが、我が藩は貴藩に対し、同情の気持ちこそあれども、戦う意思など毛頭ござらぬ。ただ、総督府の命とあっては、形ばかりでも出兵せざるを得ず、此度の仕儀と相成りました次第。どうか了見くだされ」
「それを伺い安堵いたしました。我が藩といたしましたも、貴藩と争うことなど、全く望んではおりませぬ。それにしても、総督府とやら、貴藩に一方的に命ずるなど、あまりにも無謀な手口でございませんか」
手代木直右衛門は、仙台藩の本音を引き出そうと、仕掛けてみた。
「総督府などという尤もらしい名前で、我らに命を下しているのは、奇兵隊出身を鼻にかけているような、長州の世良修蔵なる成り上がり者でございます。世良の乱暴狼藉には多くの藩士が反感を持ち、奴を斬ろうと息巻く者を何とか宥めている次第。何とも始末の悪い奴が来たものと、藩公以下一様に閉口しております」
「薩長も、それだけ人材が不足している証です。貴藩の御事情、お察し申し上げる」
直右衛門は平馬から聞いている話との
「本日、こうしてお伺いしたのは、事情説明の他に、もう一つの目的があってのことでございます」
次に口を開いたのは、若生文十郎だった。
「はて、それは如何なる話でございましょう」
直右衛門は、
「貴藩に対する恭順の提案でございます」
「もとより我が藩は、戦をする気はございません。但し、薩長の輩が、何が何でも我が藩を討伐すべし、というのであれば話は別でござる。受けて起つ他ないと苦渋の決断をせざるを得ません」
直右衛門の気迫に押されながら、若生文十郎は続ける。
「ならば、我が藩が謝罪嘆願を取り次ぐと言えば、貴藩は応じてくれるということですな」
「もちろんです。但し、無条件とは参りませぬ。貴藩なりの腹案をお持ち下さっているとお見受けしました。どうぞ、遠慮なく述べて下され」
「ならば申し上げる。一つは肥後守殿の謹慎、二つ目は領地削減、三つめは鳥羽伏見の合戦の首謀者の首級を差し出す、以上の三点でござる」
「確かに承りました。むろん、我が一存にてお応えは出来かねる大事にて、あらためて会談を持つということでは如何でござろう」
その提案は、直右衛門の大方の予想と合致した内容だった。
「願ってもないこと。実はこの話は米沢藩にも声をかけており、是非協力したいとの回答を頂いております。来る二十六日、我が領内の七ケ宿での会談、ということでは如何でしょうか」
「承知仕りました。それまでに藩論をまとめることにします。くれぐれも藩公に宜しくお伝えくだされ」
このように回答して、仙台藩の使者両名を丁重に送り返した手代木直右衛門であったが、その後藩論が一つに纏まることはなかった。一番の論議は「戦の首謀者の首級を差し出す」ことの是非だった。
激論は三昼夜に及ぶも、意見が分かれて結論が出ず、藩の代表として出席する梶原平馬に全権委任することになった。
総督府から追討令が出された以上は、會津藩には、手を
会津・鶴ヶ城は山々に囲まれた盆地に位置しており、守り口は山の数分だけあると言っていい。首脳の苦悩は、約七千の兵士をどこに何人配置するかであった。もちろん、本営たる鶴ヶ城を空にするわけにもいかない。抗戦にするに十分な兵力ではない以上は、考え得る限りの適正配置が求められた。
しかし、適正配置などという概念は、過去の経験則や客観的数値があって初めて、成り立つものである。過去二百年数十年にわたり、国内戦など皆無の泰平の世が続いた以上は、あって無きに等しいものだった。
結局、守備口を五カ所に絞り込み、それぞれに配置人数を割り振るしかない。それは白河口・越後口(津川口)・大平口・米沢口、そして日光口だった。それぞれの配置時期や人数の変動はあるものの当初決めた人数は次の通りである。
先ず白河口には、一千三百人を割くことにした。総督は西郷頼母とし、副総督には横山主税を任命した。白河は奥州の入り口であり、白河城を死守することが生命線といってもいい要所である。
そのような重要拠点に、何故、戦経験のない二人に大役を任命したのか。藩に残る門閥主義か、はたまた容保の頼母に対する温情かは、今となっては分からないが、これが後に大敗を招き、会津侵攻を早める結果を招くことになる。
越後口にも、同じように一千三百人と決めた。総督は一瀬要人である。この中には古屋佐久左衛門率いる衝鋒隊の一部も含まれている。古屋は去る三月二十二日に会津に入り、容保に謁見後越後へと兵を進めていた。
なお、越後に入った古屋佐久左衛門は、開港以来、急速に発展する新潟の街の治安維持を目的と銘打って、村上・新発田・黒川・三根山・村松に長岡を加えた越後六藩同盟を結ぶことに成功している。
大平口には七百人を配置し、総督は原田対馬とした。米沢口は百人とわずかである。
最後が日光口の一千三百人である。ここには山川大蔵を配置すると決めたが、後に旧幕軍・伝習隊の大鳥圭介が総督となる。日光口も白河口と同様に破られるわけにはいかない、何が何でも死守しなければならない南の玄関口である。
これらの五カ所に配置されたのは、朱雀・青龍といった會津藩の精鋭が中心である。藩首脳が防衛線を如何に重要視したかを、物語る配置ではある。
しかし、これは裏を返せば、本営・鶴ヶ城を守る中心部隊が、玄武や白虎といった、当時で言えば高齢者と経験もなく年端もいかない若者が、本営を守備することを意味する。
もしも、いずれかの要所を一点突破されて、会津に攻め込まれた場合の守備態勢を考えた場合は、実に脆く危険を伴うものであった。そして、やがて、これが現実のことになってしまうのである。
このように會津藩が構築した藩境防衛網は、当初から数々の不安要素を抱えたものであり、最新銃砲を武器としたうえに、実戦経験を積み重ねた薩長軍に抗することは、至難の業だったことは間違いない。
藩首脳の念頭には、第二次長州征伐における長州軍の勝利があったはずである。長州藩も当時、軍勢を藩境の五カ所に集中させて当時の幕府軍を撃破している。しかし、長州と會津では、決定的な違いが三点ある。
第一に、會津には残念ながら、高杉晋作や大村益次郎を筆頭とした有能な戦の指揮官がいないということである。唯一、山川大蔵が異彩を放つのみである。これも門閥主義の明らかな弊害というべきであろう。
第二に、長州は坂本竜馬が仲介となって、薩摩から英国製のミニエー銃を代表とする、大量の新兵器を入手できていたこと。対する會津は旧式のゲーベル銃である。
そして、最後に言えることは、長州征伐においては、寄せ集めでしかない幕府軍の戦意が明らかに低かったことである。確かにこの段階において、會津兵の戦意は長州征伐の時の長州藩士と同じくらい高い。しかし、残念ながら、この時の敵となる薩長軍の戦意も極めて高かった。何せ、新政府の下での自身の立身出世が、この戦いで決まるのであるから、当然のことでもあった。
いくら戦意が高い會津藩兵であっても、士気だけで戦を制することが出来るほど、近代戦は甘くない。そのことに、どれだけの藩首脳や隊長級が気づいていたのであろうか。
しかしながら、今更、このことを後世の我々が論じ、憤ることに何ら意味はない。例え負けることに気づいていたとしても、命の限り會津藩の士魂を体現し、自らの忠義と至誠を後世に残すことこそが大義、と信じて戦いに殉じた多くの将兵と婦女子の姿に、我々は百五十年以上の時を越えて尚、感涙を禁じ得ないのであるから。
(第二十七話『宇都宮城の攻防』に続く)
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