第20話 不本意な東帰
「上様、おかしくはありませんか。極秘の会議と聞かされて城を出ましたが、船ははるかに陸を離れて南進している様子ですぞ」
容保は異変に気づいていた。六日の晩に城を出た時から、どうも様子がおかしいとは思っていた。港に着くと開陽丸は停泊していない。最初に乗船したのが、アメリカの軍艦「イロコイ号」だった。そこで会議に臨んでもよさそうなものだが、慶喜からの返答は決まって「開陽丸でなければならぬ、もう少し待て」の一点張りだった。
アメリカ艦の船内では、異国に情報が洩れることを恐れてのことかと、その時は納得せざるを得なかった。
ようやく、開陽丸に乗船出来たので、早速会議かと思いきや、今度は慶喜の姿が雲隠れしたように見当たらない。艦長の矢田堀鴻の姿は艦内になく、副艦長である澤太郎左衛門を、ようやく捕まえて確認したところ、慶喜は船内の一室に閉じこもったままだという。
そうしているうちに、船は大坂湾をみるみるうちに離れて、暗闇の中、速度を上げて沖へと向かっているではないか。既に八日を迎えた頃であろうか。會津の藩兵は、今頃どうしたものか、と騒ぎ立てているに違いない。
船室から出て来た慶喜は、詰め寄った容保の第一声に観念したかのように、一言告げた。
「越中守、それに老中と若年寄を呼んで欲しい。今から話をする」
あらためて集められた船内の一室には、容保や定敬、そして板倉勝静と永井尚志が顔を揃えている。
慶喜の口から発せられた一言は、想像すらしていない驚きの内容だった。
「薄々は感づいておろうが、この軍艦は大坂には戻らぬ。江戸向かっているのだ」
「上様は我らを騙したのですね」
容保は怒りを堪え拳を握り締めたまま、努めて冷静に話したつもりだが、さすがに声の震えは抑えられなかった。
「済みませぬ。上様は上方での戦は不利と判断されました。江戸で軍勢を立て直し、再起を期する予定と伺い、我らは命に従いお二人をお連れした次第でございます」
板倉勝静が代表して、何も知らずに連れて来られた容保と定敬に詫びた。
「我らに詫びるは筋違いでございます。詫びる相手は、今も我らの帰りを待ちわびて、出陣の用意をしている藩兵ですぞ。今からでも遅くはありませぬ。さあ、船を大坂にお戻し下され」
珍しく、定敬が憤りを抑えきれずに大声で叫んだ。
「それは出来ぬ」
慶喜が定敬の要求を、一言できっぱりと跳ね除けた。
「何故でございます。我ら二人に再戦をお許しになったのは、どなたでございますか」
今度は容保が定敬に代わって質した。
「前向きに考えよう、とは言ったが許すとは言ってはおらぬ」
「それは詭弁と言うものです。我らは納得出来ません」
定敬が更に声を荒げた。
「あの時、ああでも言わねば二人は応じてくれなかったであろう。興奮して血気に逸る輩と、二人を切り離すにはこうするしか方法はなかったのだ」
慶喜は覚悟を決めたかのように言い放ち、定敬の大声にも動揺することなく二人を見据えた。
「少なくとも、我らはこれまで、上様をお支えして参った忠臣と自負しております。その二人をこのように騙して戦線を離脱させるなど、到底受容出来る話ではありません」
容保も譲るつもりはない。
「全ては大義のためだ。許せ」
「いいえ、許すことなど、到底出来るはずがございませぬ。上様にとって、その大義とは何でございますか」
定敬も収まるはずがない。
「畏れながら帝に忠誠を尽くし、国を正しき方向に導くことだ」
「それは我らとて同じこと。それ故に、畏れながら薩長如き奸賊から幼帝を奪い返し、新たな体制で政事をなさんとしたのではございませんか」
帝の御名を出されて、容保が黙っているはずがなかった。少なくとも、亡き孝明帝は慶喜の口先だけの忠誠など、少しも信じてはいなかったのだから。
「それも、既に過ぎ去ったことだ。予に残された途は唯一つ。蟄居謹慎のうえ恭順の姿勢をお示しして、帝と朝廷に対し奉り反逆の意思なきことをひたすら訴えるしかない」
「お待ちくださいませ。上様は江戸にて再起を図るのではございませんか」
その慶喜の言葉に驚いて口を開いたのは、板倉勝静だった。慶喜が東帰するのは、東国の藩をまとめ、軍用艦と全洋式兵隊を揃えて、薩長軍を迎え撃つことだと、今の今まで信じて疑っていなかったからである。
「それも其の方ら二人が勝手に思い込んでいただけであろう。予は一言も再起の話はしていない」
「どうやら、側近であるはずのお二人すら、上様には騙されていたようですね」
今回のまさしく逃避行の全体像がようやく吞み込めた容保は、板倉・永井の二人にも同情するしかなかった。この慶喜という江戸幕府最後の将軍は、助命嘆願と自分中心の身勝手な名誉のためだけに、側近や忠臣をも
もちろん、慶喜の非情さは今に始まったことではない。これまでも、容保自身が何度煮え湯を飲まされてきたかは、数え切れないほどである。
徳川宗家の頂点に立つ方として、これまで自分が血の滲むような努力と忍耐を重ねて支えてきたのは、実に無責任で自己保身の塊のような、武士の片隅にも置けぬ情けない御方だったのだ。
その現実をあらためて認識した瞬間に、これまで築き上げてきた全てが、容保の心の中で音を立てて崩れていく気がした。このように、人の心が欠落した慶喜に対しては、もう何を言っても無駄だと悟った容保は、ただ口を閉ざすだけだった。
「しかし、江戸に戻れば、再起を促す方々も多くいるはずです。今、そのようなお話をお伺いしても、我らには判断いたしかねることです」
板倉はこの一言を発するだけで精一杯だった。永井は何も考えられずに茫然と立ち
船外からは、船腹に当たって砕け散る波の音だけが、微かに物悲しく聞こえるだけだった。
(第二十一話『主戦と恭順』に続く)
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