第25話 軍制改革

「遅い、動作をもっと早く。それでは薩長如き奸賊に負けてしまうぞ」

 会津鶴ヶ城本丸内の広い馬場に大声が響き渡る。声の主は先日、別選隊を率いて帰国したばかりの鬼官兵衛こと、佐川官兵衛である。朱雀すざく隊と名付けた會津藩精鋭部隊の、フランス式歩兵調練を任されていた。

 その大きな声を耳にしながら、会津鶴ヶ城・本丸御殿の一室には、四人の姿があった。

 容保と藩主となった養子の喜徳、それに今や若き主席家老として八面六臂の活躍をみせ、容保の絶対的信頼を勝ち得ている梶原平馬と、砲兵隊長の山川大蔵である。

「どうやら、江戸では戦わずして、城を薩長に明け渡すことが決まったらしい」

 容保が口火を切って、江戸の様子を二人に報せた。慶応四年(1868年)三月十四日、西郷隆盛と山岡鉄舟や勝海舟の交渉によって、江戸城は無血開城となることが決定した結果、江戸の街は戦火を免れることになっていた。

「いよいよ、我が藩に攻め入るということですね」

 山川大蔵の言葉に、容保が頷いて続けた。

「既に奥州鎮撫総督府なるものが設立されたらしい。近々参謀が仙台に上陸するという噂だ」

 長州の世良修蔵が下参謀として、松島に上陸するのが、三月十八日のことである。

「但し、仙台藩と米沢藩は、当初より我が藩に同情的であり、直ぐに攻め込んでくるとは考え難い状況にあります」

 無事、購入した武器弾薬を会津まで運び入れた平馬は、秘かに仙台と米沢の様子を探っており、確かな筋からの情報と言えた。更に平馬は続けた。

「特に米沢は、土津公以来の御恩を忘れておらず、鎮撫総督府に対して、我が藩の救済嘆願を働きかけてくれる、と約束してくれております」

 米沢藩は戦国の雄・上杉謙信を藩祖とする名門である。豊臣時代には会津百二十万石の大大名として名を馳せたが、関ヶ原の役では西軍に味方したとして、米沢三十万石に減封されている。更に第四代藩主・綱勝の急死によって、御家断絶の危機を迎えたことがあった。

 当時、跡継ぎを決めないまま藩主が亡くなった場合は、御家取り潰しが一般的であった。この米沢藩存亡の危機を救ったのが、藩祖である保科正之だった。正之は、綱勝の妹の子である後の綱憲を、末期養子として迎えることを幕閣に承認させ、家名存続に一役買っていたのだ。以来、米沢藩は十五万石への減封とはなったものの、二百年以上の時を越えても尚、会津への恩義を忘れることはなかった。

「土津公の御威光が今も尚、輝き続けているとは何と有難きことであろう。くれぐれも米沢には宜しく伝えて欲しい」

 容保は平馬の目をしかと見て、頷きながら言った。

「承知仕りました」

「そう言えば、庄内藩の動向は耳にしておるか」

 容保が思い出したように言った。庄内藩も、薩摩藩邸焼き討ち以来、會津と同様に逆賊の汚名を蒙っている。

「はい。家老の松平権十郎殿が意気盛んでございます。會津に庄内、それに米沢と仙台が加われば、怖いものはない。他の東国諸藩も追従するに違いない、と息巻いている様子。実に頼もしきお仲間でございます」

「確かに、それは頼もしき限りだ。その後、広沢からは何か連絡はないか」

 容保の質問は、江戸に残してきた広沢富次郎のことである。

「未だ、何の連絡もありません。薩摩藩旧知の海江田武治と接触を図ると言ってきたままですので、機会を探っているものと思われます」

「戦を避けられるに越したことはない。しかし、その確率は極めて少なかろう。我らは粛々と抗戦の準備を進めるしかあるまい。砲兵隊の方は如何だ」

 その容保の言葉は、山川大蔵に向けられたものだ。山川が指揮する砲兵隊も、江戸滞在中にフランス仕官であるブリューネやシャノワンからフランス式砲術を学んでいる。

「日々、調練に励んでおり、大砲の扱いにも慣れて参りました」

「お主には、日光口か白河口いずれかの、最重要拠点を守って貰うことになろう。くれぐれも頼んだぞ」

 平馬は敢えて新旧両藩主の前で督励することで、大蔵に対して士気高揚を図ったつもりだった。

「軍制改革の効果はどうだ。調練は上手くいっておるか」

 容保の問いに対し、平馬は自信をもって頷いた。新軍制を指揮したのは梶原平馬である。兵を全て洋式に改め、各隊は動きの統一性と均一性を重視する観点から、年齢群毎に編成した。また、兵は武士に止まらず、町農兵も募集したところに、これまでの身分制に拘ってきた会津とは一線を引く、画期的な改革だった。

 主軸となる十八歳から三十五歳の一千二百人で構成する朱雀隊、三十六歳から四十九歳の九百人で構成する青龍隊、五十歳以上の四百人で構成する玄武隊、これに十六歳と十七歳の三百人が白虎隊と名付けられ、それぞれの場所で調練に励んでいる。これらには砲兵隊と遊撃隊が加わり、約三千人という正規軍である。

 これに募集して集まった農兵町兵合わせて三千人、更に猟師隊・修験隊・力士隊を合わせて一千人になった。つまり、総勢約七千人という軍勢規模で、薩長軍を迎え撃つことになる計算だ。

 この陣容に、容保と喜徳は満足そうに頷いた。遅まきながら整えた薩長並みの西洋式軍制への改革に、武器弾薬の調達、七千という軍勢規模である。体裁が整ったのだから、喜び安心するのも無理はなかった。

 しかし、ここには後に大きな失態となる、三つの落とし穴が潜んでいた。

 先ず、会津に不足しているのは、戦に長けた熟練指揮官の不在である。この時、この落とし穴に気づき、一抹の不安を抱いていたのは、残念ながら山川大蔵ただ一人であった。

 二つ目は入手した銃の性能である。會津藩が購入した銃の多くは旧式のゲーベル銃であった。球形の弾丸であり互換性は高いが、放物線を描いて飛ぶために命中率は低く、射程距離も短いのが欠点である。それに対して、薩長が使用していたのはミニエー銃であった。椎の実形の弾丸で銃口よりも小さいので装填がし易く、命中率の高さや射程距離の長さでは、ゲーベル銃の比ではない。戦う前から勝敗は、既に決していたと言えるかもしれない。

 そして、三つ目が兵の数である。今度の戦いは防衛戦であり、どこから攻め入ってくるか知れたものではない。まして、会津は山々に囲まれた盆地であり、極端なことを言えば山の数だけ相当数の兵と武器が必要とされるのだ。とても、七千の兵数で藩境を守り切れるとは思えなかった。この点については、さすがに平馬も認識してはいたが、ない袖は振れるわけがない。ここは自分たちの戦略と運に賭けるしかなく、その実態は最初から綱渡りでしかなかった。


(第二十六話『会津追討令』に続く)

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